ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ロードスのアクロポリスへ … わがエーゲ海の旅 (14)

2019年08月25日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

 BC10世紀ごろというから、ほとんど神話的な時代のことだが、ドーリア人がロードス島に侵攻してきて、初めにリンドスを建設した。

 ロードス市の建設はBC5世紀ごろで、古代においては新興都市であった。

 ロードス島の中心はリンドスからロードスへ移っていき、ヘレニズム時代に最も栄えた。「世界7不思議」の1つの巨像もつくられる。

 ローマ時代には、「アテネと並び称された哲学の最高学府があり、キケロもカエサルもブルータスも、そして二代目の皇帝になったティベリウスも、若い頃にここに学びに訪れた」 (『ロードス島攻防記』) という。

 古代のロードス市の中心は、今の「旧市街」ではない。世界遺産になっている現代の「旧市街」は、聖ヨハネ騎士団の時代の「中世都市」である。

 古代ロードスのアクロポリスは、『地球の歩き方』の小さなマップを見ると、旧市街から南西方向へ、新市街のさらに向こうの郊外の丘(山)である。

 『地球の歩き方』には、「スミス山 ─ 古代ロードスのアクロポリス」という表題で、わずか数行の説明があるだけだ。 

 「ロードスに残るわずかな古代遺跡」。

 「馬蹄形をした古代スタジアム小さな古代劇場、そしてアポロン神殿がある」。

 「敷地内にアクロポリス資料館があり、…… 頂上からは島の先端やエーゲ海が見渡せ、美しい夕日が見られることでも有名」とある。

  だが、この時期、日没は午後8時頃。昼間でも行きにくい人里離れた遺跡の丘へ、そんな時間に行くのはムリと、「夕日」は早々にあきらめた。

 それにしても、なぜ「スミス山」などという無粋な名が付けられたのだろう。この遺跡の発見者の名だろうか??

 ネットで調べても、ウィキペディアも含め、この遺跡についての学術的な説明はほとんどない。

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ロードスのアクロポリスを歩く >

 『地球の歩き方』には路線バスもあるように書いてあるが、期待できない。たぶん、地震で「アクロポリス資料館」はクローズ。ゆえにバス路線もそこを通っていない。

 旧市街から歩くと30分という情報もあった。それは道を知っている若く元気な人の場合だろう。

 歩くとしたら、帰路。往路で土地勘もでき、それに、帰りは下りの道だから多少は楽。往路はタクシーにしよう。

 タクシーが住宅街を抜けると交差点はなくなり、ただ一本の道路が、木々と雑草の生い茂る中を蛇行しながら斜面を上がっていく。

 「この左手のあたりだよ」と、運転手は車を止めた。道路の左手は、樹木の生えた草むらがあるばかり。道を尋ねても、運転手も詳しいことは知らないようだ。

 来る途中、「帰りが大変だよ。待っていようか」としきりに誘われたが、「歩いて帰る」と断った。

 草深い丘(山)の上の遺跡で、どれくらい時間を要するか、見当がつかない。それでも、せっかく訪ねたのだから、そこがどういう所かということは見て、納得してから帰りたい。待たれていると、気持ちが落ちつかない。

 「徒然草」に、石清水八幡宮に参詣に行って、山上に本宮があるとは知らず、麓の寺社だけ参拝して帰った仁和寺の法師の話がある。帰ってから、周りの人に、「話に聞いていたより尊く立派な神社だった」と言ったという。── わざわざ日本からやってきたのだから、仁和寺の法師にはなりたくない。

 車を降りた所は、草山の中腹の上部で、人けもなく躊躇したが、とにかく草の中に細い道があったので、分け入った。

 するとほどなく小高い所に出て、下を高校生ぐらいの生徒たちが歩いていた。歴史学習だろうか?? 

