マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

宣教の思い。

2019年09月20日 | キリスト教

しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を

宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
                          ルカ 4章 43節

 
群衆は、イエスがいっしょにおられることを強く望みました。イエスがともにおられることによって、

自分たちが自由になることを知っていました。イエスの臨在に、力があり、権威があることを認めたのです。

私たちは、イエスの教えと、わざだけでなく、イエスがともにおられることを認めることによって、

福音を受け取ることができます。いつでもイエスがともにおられることを知っていることが、貧しい者の姿です。

しかし、この個所を読むと、心の優しい親切なイエスなのに、なぜ人の願いを振り切って行ってしまわれたのか、

という疑問が湧いてきます。そして、決然としたイエスの態度にある冷たさのようなものを感じるのですが、

私だけでしょうか…… ? 

わたしたちは、人から温かい、いい人だと言われたいと思っていますし、本当にそうでありたいと思っています。

そして、人に良くしてあげたいと思う心と、私たちの義務というか、使命というものの板挟みになって、

どうしたらよいのか、分からななることもよくあります。

そんなとき、この短い聖書の言葉を考えてみてはどうでしょうか。やはり第一に優先しなければならない事は、

神が私たちにくださった使命や義務を果たすことにあるのではないでしょうか。

イエスはすべての人の救い主です。私たちは、そのように認めているでしょうか。

自分に関係のある人たちだけの救い主ではなく、この地域の人々、この国、

そして世界中の人々の救い主なのです。それが宣教への思いになります。

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