マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

待つことの意義。

2019年10月04日 | キリスト教
「主を待ち望め/雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」
         
                  詩編 27篇 14節

聖書の中でいろいろなところで、主ご自身が、「強くなりなさい」という言葉をかけておられます。

けれども、今、明確に主からの声が聞こえないときは、私たちに、自分自身に対して、

「心を強くせよ」と言いかけています。主からの約束を、自分に言い聞かせているのです。

さて、人生には二つの困難があります。第一は、道を踏み外し、いつのまにか迷ってしまうことです。

第二は、へとへとになって、へたばってしまうことです。こんな人生にとって「神を待ち望む」こと

ほど大切で積極的なことはないのです。けれども、じっと黙って待っていることは、

ときどき、消極的で弱弱し、愚かで無策な事と人に思われ、自分でもそう感じるのではないでしょうか。

聖書は待ち望むことについてこう言っています。「幸いな事よ。主を待ち望むすべての者」

イザヤ書40章の終わりには、「若者も疲れ、たゆみ、若い男も躓き倒れる、しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、

鷲のように翼を駆って舞い上がることができる、走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」とあります。

神に祈り、信頼し、期待し、じっと主を待ち望む人は、決して恥を見ることがありません。


「待ち望む」ことの大切さは。期待して待つこと、忍耐を要求します。心の中はうめきます。

何も期待しなければ、ある意味、楽です。しかし、期待して待つ者に主は豊かな報いを用意しておられます。

ヘブル書に、こう書いています。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、

信じなければならないのです。(ヘブル11:6)」


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