Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

苦労が増幅する構図と、ちいさな希望。

2020-11-14 22:27:30 | 考えの切れ端
今の世の中にかぎらず、ずっと世界はそう流れてきたのだろうなあという気がするのですが、苦労をしている人が実感していてもそれほど苦労をしていない人にはわかっていないことがあるので、それを今回は書き綴っていきます。

精一杯やっていて助けてほしいくらいなのに、誰かに助けてもらうための最初のアクションとして、その状況や思考や行動の意味を言語化して伝えなきゃいけない場面にぶつかります。大変な目にあっているのに、さらに言語化という大きな負荷にさらされてしまうことでもあります。大変な人がさらに大変な目に合う図式のひとつがこれなんです。

困っている人がうながされる言語化の対象となるモノゴトは心理的にとても深かったりして、それこそ心理学上や社会学上などでの新たな知見になるようなものだったりもするほどです。それを苦しい状況下でさらにうんうん苦しんで言語化させる行為をその人に背負わすことについては、十分に助ける側がわかっておくべきことではないでしょうか。勉強のできる優秀なエリートに架す行為ではなく、ふつうの人に架す重い負担だということをわかっておくこと。

だから公助や共助の側は、うまく察してあげたり言語化を助けてあげたりできると、助けられる側はとても助かる。しかしながら、当事者が自分の言葉で表現することはその当事者の精神的な意味として実に大切だし、他者が手を出すことでほんとうのところからちょっとズレてしまったりしやすくもあるから、それらを鑑みると「上手に話を聞く姿勢」こそが助ける側には求められるのです。

それと、悲しい話ですが、そういう苦労をしてやっと言語化しても、伝える相手によっては徒労に終わってしまいます。残念ながらそういう場合の方がずっと多い。知人や友人、親類だとかでもそうだし、包括支援なんかの役所の人であっても「役に立てない」と暗に言われるなどして徒労に終わる場合がある。とくに後者の場合、なんのためにあなたはいるのか、と助けてほしい側の人は失望してしまうでしょう。

難点はまだあります。部分的にだとしてもその問題を助けてもらえることになった状態でのことです。たとえば、その問題が介護だったとします。被介護者のケアを優先的に取り組んでいろいろ考えてもらえて助けてもらえるようになる。しかし、その窮状を訴えた介護者の人生についてはあまり理解してもらえなかったりするんです。被介護者が死んだら経済的な理由などから介護者の生活も終わるけれどそれは知りません、という前提での助けだったりします。

ここでもまた、苦労する者がさらに計算やしたたかさを身につけていかなきゃならないという苦労をさらに背負いこむことになるんです。この世界はそういうふうにできている。

僕は、そういった世界がわずかでも、様々な状況にあるみんなにとってもっと生きやすくて住みやすい世界になればいいのにと思い、「そうなるためには?」を探りもするのですが、「あなたはどういう世界観を持って世界を眺めているのか?」、そして「あなたはどういう人間観を持って他者を眺めているのか?」を意識してみることや吟味してみることがひとつの鍵になるのではないかなとぼんやり思ったりします。世界や人間に対して、解像度の高いビジョンをみんなに提示できて、そこからみんながそれぞれ考えてみることで何かが変わるのではないかなという気がするのです。解像度の高いビジョンを見ることは、「よりはっきりと、知ること」になります。そして、みんながそんなビジョンを見るためには、みんなが「知ろうとすること」がまず条件になります。ですから、強い好奇心を持てるようになるのと同時に、よりよい方向へ進むベクトルのような向上心、アイデアを出し実現していく創造力とそのための粘り強さなどの非認知スキルと呼ばれるものが、よりより世界のためには必要な要素になっていくんです。それでもって、それらは教育で育むことが可能のようです。ちいさな希望が芽生えるのは、きっとそういった基盤にあるでしょう。ちいさな希望は人間自身の内奥にしっかり宿っていて、うまく育つことができる機会を待っているのだと思います。
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