何か書いてみたいと思うとき、偶然に輝く言葉に遭遇することがある。

探すほどに見つからなかったのに、偶然頭の中の定置網に掛かったようだ。

 

華やかで煌びやかなものもあるが、どちらかというと、

私はちょっとくすんだ言葉に惹かれる。

 

見つけたのは、五年前の国連サミットで採択された、

「持続可能な開発のための二〇三〇アジェンダ(政策課題)」の合言葉、

「誰一人も置き去りにしない」。

 

この「誰一人も置き去りにしない」に妙に惹かれた。

美しい国を作ろう、助け合おうなんていう「上を向いて歩こう」的なポエムではなく、

足元に目を向けて、誰にも拾ってもらえない折り鶴を手に取る絵が見える。

 

ナミダガコボレナイヨウニ踏ん張って上を目指すことも大切だろう。

でも空ばっかり見ていると、路上に落ちた美しい折り鶴に気づかない。

気づかないばかりか踏みつけてしまう。

 

生活はどんどん便利になっていく。その代償として時間が足早に不足している。

安価な折り紙の鶴なんて壊してもまた買えばいい、なんて思っていないだろうか。

 

思えば、今まで数多くの折り鶴を踏みつけていた。

実際に踏みつけなくても、踏まれて汚れた鶴を見捨ててはいなかったか。

拾い上げて泥を払って形を整えれば、誰かの手に渡って喜びのもとになる。

病院で完治を目指す患者の千羽鶴の一羽となる。

 

路上に落ちた折り鶴は大概汚れている。いやでも汗や油にまみれている。

 

汚れの元は何だろうか。

雨や嵐で傷つくこともある。

その時は、北の空に飛んで逃げることができないから、

その場所で雨風をじっと凌ぐしかない。でも雨はいつか止む。

 

厄介なのは、社会が汚れの元になった時だ。

嫌なもの、汚いものを下水管に流していく。

でも大雨で汚水が溢れれば、その汚れは路上の折り鶴に無情に迫る。

 

社会という大きな塊ではなくて、

私たち一粒一粒が汚水にならないことを考えなければならない。

例えなったとしても汚した心で折り鶴を傷つけてはいけない。

 

 

美しい折り鶴を、後進国の働く子供たちに見たてて想像してみた。

置きざりにされた子どもはたくさんいる。

「誰一人も……」と、今は言えない。

おそらくこの十年でも無くならないだろう。

でも「このひとり」から、「この子」からと思えば、社会は変わる。