Rainy or Shiny 横濱ラジオ亭日乗

モダンジャズ、ボーカルを流しています。営業日水木金土祝の13時〜19時
横浜市中区麦田町1-5

古本から思い出すこと 2

2022-08-04 19:40:46 | ラジオ亭便り

大久保さんと知り合ったのは、やはり横浜市内の古本屋がきっかけである。藤棚商店街には「一心堂」と「文林堂」という古本屋があった。「一心堂」の方は神保町、早稲田界隈や都内の古本屋にも劣らない品揃えの風格があった。店主は前掛け、下駄、はたきを必携するスタイルで、きっと小僧さん時代から鍛え抜かれた流儀と気概みたいなものがいつも漂っていた。

自分が店番のアルバイトを頼まれたのは「文林堂」の方だった。藤棚商店街が今みたいに衰退していない頃だが、その中でも一番活況がない店舗だった。当時は野毛、吉田町、伊勢佐木町、白楽、鎌倉のような町には、それなりの古本屋を見かけたもので、新刊本を漁るよりも面白い青春の懊悩の捌け口としての古本取得趣味が芽生えた時期でもある。

店主の山田さんは品揃えには全く関心がなかった。貧弱な漫画類、中間雑誌の類ばかりで、アルバイトをしているという誇りも湧かない店番だが、読書に傾注できる時間が救いだった。山田さんは店舗は開けているが、店番は薄給なアルバイトに任せて、自分は買取営業に出歩いていた。纏まった蔵書を処分する話を聞きつけると、訪問して査定する。話が纏まれば買付けをする。買い取ってきた蔵書を古書市場に運んで競りにかけてマージンを稼ぐという営業である。

山田さんの縁故頼りの営業が上手くいっていたか否かは、青二才の自分には見えなかったが、万年着の背広の色褪せ具合は生活の不如意を物語っているようだった。それでも有名な学者のお宅から引き取ってきた宮沢賢治の「春と修羅」の初版本を手に取っている時の喜び顔は、今でも浮かんでくる。市場における競りが上手くいったのか?結果を尋ねるという機知は自分の中にはなかったが。

当時の大久保さんは大学図書館に司書として復職していた。その前は著名な現代詩人谷川雁の弟さんが采配していたエディタースクールに勤務。その前は目黒通りの「油面」近くで、「一休書房」という古本屋を開いていたと聞いている。その大久保さんが勤務を終えてから資料集めを兼ねてよく立ち寄る古本屋が、六角橋にあった「篠原書店」「小山書店」であり、巡回コースの中に上記の「一心堂」があって「文林堂」はおまけみたいなものだったと推測される。文林堂の山田さんに紹介されて知り合った大久保さんによって、自分の古本趣味は地平が広がることになった。(続く)

 

 


古本から思い出すこと)

2022-08-04 11:26:02 | ラジオ亭便り

猛暑になって盛り返す兆しがあったカフェ営業がまた低迷している。先日も近所にある山下町のジャズ喫茶「ミントンハウス」の「おいどん」マスターと茶飲み話を交わす。あちらは拠点そのものが、老朽化したビルの建替えに伴って近隣に移転先を探している。半世紀に及ぶ溜まったLPの移動先への選別準備を始める時間が迫っているようだ。

もうフリージャズやインプロビゼーション優先な昔のLP盤を好んで聴く姿勢の客が激減している。そこで売却レコードの選別鑑定を一部、引き受けることにする。8月から先方は日中の営業をやめるので、隙間を見つけて手伝うようにするが、こちらも寄る年並みのせいか、昔みたいな素早いレスポンスは消失してしまった。

SNSを眺めていたらアメリカの偉大な歌手トニーベネットが96歳、日本ジャズ喫茶界の大御所的存在のDUGオーナー、中平穂積さんが86歳を無事迎えたことを知る。つい最近「MY ROOM MY AUDIO」を上梓した寺島靖国さんも84歳、元気な様子に敬服させられる人々である。

さりげなく気を吐くこうした人々のことを思っていたら思い出す人が浮かんだ。大久保久雄さんという図書館司書をしながら書誌学を研究していた古本仲間の先輩である。暫くお会いしていないが、暗算すれば90歳を超えてている筈だ。(続く)

 

 

 


桜森から歩いて葬斎場へ

2022-05-25 21:18:53 | ラジオ亭便り

 