 目の前にあるのは、石の観客席だ。

 アテネのアクロポリスの丘から眼下に古代の劇場(音楽堂)を見下ろしたが、あの劇場を小ぶりにしたような施設だ。これが「小さな古代劇場」だろう。

 そして、古代劇場のすぐ下、生徒たちが歩いているところが「馬蹄形をした古代スタジアム」だ。

   両方ともなかなかしっかりした遺跡である。ギリシャ時代のものだろうか?? ローマ時代のものかもしれない。

 そこまで降りてみようかと思ったが、それは帰りでよいと考えて、もう少し上へ上がってみた。

 登りの斜面の草むらの中を1人、或いは、2、3人連れで歩いている見学者もいる。人のことは言えないが、もの好きな歴史愛好者はどこにでもいるものだ。

 すぐに見晴らしの良い所に出た。 

 「小さな古代劇場」と「馬蹄形のスタジアム」の先には、オリーブや樫の木のこんもりした原っぱが続き、その向こうに町があり、さらにその向こうは海と空。

 古代の人々は、こういう海を望む丘の劇場で、観劇を楽しんだのだ。

 その後、西欧を支配したキリスト教的な世界観・人生観からは生まれてこない文明の姿だ。

 さらに登ると、奇妙な塔のようなものが立ち、礎石がまわりに広がっていた。

 ここが、「アポロン神殿」の跡だろう。リンドスのアクロポリスほどに海に屹立しているのではないが、ここもまた、海を望むアクロポリスの神殿である。

 塔のように見えたのは、幾本かの神殿の石の柱だ。

 柱を囲っている鉄骨状のものは、工事用ではない。石柱が倒れないように、こうして支えているのだ。遠くない過去に、地震で崩壊しそうになり、人工的に支えているのだ。

 イスタンブール(コンスタンティノープル)のアヤ・ソフィアがそうだった。夢枕獏の『シナン』を読んで、「神を感じることのできる場所」を期待して行ったアヤ・ソフィアだったが、側廊の半分近くが鉄骨の骨組みによって支えられていて、正直、がっかりした。

 アヤ・ソフィアはともかく、長い時間のなか、かろうじて残ったアポロン神殿の2、3本の石柱を、こうまでして立たせておかねばならないのだろうか、と思った。これでは、古代の神殿の威厳というものが全く感じられない。

 倒れて草むした石をそっと撫でてあげる方が、古代の神殿にふさわしい遇し方ではないだろうか。

   アテネの遺跡のことであるが、饗庭孝男は『石と光の思想』(勁草書房)にこのように書いている。

 「アクロポリスの丘の上には、タンポポの黄色い花が、廃墟の白い石柱の崩れた破片の蔭に咲き乱れ、その花のあいだを褐色の小さな蝶が飛び交い、パルテノン神殿の壮大な世界の上には、限りなく広い空が拡がっていた

 私はまた、ゼウスの神殿の前の青草に寝て、絶望的なほどにまで青くみえる空を眺め、カミュが、自然の世界はつねに歴史に勝つことに終わると述べた言葉を思い出していた。… 」。 

 「廃墟に白い花のごとく見える神殿の石柱の破片を今もなお人間の意志のあらわれと見ることができるだろうか?

 それらは半ばもはや自然の中に帰り、人間の痕跡を目に見えない形で風化させてゆく時間の歩みに埋没してしまっている。

 はるかな歴史の遠近法の中では、これらは死者の意味をもつよりも、もはや自然の意志 ── 人間の痕跡の奥にひそみかくれていた永遠ともいうべき ── のあらわれのようにさえ思われた。

 にもかかわらず、石の表面に、今はおぼろげにしかうかがわれない模様が私の魂をとらえて離さないのである。」(同上)  

         ★

 この丘に残る3つの遺跡を全部見ることができたので、海のそばの「中世の町」まで歩いて帰ることにする。

 「小さな古代劇場」の横を降りると、「馬蹄形をした古代スタジアム」に降り立つ。

 ローマのチルコ・マッシモやトルコのアフロディシアス遺跡の古代スタジアムなどと比べると、小ぶりで、「ベン・ハー」の戦車競技を行うのは無理かもしれない。しかし、人間のランナーが走るトラックとしてなら、現代の競技場としても遜色ない。観客席もある。

 スタジアムの下は、オリーブの木が植えられた原っぱだ。  

 遺跡のある場所にはオリーブの木を植えて、開発不可の公有地であることを示すのが、ギリシャのやり方のようだ。

 それにしても、人工の痕をとどめた石がごろごろと置かれているだけで、このあたり一帯にどのような建物が並んでいたのか、今は想像することもできない。

 一番高い所に神殿があり、その下に市民が集う劇場やスタジアムがあり、さらにその下に人々の住む街があって、海に臨む一つの都市を形成していたのだろう。

 ユリウス・カエサルも、ティベリウス皇帝も、若い日にこの町を訪れた。だが、それは遠い昔のことであり、今は茫々とした廃墟である。

 「かたはらに 秋草の花 語るらく 滅びしものは なつかしきかな」(若山牧水)

 古代ギリシャやローマの廃墟を見るたびに感じる感覚を、散文として書き表せば饗庭孝男の『石と光の思想』になるし、それを1行で言い表せば若山牧水の歌になる。

 日本列島に生まれた私たちにとって、山も、川も、樹木も、そしてまた、人間も、大きな「自然」の中のごく小さな一部に過ぎない。私たちは、「自然に(自ずから)~なった」という表現をする。全ては「自然」から生まれ、「自然」に帰していく。 

 緑のある遺跡の原っぱは心地よかったが、やがて原っぱが尽き、住宅街の中の道路を延々と歩くことになった。暑い日差しの中を歩きながら、これは年不相応の過酷なウォーキングだと思った。だが、他に手段はなく、ただ歩いた。

 途中、ご近所のおばあさんに、旧市街はこっちの方向でいいか聞いてみた。おばあさんは、とても丁寧で、やさしかった。土地の人々は、一般的な日本人と比べて貧しげだったが、秋草の花のようにやさしかった。

 旧市街の南側の、外城壁と外堀の外周道路にたどりつき、もう一度、旧市街の城門をくぐって、街の中へ入った。

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木陰のカフェで微風に >

 世界遺産の町とはいえ、騎士団長の居城やメインストリートのある町の北の賑わいと比べると、町の南の路地はさびれている。シーズンに入れば、もっと賑やかになり、店々も繁盛するのだろうか??

