朝日記200706 送られてきた映画を途中で放念してしまった顛末と今日の絵
みなさん、こんにちは。今日の絵は、踊るひと4態です。
*今年の梅雨は熊本の球磨川の氾濫で老人ホームでの災害が報じられております。災害の傷浅きことを祈るものです。 その昔この川の上流に立ち寄り 猪なべを食したことを思いだします。 急流なる神秘的な景勝であったと記憶しています。
*都知事に熊本県副知事であった小川泰治氏を一人立つやよしとして応援しましたが、残念でした。とはいえ、政治家としてのデビュー初戦としては 成功したのではないかとおもいこれからの活躍を期待します。 選挙そのものはつまらないものであったと記憶に銘しておきます。 先回は、荒井君が卒倒したと友人から慰めを頂きましたが、今回はしずかに受け止めています。
*安倍さんからの10万円で、パソコンを入れ替えました。Windows7が1月にサポート終わりになり、そのままでいたらウンカのごとく外敵が押し寄せてきて結局 買い替えることにしました。 しかし、マイクロソフト社も罪な商売をするもので、pcそのものが立派に稼働しているのにそれを袖にするというものです。ポンコツの車でも市井では、だましだmし使うというのが庶民の常です。それを見切るというところが商道徳上 存念を残しますね。わたくしのNECのラップトップなどは、画像もきれいでなおかつ、音はヤマハでよろしい。Officeも健在で、Words, Powerpoint,Excelも立派にあって、DVDなど映像もよろしい。 したがって、これを廃番にして捨てるということを躊躇われます。
*その空気は目下 共通にあって、パソコンショップも、ここに着目して、商売しようということがわかりました。しばらく、店に預けて、それから相談にのりますということにいたしました。まことに、新しいマシンを得て、その製品品質が国産のものと比べ見劣りがすることに気づいています。
さて、私が属する小さな学会の親愛なるKMさんから、再生エネルギーの海外ドキュメンタリー映画が送られてきました。 ところが、不覚にも、この映画の鑑賞を途中で放念したと余計なことを吐露してしまったのでした。以下はそのことから始まる論議のやり取りです。 大切なことが入っているので、よろしければ、お付き合いください。
徒然こと1 親愛なる友人KMさんからの 2017年制作の映画の推奨
徒然こと2 映画を途中までみました~わたくしの感想
徒然こと3 ささやかな反論です ~友人MKさんからのコメント
徒然こと4 MKさんへの手紙「ささやかな反論」へのお答えとして
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徒然こと1 親愛なる友人KMさんからの 2017年制作の映画の推奨
さて2017年制作の映画『日本と再生 光と風のギガワット作戦』(河合弘之監督)が
> この度 YouTube にて無料公開となりました。
> 海外事情をよく追っています。自宅待機の機会にご一見いただきたく。
>
> https://www.isep.or.jp/archives/info/12676
>
> 尚、この映画では原発と再生可能エネルギーの比較は出てきますが、
> 原発が国の安全保障、いつでも原爆が製造可能なポテンシャリテイを
> 保持するためと言う観点は欠落しています。その点は我々の原発提言
> の方が全体論的です。
>
> 小生が感じているこの三年間の特徴と変化は
> ➀この映画の内容について、原子力村から強力な批判・対案が出てきていない。
> ②電力会社を含む産業界が再生可能エネルギーに本腰になってきている。
> ③風力、太陽光のKWHあたりの価格が更に下落している。
> ④水素利用と再生可能エネルギーの組み合わせの動き。
> ⑤今年の安倍さんの施政方針演説に「自律分散協調」なる言葉が多分初めて
> 挿入されたこと。
> などです。
> ゼロエミッション問題もありますが、小生は人間活動由来のCO2排出が
> 温暖化の原因というIPCCのシミュレーション結果には、まだ同調出来ません
> ので、皆様方との検討課題とさせていただきます。
>
> KMより
>