 

弟の葬儀が西鶴間の辺鄙な葬斎場にて行われた。昨夜の時点では自分のクルマで行くべきか、近くのターミナルにて類縁者のクルマに便乗するか迷っていた。早朝に目覚めての決断は晴れているから、歩こうという気分になった。相鉄線の「相模大塚駅」が葬斎場への徒歩距離としては至近というのが、Googleマップで判明する。2キロにも満たないので、歩いていれば弟の思い出が湧いてくる筈と思った。

相模大塚駅の周辺は未だ畑作地帯が残っている。駅前の地名は「桜森」。その北側には「上草柳」などと言う草木イメージを色濃く伝える地番が表示されている.これはクルマ通過時の記憶で親近感を覚えている。駅前の直線路地を1キロほど、左右をキョロキョロと見回しながら歩く。後悔しない歩行である。増えた新興住宅の隙間に緑地が残る風情。貸出家庭菜園、ビワ畑、栗園等がある。燕が飛び交い、初春に植えたと思われるジャガイモの区画では、パープル色の花が開花し始めている。ビワ栽培林もビワの実は薄緑から黄色く熟れ始めている。六月も間近の生きるものが躍動する季節に弟は身罷ってしまったなと思う。

昔、渋谷にあった事務所へ出入りしているフリーのライターに小室君という知人がいた。その知人は不運にも悪性メラノーマに罹って早逝してしまった。国道246号の立体交差点に出くわして、小室君の神道式の葬祭がこの葬斎場で行われたという記憶が蘇る。葬斎場の入り口には旧大山街道🟰矢倉沢往還道の由緒を記した美麗な石碑があった。日本橋から足柄の矢倉沢に至る大山詣の重要ルートだったことを物語る石碑だ。

棺に納められた弟の遺体を二歳未満の姪の子供がじっと見つめている。小さくなった弟の口元は、数年前に他界した母親と酷似していることに気づく。癇性の強い人情家の上の妹にそれを告げたら、やはり同感していた。花を供えながら棺が閉じられる前に、自分の時も、こうした平穏な顔立ちでありたいと願わずにはいられなかった


弟の訃報から

2022-05-19 15:35:09 | ラジオ亭便り

深夜、下の妹からラインメールが届く。末期癌を患っていた弟が担ぎ込まれた緊急病院で息を引き取ったと書き込んできた。腸に穴が開いて手遅れだったらしい。癌の治療薬も弱っている臓器へ相当に悪さを加えたに違いない。カースト的には、思想家、吉本隆明のカテゴライズに喩えると横浜旧市街地的「都市下層庶民」の出自、現業公務員の下級的一生を送っている。酒、煙草、仲間宴会が大好き、貧乏しても大損しても類縁者には度のすぎるお人好しを重ねていたので、人に忌避される道理はなかった。

自分も年子なので同じ幼少の空気を吸ったが、違う人生を歩んでしまった。太宰治の小説渦中の箴言的フレーズの影響を青春時期に擦り込んだ所為である。「家庭の幸福は諸悪の根源。。」こういう突っ張った逆説が含む両義性の味を知ってしまうと、その後の人生に陽が指す道理はなくて弟とは一生、融和の瞬間というものが得られることはなかった。家族行事の打ち合わせで会っても、必要最低限の世間話しか交わすことがなかった。もっと仲良くしておけば良かったが、人生は後戻りができないようにできている。

弟との回想で良きシーンが残っている。勤務先の西谷浄水場へ出かける折だった。ルンペンバイト先に出かけようとする自分を買ったばかりの通勤バイクの後部座席へ乗せてくれた。ホンダのドリームという当時としては傑出した4ストローク250ccの単車である。加速の滑らかさ、サスペンションを伝わる振動の夢心地。その時に味わった感覚が忘れられずに、3〜40代にはスズキのGS400、ホンダのGBクラブマン、シルクロードのような中型単車を次々に乗り換える契機になった。もっとも酒好きの弟は、自分がバイクに乗る時期にはバイクから離れて市中酒宴をハシゴする日々になっていた。