 イスラム教のモスクの手洗い場だったと思われる井戸の付近に、大きな樹木が生い茂って、涼しげな木陰をつくる広場があった。

 

 そこに、カフェ・レストランがあった。ここでひと休みしよう。

 「街の中では、どんな小路(コウジ)でも、いつもさわやかな微風が吹きかよう。汗をかいても、そうと気づく前に乾いてしまうのだった」(『ロードス島攻防記』)。

 この小さな広場の大きな木陰は、そういう場所だった。

 古びた黄色っぽい石積みの建物が、ロードスの旧市街の特徴だ。

 その建物の中がレストランだが、誰も屋内に入らない。

 それはそうだ。木陰のテラス席は本当に快適で気持ちがいい。時が過ぎるのを忘れるぐらいだ。

 もしわが家の近くにこんな気持ちの良い木陰のカフェがあれば、毎日、そこまでウォーキングして、1杯のギリシャコーヒーを注文し、1時間はうとうとと微風にあたっているだろう。仕事をしていた頃は仕事が面白かったが、今は、そういう生もあると思う。

 

 頑固そうなご主人が一人でテーブルクロスを替え、テーブル上に皿やさじを置いていく。にもかかわらず、小肥りの奥さんは椅子にでんと座って、…… 本を読んでいるのだろうか、スマホを見ているのだろうか? 手元から目を離さない。

 しかし、遠くからちゃんとお客に気を配っていて、追加の注文やお勘定や建物の中のトイレに行くときには、客の素振りだけでちゃんと反応する。プロフェショナルなのだ。

 1時間ものんびりと時間を過ごし、汗もすっかりひいた。

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ママ・ソフィアで夕食を >

 ほど良い時間になり、一昨夜の「ママ・ソフィア」で夕食を食べた。 

 今夕も、ソティリスさんの暖かいもてなしを受け、料理も美味しかった。

 店の名の「ソフィア」はおばあさんの名前。祖父母が店を開いたときは、ごくごく小さなタベルナだったそうだ。2人は懸命に働き、店を大きくしていった。

 2人の息子たちのうち長兄が跡を継いだが、弟も一緒にこの店をもりたてた。一族経営でやってきたのだ。

 年配のおじさんが愛想よく注文を聞き、料理を運んでいるが、この人がソティリスさんの伯父さんらしい。

 3代目世代の中では、一番年長のソティリスさんが跡継ぎのマスターである。「私が跡継ぎです」と、そのときだけはちょっと誇らしげだった。

 「奥さんが日本人なんですね」「はい。1年、日本に留学して、そのとき引っかけられました」(笑い)。

 奥さんの顔を見ないが、来る前に見た他の人のブログでは、奥さんもとても感じの良い人らしい。

 「日本人の方は、ロードス島にはあまり来られません」。「ツアーではなく、個人でやってきて、このお店にも寄るような日本人は、私もそうなのですが、塩野七生という作家の『ロードス島攻防記』を読んでやってきた人たちが多いと思いますよ」。「そうなんですか。知りませんでした」。

 「明日はアテネに戻り、明後日の飛行機で日本に帰ります。今までヨーロッパをあちこち旅してきましたが、こんなに美味しいと思ったレストランはありません。… もう年ですから、ロードス島に来ることはないでしょう。どうかお元気でお店を繁盛させてください」。「そんなことおっしゃらないで、また、お元気なお顔を見せてください。お待ちしていますから」。

 「ママ・ソフィア」を目指してロードス島にやってくる日本人のリピーターもいるようだ。こんなに親しく迎えられ、しかも美味しいのだから、遠い日本からのリピーターがいるのもわかる気がする。

 今日も、美しいお辞儀で見送られた。この薔薇の花咲く島へ、そして、「ママ・ソフィア」へ、もう一度来れたらいいなあ、と心の中で思った。 

 

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今宵もまた月の海 >

 旧市街の北の城門を見ながら、今日もまた海沿いに歩いてホテルへ向かった。

 黄昏の時間帯の空は、今宵も美しい。

 あれっ!! 今日も満月だ。エーゲ海の満月は3日も続くのだろうか??

   少女が2人、家族から離れて、ウサギのように月に戯れている。

 西欧の若い女性は、すでにこの年齢で、動作の1つ1つがモデルみたいだ。写真を撮るときなども、どういう角度で、どういうポーズをとったら自分が魅力的かをよく知っていて、すっとポーズをとる。そういうとき、テレとかハニカミはない。

 読売俳壇の選者の正木ゆう子さんの句から

  「水の地球 すこしはなれた 春の月」

   私も、真似をして駄作を。

  「ビーナスの 生まれし海に 春の月」

       ★

 明日はアテネまで戻り、明後日の早朝の飛行機に乗って、ミュンヘン経由で帰国する。

 今日はよく歩いた。なんと2万2千歩!! しかも腰痛も膝痛もほとんどなく、なかなかである。   

 

 

 


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