徒然こと 2 映画を途中までみました~わたくしの感想
> 映画を途中までみました。
> 前提が原子力悪となっている発想にある嫌悪感を持ちます。
> 特に原子力村も巨大な悪と決めつけています。
> 日本のエネルギーのインフラそのものです。
> 利権構造ときめつるまえに、その成り立ち、
> インフラのメカニズムを正視する姿勢が必要です。
> これが素朴な所感です。
> ありがとうございました。
> 荒井
徒然こと 3 ささやかな反論です ~友人MKさんからのコメント
早速のご感想ありがとうございます。
ささやかな反論です。
原子力が好きか嫌いかは個人の嗜好でよろしいでしょう。
以下は総合知学会誌(2018)の貴殿の論文「システム思考における目的論理と
社会倫理について」の3 本論文のまとめとしてーのP188の抜粋です。
”人工体というのは、結局、誰かが産む、そして拡散するが、その伝播拡散の結果、競合を
呼び、集合体内外での優勝劣敗が避けられない。その人工体が持つ、便宜と危害については具体的に
上げることが出来よう。それを支配するのは、およそは富を持つもの、支配力を持ったものであろうし、
その導入判断はその社会的安定、経済的利得の期待で決まる。つまり政治、経済である。それでも
技そのものに無関心であると他の共同体に負けてしまう。”
➀これほど冷静に記述している貴殿が”嫌悪感を持ちます。”と途中で投げ出されるのはいかがなものか?
(敬愛する荒井さんにだから言える減らず口です!)
この映画に反論するならば、原子力村は100倍の資金で原発推進の映画制作は可能でしょう。
3年を経過しましたが、そのような気配は小生のアンテナではキャッチできません。
原子力は国策民営で支配力を持っている政府と電力会社を核とする原子力村ですね。
2000人の原子力学会含め、原子力村は強者で、再生可能エネルギー派は弱者ですよ。
原子力か再生可能エネルギーかはまさに貴殿の主張どうり、その社会的安定、経済的利得で決めれば、すなわち国民が選択すれば良いでしょう。
②”原子力は日本のエネルギーのインフラそのものです。”とありますが、それは20世紀後半から
フクシマ事故までのこと、現在はインフラを新しくどうするかが問われている時代ですね。
③” 利権構造ときめつるまえに”と言われるが、フクシマの後始末、放射性廃棄物処理など国民の税金を
垂れ流しを止めて、電力会社が政府に頼らず独立して原発事業をやる体制を整えてからなら
国民は納得するでしょう。
④フクシマ事故から8年ですが、官産学の社会的責任論は深まっていませんね。誰も責任をとっていません。
トリチュウム汚染水から放射性廃棄物処理と長期保存まで個人的には原子力村全体に集団責任があると思います。
その責任がとれない人工体だから相対比較して原子力には反対なのです。
映画を最後までご覧いただき、貴殿には社会倫理的なご見解をいただきたいものです。
KMより
徒然こと4 MKさんへの手紙「ささやかな反論」(2020/6/29)へのお答えとして
*KMさん、「ささやか」にしてよく効くボディーブローをいただき、惰眠をむさぼる毎日から覚醒を覚えるものでありました。まずはありがたく頂戴いたします。
すぐにご返事とおもいましたが、我慢して、再度自分の思考回路を取り起して、いるうちにほぼ一週間をすぎ、このままでは、気がぬけて惰眠に帰ることになるのでご返事を記します。
*あゝ、黙っていればそれで済むものでしたが、せっかく提供くださったドキュメンタリー映画「日本と再生 光と風のギガワット作戦」を最後まで見なかったといってしまって、神出さんの逆鱗に触れてしまいましたね。気持ちを持ち直して、明け方拝見いたしました。
*全体としてドイツを中心とした北ヨーロッパでの活発な再生エネルギーの進行状況が伝わってきました。
*丘陵や湾岸に壁のごとくに林立する風車をみてその該エネルギーへの転換のすごさとともに、あれでローカルな気候の影響がどうなのであろうかと素朴な危惧感も持ちました。
一言で、Bird Strikeと表現していましたが、ここでの論調は該エネルギーへのpositivismeが圧倒的に支配しているなと感じました。
(‘わたくしの「嫌悪感」’)