昔、吉祥寺のジャズ喫茶「メグ」の路地入口にいた時である。寺島さんの横を80代後期の老紳士が通過した。寺島さんは複雑な表情で顔を背けた。顔貌察知では寺島さんに劣らない鋭いセンサーを 保持する自分は、すかさず「お父さんか?」と尋ねる。顔相における不機嫌と上機嫌の領域が曖昧な寺島さんの顔が曇っている。「親父とはとうとう氷解というものが無かった」と一言。自分も弟は他界したが、心の層に沈澱している弟との時間を遡及する機会はこれからも増えると思って告別に臨むことになりそうだ。

 


スーパーカブの花見

2022-04-01 06:44:40 | ラジオ亭便り

春めいてきた気候に誘われて、冬籠りしていたスーパーカブの拭き掃除する。座間の部屋の片付けと役所雑事への往復、ついでに道筋の桜見物にも使う。50ccの非力をカバーしつつ、安全コースを配慮した片道30キロの行程である。幹線道路の八王子街道、厚木街道といった混雑路を迂回しながらの桜見物も兼ねた最適ポイントを記憶に従って組み立てる。

中区の麦田町がスタート地点、山元町、唐沢、平楽町、山谷という横浜の旧市街地の丘陵沿いに走って、米軍基地残存エリアの稲荷坂頂上を急降下するという道順だ。ここまでの桜の見どころは遊行坂の石川小学校、浄光寺付近。平楽町沿いの真言宗増徳院と根岸共同墓地へつながる下り坂付近が私的隠れ名所になっている。

中村橋を渡って蒔田の商店街を抜けると、宮元町で鎌倉街道に出くわす。これを進むと次の桜名所が大岡川の両端になる。蒔田橋付近は散歩者で混雑してるが、桜並木の趣きとしては、黄金町駅に近い太田橋付近が繚乱という言葉を思い起こす格上の春景色だと思う。鈍足非力のカブは井土ヶ谷から保土ヶ谷橋に連なる殺風景な大通りを避けることにする。

永田の交番を曲がって通称遊園地道路を30キロ程度の法定速度でテクテクと上がる。横浜市が戦後の復興期に力を入れて造成した「児童遊園地」が行くての右側に現れる。一角にはイギリス人墓地もあって膨大な緑園パラダイスになっている。造成着工の時期は半井清なのか飛鳥田一雄市長の時代かはわからないが、過去には善政というものもあったことを実感する場所だ。混在するソメイヨシノ、山桜、コブシの静かなる開花を傍観しながら国道1号へ降りる。

ここで左に折れると平戸方面への風情がない実務型ツーリングになってしまうので、右折することに。狩場インターを保土ヶ谷方面に戻る。元町橋の信号を左折してガードをくぐる。JR線を左に見ながら法泉、今井町、南本宿のコースは車の交通量も少なく、横浜郊外ののんびりとした里山景色も併せて楽しめる。大池自然公園も桜の名所として有名だが、これはパスして万騎が原、さちが丘を迂回しながら厚木街道へ出る。

厚木街道も二俣川を過ぎて三ツ境までは渋滞も少ない。三ツ境の二つ橋というところを曲がると、亡妻が入退院を繰り返して苦労した横浜市西部病院へ通じる道に出る。野境道路といって左右を市民の森が囲っている。仕事が繁忙だった時代の夜更けに通った懐かしいこの道は桜の大木が満開を競っていて今も変わらない。

病院先の信号を左折する付近が追分市民の森.続いて瀬谷市民の森という緑地帯の道路を走る。森の空気はすこぶる気分が良く桜も点在している。東野という新興住宅地を抜けて相鉄線の瀬谷駅の北側を通る。駅の西側にある踏切を渡ってから右側の裏道を西へ向かう。境川という町田方面から江ノ島付近に南下する川が、横浜市と大和市を区切っている。川を渡った付近に深見神社の古格溢れる杜がある。鬱蒼とした森を囲む桜の彩りが素晴らしい。

大和市街地の深見台、草柳を抜けて相鉄線の相模大塚へ通じる道がある。そこを走っていると泉の森という広い自然公園に出くわす。カブを休めて上の道路から眺める。桜の木立と引地川の水路が良い景色を作っていて、菜の花が咲き誇るほとりでは小学生が駆け回っている。唱歌「春の小川」を思い出す。ここから自宅のある団地までは、残すところ15分程度で到着予定だ。最後に自宅に近い立野台公園の池に覆いかぶさってる桜の大木を愛でてから、カブによる往路のプチツーリングを終えることにした。