ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

作詞家になれなかった私part8

2019年12月11日 | 介護
乏しい人生経験から作詞をすると言うことは無から優を産み出すと言うことに近いかも知れない?足りない知識の中から作詞をする。
それがいいかどうかは別として、私としてはその方法しか思い付かなかったのかも知れない?少しは学ぶ。ところが学ばないのである。
なぜなら学ぶことはすべて母に絶たれるのだ。学ぶためには私としてはカルチャースクール等に行きたいと思うのだが、そのカルチャースクールに行くことを反対されるのだ。反対された私は時折本を読み、わずかな知識を得るのだ。わずかな知識の中から作詞をする。
そのうち下手な鉄砲も数打ちゃあ当たる!見たいに手当たり次第に作詞をするのだ。手当たり次第に作詞をしたとて、応募をすれば落選なのだ。
街中にも作詞にする題材はごろごろあると思う。思うがそのごろごろに気がついていないのかも?そもそも街中で他人を観察しない。じろじろ見ない。作詞にする題材が街中に転がっているのに気がつかないのだ。
居酒屋に行っても、レストランに行っても題材はあると思う。ショッピングをしていても題材はあると思う。しかし、その題材のどれもを私は見落としているのかも知れない。
それ以前に旅行をしない。しないと言うより出来ないのだ。なぜなら自宅に認知症の母を抱えているからに他ならない。ここ何年と観光旅行と言うものをしていない。きちんとした観光旅行と言うものをしていない。
温泉でのんびりもしていない。母との同居であらゆることを制約され、欲しい自由が半分に満たないのが現実です。その制約された中から作詞を作るのだ。そしてこっそり応募するのだ。当然のごとく落選はするが、落胆はしない。たとえ1%
でも希望があればあきらめないのだ。
夢はあきらめない。生きている限り夢を持ち続けるのだ。叶わない夢を追い続けるのだ。
プロの作詞家ではないから相手がら要求が無い。要求が無い代わりに以来も当然のごとく無いのだ。要求も以来も無いのに作詞をする。
ただただこの世に自分の存在を残したくて作詞をする。これには意味があるのだ。私と言う存在をこの世に知らしめる。ただ単に一度多くの他人を見返してやりたいがために作詞をする。有名になって多くの他人を見返してやりたいだけで作詞をする。それはある意味趣味の域を越えているのかも?作詞が趣味の域を越えているのかも知れない?
言葉の羅列だった作詞は時を経て多少なりとも人生経験を積んだら形になってきたのだ。形になっても落選はする。そこにはただただささやかな希望がある。

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