*「私の嫌悪感」とはどこからくるのかをあらためておもいをめぐらせました。
*ひとつは、多分 惰眠をむさぼる自分自身に向けられた感情であったろうとおもいます。
その感情を喚起しているのが、冒頭から 「利権構造」、「原子力村」などという表現で政治的に一定の立場からスタートしていること、多分、該エネルギーはその政治的枠組みでの説得構成であろうと直感したからです。 これ自体は、その製作者の意思ですから非難されるものではありませんが、映画を見るものの選択でもあります。
この製作者が、弁護士で、社民党系の政治系列で、東日本大震災の訴訟のリーダーであることを、そして画面のいたるところで自分を前面に出したドキュメンタリー構成になっていることを知ります。
小泉、細川氏ら元首相が、この弁護士と一緒になって猛烈な反原発運動に熱弁を振るう姿がなぜ今になって動くかという不可思議な印象を与えます。 「主体なき権力」という言葉が脳裏をかすめました。
それはそれとしてドキュメンタリーとしては成功していると評価します。
また、ご案内いただいたことに率直にお礼をもうしあげます。
(総合知学会とその延長として場としておもうこと)
*あらためて、ここでのメールのやりとりの場は、自由な意見の開陳の場であるので、それぞれの人のもつ考えのもとでそれこそPrima facie criteriaでよいわけです。
*また、学術団体(institution)としての総合知学会での枠組みのなかでの交流ととらえています。
*会費を滞納しているので偉そうなことはいえませんが、あらためて会則第1条をながめます;「知の根本問題の探求と、各種知の総合、すなわち、その再創造・再組織化に関する研究を進めることを目的」としています。
*さて、私の投稿した論文集1のなかで、特にInstitutionとAgentに触れました。前者が社会科学的な視点で国や社会のもつ多元的な機能、構造、文化、受容・制約を捉える客観的主体構造(制度)であり、そして後者がこれにともなう社会との接点機関というとらえ方であります。
*主体(目的)と客体(制約条件)という二元論的立場からとらえます。
*大切なのは、ここでの基盤になるものは 科学的論理根拠をベースにしているという前提であることであろうと思います。
*自然科学もしくは工学系のメンバー多い総合知学会では、客体への人工物を含む対象については迷うことなく自然科学およびその応用に立脚しているとおもいます。
*一方、対象客体を支配・制御する主体(目的)つまりAgentに着目したときに、これをあつかう態度・姿勢の基本を、いずこを求めるかという問題があります。 多く考えられるのは主体の意思;オブジェクティヴは与えられたとして、そのもとに客体を操作することを枠組みとして設定します。工学的なモデリングやアルゴリズムを中心としたシステム・制御設計などのテクノロジーを中心とした思考根拠に収まっていくと考えます。1
(社会系科学としての流れとして)
*ご承知のように、自然科学のつよい影響を受けて 19世紀に社会系をも科学として扱う趣旨からふたつの社会科学のながれが誕生しました。ひとつは歴史主義で主体がもつ理念つまりイデオロギーそのものが科学の客体化した実体(ものや精神)としてとらえる立場でヘーゲルやマルクスに代表されます。もうひとつは、研究者個人の目(自由)と思考(理性)がとらえた社会事象を科学的な研究対象としてとらえ、社会での共通現象として共有し概念形成しつつ分析研究しようとする立場で、マックスウェーバーやデュルケムに代表されます。
*現下の西側世界では、第二次大戦とその後の冷戦の終了で、社会科学の中心からの前者の歴史主義を科学枠組みは、一旦、対象外とします。
* 欧米が支配する現代では、主として後者のマックスウェーバーの価値自由(没価値)をその方法論の基盤とし、これと米英系の功利主義、ジョン・スチュワート・ミルの社会功利種具ながれを経ての帰着主義Consequentialismと合流し、現資本主義社会でのAgent and Institutionとして、社会科学の共通枠組み(土俵)へと広く通用していると理解します。
(マクスウェルの「価値自由」)
