油屋種吉の独り言

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苔むす墓石  その35

2020-03-26 11:04:51 | 小説
 少年が突然走りだした。
 すごい速さだ。
 十メートルくらい先で突然立ちどまり、宇
一のほうに向きなおると、
 「えへっ、おにいちゃんって、ほんとに世
間知らずなんだね」
 そう言って、着物の合わせ目に右手をつっ
こみ、黒いものを取り出した。
 彼はそれを、自分の顔の前で、ひらひらさ
せた。
 「あれっ、それって、俺の財布だろ。ふざ
けるのはやめな。早く返して、さあ」
 「いやだよ。返すもんか。占い師さんのと
ころに連れてってやるんだから、これはその
駄賃にもらっとく」
 「困った子だな、まったく。だけどすっご
く早い身のこなしだな」
 宇一は少年の衣服を、上から下まで穴があ
くように見た。
 上着は黒っぽく、ふさふさしている。
 まるでクマの毛皮のようだ。
 それは胸のところで合わさっていて、たて
に等間隔に穴があけられている。
 その穴にずっとひもを通されていた。
 (これならどこで野宿をしても、朝夕の寒さ
をしのげるというものだ)
 宇一はそう思い、
 「家族はいたんだっけ?おにいちゃんに教
えてくれてたっけ」
 と訊いた。
 「いねえや。そんなの。大人たちがいくさ
ばっかりやってるから、みなしごが増えるは
増えるは」
 少年は、最後の文句をいうのに、大げさに
両手を振った。
衣服は上下とも、ずいぶん長い間着たままで
いるらしく、かなり汚れている。
 腰から下にまとっているものは、今風のず
ぼんに近い。
 すばやく行動するのには便利だ。
 つぎはぎだらけの厚手のもので、そこら辺
の小山や野原に住む、きつねやたぬきといっ
たけものの皮をはいで作った長ずぼん。
 宇一はそんな印象を持った。
 「占い師さんがいるよ」
 その言葉が宇一に、つかの間、希望をもた
らしていた。
 だが少年がこんなとっぴなふるまいをする
ようでは、是非もない。
 宇一はもう一度、かたつむりの殻のように
固い壁を、自分のこころのまわりにこしらえ
るしかなかった。
 「そんな財布、欲しかったらきみにあげる
よ。おれがここじゃ持ってても仕方がないみ
たいだし。きみもそうだと思うんだけど。そ
こに入ってる金、この世界じゃ使い物になら
ないと思うよ」
 「うそだよ。れれっ、なんだよ。この紙切
れは?なんか人の顔があるけど。珍しいな」
 「そうだろ。だから言ってるじゃないか」
 「こっちはどうだろ。あれ、ここどうやっ
て開けるんだろな。硬くて丸いものがいくら
か入ってるし。これはいただいとくから」
 少年は、なんども、財布を振った。
 「どうぞどうぞ。その代わり、あとのもの
はちゃんとおれに返してくれるよね」
 「わかった」
 少年は、宇一の財布を、ポンと投げた。
 それは宇一めがけて飛んで来ない。
 川岸の脚の茂みに、サクッと音をたてて飛
びこんでしまった。
 宇一は落ちた場所を見定めると、あわてて
拾いに走った。
 ここいらで間違いないと思うんだが、と宇
一は両手で草やら葦やらをかきわけていく。
 「こら、このくそぼうず。またわるさして
るな。何したんだ。手に持ってるものをよこ
しなさい」
 ふいに、土手の上で、野太い声がした。
 宇一は顔をあげ、声の主を確かめようと試
みた。
 だがあまりに遠くて暗い。
 (やれやれ、あいつ、誰かに見つかったら
しいな。ちょっと怒られるといい)
 宇一はまた、うつむいた。
 左手がもぞもぞ動き出したと思ったら、何
かをつかんだ。
 宇一は右手で、左手の動きを封じ、左手が
つかんでいるものをもぎ取った。
 黒い財布だった。
 帯があれば、と思い、宇一は着替えていた
スーツの内ポケットをさぐった。
 平山ゆかりの実家に来るときに、身に着け
ていた衣服でよかったと思う。
 どこかでどさくさにまぎれ、スマホを失く
してしまったらしい。
 電池の量もすぐに切れてしまっていたろう
から、たとえ持っていても、役に立ちそうも
なかった。
 宇一はとにかく、土手に上がりたかった。
 どこだかわからない川岸の葦の茂みのなか
で最期を迎えるなんてことは、ごめんこうむ
りたかった。
 一歩、二歩と斜面をのぼった。
 (こうやってはってるうちに、この両手が前
足に変わればいい。ただの動物になるんだ。そ
うすりゃ、何も考えずとも済む)
 宇一の眼に涙がにじんだ。
 「そこのお方、上がってきなされ。今宵は泊
るところもないじゃろて。良かったら、わし
の家に来なさるがいい」
 優しい声が土手の上から落ちてきて、宇一は
じんと来た。
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