マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

命であり霊である。

2020年03月20日 | キリスト教

「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。

      わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」

              ヨハネ 6章 63節

これがイエスの言葉と、ユダヤ人たちの理解の間にあるすれ違いでした。

主は、霊的なこと、神の御霊に関することを話しておられました。

けれどもユダヤ人たちは肉に関すること、目に見える事柄のみで考えていました。

イエスの御霊のことばと、人々の肉のことばのすれ違いでした。

イエスは、霊のいのちのことを語られたのに、人々は肉のいのちのことを考えていました。

この世には2つのいのちがあります。御霊のいのちと肉のいのちです。

ローマ8章2節で、「いのちの御霊の原理」というのがあります。

ちょうど自然界に重力の法則があるのと同じように、いのちの御霊の法則があります。

これに従えば、主は私たちの内で、私たちができなくなっていることをしてくださいます。

いのちの御霊の原理は、私たちがイエス・キリストを信じる時から働きます。

この方を信じることによって、主が与えようとしている力、知恵、知識を知ることができるのです。

 

ここにいるユダヤ人たちのように、多くの人が肉によって神のこと、キリストのこと、

聖書のことを知ろうとしています。どんなにギリシヤ語を学んでも、どんなにヘブライ語を学んでも、

神学の博士号を得ても、神の真理に至りつくことはできないのです。御霊を受けた無学の信徒が、

これら学識ある人々よりも、神の知識について優れています。肉は何の益ももたらさないのです。

 

おまけ …… 。

" 思う一念岩をも通す" という言葉があります。昔々、中国大陸に弓矢に長けた武将がいました。

夕方休息をとっていますと、「虎だ」という声がしたので、彼は弓に矢をひきその虎に放ちました。

「当たった ! 」と誰かが叫びました。おそるおそる近づいてみると、それは虎ではなくて岩だったのです。

しかし、彼の矢は虎と思っていた岩に突き刺さっていたと言います。

信じるということ、確信するということは無限の力を引き出し、ことを成し遂げるのです。

救われると信じることは、救いに通にじます。キリスト・イエスはそのために来られたのです。

 

 

 

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