*社会科学での研究の動機そのものは研究者がその文化背景から捉えそれを解明したいとする意志が動機になる点で、研究課題設定や選択は、彼の自由(価値自由)ですが研究の中身や方向には、その社会の文化的な価値(Value laden)が背負わされます。これによって問題価値の共通化ないし、共有化へと発展がなされるとします。
*社会科学上で達成可能な成果は、課題‘事象’を通して、その社会にあると仮定した共通‘現象’としての「解釈」がなされるというもので、自然科学の因果法則のような原理法則もしくは普遍性は獲得されないと考えます。
*キリスト教世界と資本主義の生成ということで、プロテスタンティズムが強く関わっているとした有名な説は、あくまでもデータからの解釈であり、普遍法則ではないことをウェーバー自身が強調しています。
*もうひとつ研究者の価値自由の典型例として有名なケースは、売春婦と社会現象の研究です。よくあることですが、売春婦を社会事象として捉えることそのものが非道徳であるから、研究として取り上げること自体禁忌分野で論外ではないかという論争です。 価値判断論争とよばれますが、ウェーバーと講座派のグスタフ・シュモーラーとの間で激しくあったそうです。ウェーバーは科学者であるからこそ政治論争に巻き込まれるべきでないという姿勢を一貫して通したといいます。
*社会科学者は、その課題のなかの目標に到達するための合理的選択からの提案は可能であることは容易に想像できます。しかし、この選択行動について関与するべきではないと主張します。
これはあくまでも政治家の責任であり、これに科学者が直接関与することによって自身が科学から逸脱すると主張するものであると説きます。2
(総合知学会という場について)
*さて、総合知学会が科学者の研究集団(ひとつのInstitution)と考えると、研究成果としての提案や提言はあるとしても、それを実施する政策推進の機関つまりAgentとして学会をとらえるべきではないと考えます
*政策推進機関として考えるなら、別途のAgentとそのためのInstitutionでの活動が前提となります。したがって、ここでの政策選択論の内容としての分析と論議はあるにしても、学としての自律性のためには政治論議への回帰を促す論議は極力さけるのが賢明であるといえます。
(‘主体なき権力’を考えることとAsk The Question)
*KMさんは、それは十分に認識されておられましょうが、「3年を経過しましたが、そのような気配(この映画に反論する)は小生のアンテナではキャッチできません」心情からの発露される提言3からの言でありました。 提言をうけとめる相手の「権力の主体」が見えない問題であると思います。
*それはKMさんが、さらっと使われておられる表現に表れてきます。
たとえば、「垂れ流し」、「弱者」と「強者」、「利権構造」、「安全保障」、「原子力村」、「(見直されるべき)インフラ改造」、「集団責任」、「再生エネルギー」、「国の安全保障」などはそのまま、つぎの社会科学的な視点のテーマになるとおもいます。
迂遠な感じはありますが、提言課題を継続的に意味を負荷したものとしてあるためにはなにが必要であるか、いかように進めるべきかを研究するのは、研究テーマとして成り立ちうるとおもいます。Ask The Question (ATQ) というのがあります。たとえば「あの男はいいやつだから褒美をだせ」という問いにたいして、「あの男がいいやつ」という前提はそのままただしいかという前提への問う問題です。 上の用語そのものへの認識を吟味するという意味であります。
(「晒し」(Disposition)について)
*KMさんがお読みくださった私のペーパーの締めは「晒し」(Disposition)でありました。
これは、紛争する問題の議論が、相互が感情的になり、たとえば「不俱戴天の仇」といった合意に収束しえないヘイトに満ちたレベルまで双方を追い詰めるくらいなら、課題として、ある期間「晒す」ということであります。これはアメリカの社会科学者のゴーアンロックの分散価値社会の提案でした。2
*Dispositionとは、軍隊のように、いざというときに備えて、いつも鍛えて、一旦緩急あるときにいつでも具体的作動できる状態にしておくという意味です。
