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『ある広告人の告白』

2019-06-09 01:16:40 | 読書。
読書。
『ある広告人の告白』 デイヴィッド・オグルヴィ 山内あゆ子 訳
を読んだ。

伝説的な世界的広告人であるデイヴィッド・オグルヴィが、
自ら語る「広告業について」。
そのとりとめのない語り口に、
端的さはあまり感じられないのですが、
それをひょうひょうとしたものと取るか、
うまくはぐらかしているものと取るか、
豊かさと取るか。

まるごと受けとめるような気持ちで、
少しずつ読むとよいかもしれないです。

クライアントの獲得、そして関係を持続させるポイントから始まり、
今度はクライアント側の心得を説き、
それからコピーラインティングの基本姿勢やイラストレートの効果にも触れ、
1960年代当時の広告批判への回答と態度を示して終わります。

広告ははたして善なのか悪なのか、というむつかしい問いがありますが、
本書でも最後の方でそこについての考察が述べられる。
欲望を刺激し、消費を高めるという意味での広告は、
資本主義の世の中では経済を回す活力になり、
善とされるものだと思います。
しかしそれは、人々を堕落へいざなっているのではないか。
人々を、浪費の道へ背中を押しているのではないか。

まず、オグルヴィは、
商品やサービスを広告する際に、
それらの「情報を与えるための広告」ならば、
消費者に役立ち、かつ広告業も広告主も儲ける、
WinWinの関係になる、というようなことを述べている。
それでもって、当時の経済学者などから害悪だと言われた
「攻撃的な広告」については、
実は儲かるものではない、と教えてくれる。
「攻撃的な広告」とは、たとえば、こっちの石鹸はこうだ、あっちの石鹸はこうだ、
などと同じ種類の商品同士の広告でパイを奪い合う種類のもの。
だから、広告が真に力を発揮し社会貢献する、
つまり美徳と自己利益が合致するのは、新製品の広告だし、
そういった広告こそ、「情報を与えるための広告」になっていることを示します。

まあでも、そういった論旨をつかむのにもちょっと骨が折れるような、
カフェで長時間、相手に話をし続けているような、
オグルヴィ氏のエッセイになっています。
どちらかといえば、あんまり論理的にまとめられていないし、
話がその時その時でいろいろな方向を向きます。
ですが、さきほど書いたように、それが豊かでもあると思うんです。
そういう文章から、各々が各々なりに解読しあるいは都合のいいように誤読し、
それぞれがそれぞれなりに本書からエッセンスを自分のものにする。
試されるのはクリエイティブな読み方でしょうか。

広告の世界へは興味はありますけれど、
本書を読むにあたって、やっぱり距離のある世界だとあらためて思いましたね。
それは、その世界の全力傾注性にでもなければ、遊びの感覚にでもなく、
たぶん、広告ビジネスのゲーム性にあるのかなあと、なんとなく感じました。
権謀術数うずまく、なんていうと大げさだけれど、
そんなビジネス世界を生きていくことのひとつの構えを冒険譚みたいに読める感覚が、
ひとつ、本書から感じたところです。
駆け引きや計算、心理戦、そういったものも、
著者はある意味でゲームみたいに楽しんでいるように読み受けられる。

そういったところに端を発して、
たとえば僕の稼ぎ仕事であるサービス業にこういうのを応用すると、
職場に立つときにはかなり自分をつくったりというか
演技をするというかが必要になると思うけれど、
それよりももう少し踏みこんで、
働く側も消費者も気持ちよくお金のやりとりができるような、
化かし合いではない仕事の仕方に面白みがある、
と僕自身は感じていることを確認したりでした。

自分の商売がどういう過程でお金を得ているかを忘れたくないし、
そうやって得たお金のありがたみも忘れたくないんですよね。
サービス業であれば、
いっぽうの金儲けと、もういっぽうのおもてなし、
それらが齟齬なく両立する論理を持つと強いと思う。

といったところです。
本書はそういった「ひとり議論」のタネにもなりましたよー。


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