しかし、私を含めて、問題を別に置くとその置いた意味まで忘れてしまう忘却ぶりは困ったことです。 社会科学としての継続研究という意味に保てるかの問題ですが、そこでそれを支えるのが,このテーマを受け止めるInstitutionの存在であると考えます。
先に上げました「垂れ流し」、「弱者」と「強者」、「利権構造」、「安全保障」、「原子力村」、「(見直されるべき)インフラ改造」、「集団責任」、「再生エネルギー」などを科学的にとらえていく知的な活動のエンティティの形成を意味しますが、これ自体極めて、創造的かつ挑戦であります。
(技術人工圏(体)について)
「主体なき権力」という表現をしましたが、どうでしょうか。じつは、そのひとつは、「技術人工圏(体)」(Technosphere)4として生命体と比肩するようなものとして集合的人工体be-ingとして現に存在していると考えていくことはひとつのヒントになると考えます。その意味では政治制度や市場経済での企業体も比肩できるbe-ingとみることになります。
先に 科学的目的論というなかに、(自然)科学的目的性と社会科学的目的性と二つをならべました。前者の中で、重要な欠落があるとすれば、自然科学と工学(エンジニアリング)への個々の存在認知であるようにおもいます。科学的目的性の概念には、実施のためのプランや設計などの価値をうむための行動(implementation)の概念が希薄であるとおもいます。
ところが工学は現実にそれを追求し実現をする行動意思をもっている学問です。
これまでの常態では、目的性はあたえられるものとして、そのあとの設計がそのbe-ingの存在の認知でありましたが、命令する主体が形だけて、主体のない権力であるとどうなるかが、今様の主題でもあるように思います。
しかも、技術は、物のみでなく、組織運営も、モデル化し、アルゴリズムの繰り返し修正のもとで、社会に進化を進めています。 それを対象としてマネジメントができるかですが、それ自体がBe-ingであるととらえないと、社会側はただ、ただ見えない方向に引きずられいくという危惧感さらに恐怖感にさいなまれることになります。
(おわりに)
「晒し」(Disposition)というのは、こんな状況のなかで、「主体なき権力」の存在認知をおこなうチャンスをあたえるのではないかとおもいます。
今般の novel corona virus pandemicは、人工体と対決する生命体という次元で、政治や経済が脇に追いやられるものとなりました。もちろん、後者の復活が人類のよりどころですが
「主体なき権力」を現象的に顕示されたようにおもいます。
再反論にならぬものとなりましたが、とりあえずこれまで。そういえば、石炭発電についての廃止と再生エネルギーへのシフトについてこの時期、政府は主体権力者として舵をきろうとしている記事がにぎわしています。
KMさんのご提案も、ベクトル合成力のなかで、貢献していないとは言い切れません。
継続的にケアされておられることに深甚なる敬意を表します。
荒井
*
1 荒井 システム思考における目的論理と社会倫理についてV 制度(論)からみたシステムの多元的目的論理 147 2015年度総合知学会年報 ISSN 1345- 4889
2 Instrumental and value rationality - Wikipedia
1 (ここは世間一般がひとくくりに、科学者といいますが、理学系(自然科学)と工学系(エンジニアリング)との思考法の違いに注意が必要です)
2 これについては、1950年代の水爆反対の学生運動として授業ボイコットがおきたときに、尊敬する哲学の教授が、運動に加担することを拒否したことをいまも記憶している。いまとなって、その意味するところを理解している。
3 神出瑞穂、「2050年までのエネルギー政策と真兵器廃絶運動」2015年度総合知学会年報 ISSN 1345- 4889
4 荒井康全、システム思考における目的論理と社会倫理について IX -ヘルマンピラース「技術圏」概念について 、117 Vol.17. 20182018年度総合知学会誌