見沼通船堀公園には東浦和駅前からスタートするのが一番良い。
その駅前広場には見沼の竜神像が凛とした姿で立っている。
この像はちょうど10年前、浦和東RC創立40周年を記念して建立した。
通称見沼田んぼには数多く竜神伝説があり、
この地を巡り歩くだけでも楽しい散策になる。
東浦和駅より7~8分程歩くと見沼通船堀公園入口に着く。
目の前には見沼田んぼの気持ちが良い緑地空間が広がる。
(2020-5-19付ブログ・芝川第一調整池、後半参照、逆からみた風景)
ここから歴史の道が始まります。
公園の入り口の車止めは竹の子をモチーフとしたもので、かわいらしい。
気に入ったのでパチリしてしまいました。
公園入口一帯は見事な竹林が続き、遊歩道もしっかり整備されてある。
どこの地に行っても(ex.京都 嵯峨野、鎌倉 報国寺など)、竹林は心の琴線に触れる。
春を締めくくる最後の草花。
梅雨がよく似合う紫陽花(アジサイ)が咲き始めたのでまたパチリ。
アジサイの漢字を見ているととてもポエムな文字に感じてしまう。
見沼代用水西縁と芝川をつなぐ川はご覧のように思ったより小さい川だ。
おそらく、活況を呈していた江戸時代はもっと水が張って大きな川だったのだろう。
見沼通船堀の側道には「西縁仮締め切り」「西縁第二の関」「西縁第一の関」の
史跡表示が立っており、その当時の姿が浮かんでくる。
見沼通船堀は、江戸時代中頃に築造された閘門式運河です。
徳川幕府の命を受けて、見沼の新田開発を行った幕府、
勘定方井沢弥惣兵衛為永によって享保16年(1731年)、
東西の見沼代用水路(農業用水路)と排水路である芝川の間に開かれたのが見沼通船堀だ。
見沼代用水路と芝川の間の3メートルの水位差を調整するために
東西とも2ヶ所ずつの閘門が設けられていた。
通船堀の開通によって江戸からの船が見沼代用水路縁辺の村々へ、
また縁辺の村々から江戸へと舟運が発達した。
この運河は大正末期に使われなくなったが、
その遺構は我が国の土木技術や産業交通の発達を知る上で極めて貴重なものといえる。
なお、通船堀にはテープが張られ近くには行けない状態になっていた。
閘門式運河の代表的なパナマ運河より
約150年も早くあった見沼通船堀は世界最古の運河といわれている。
水運の研究に造詣が深い天皇陛下(その当時は皇太子殿下)も、
平成18年にここに視察に来られた。
のどかな風景の見沼田んぼには、まったりした猫がよく似合う。
ここの時間の流れは浮世とは違い、ゆっくりしたものを感じる。
よく整備された見沼通船堀の風景。
この案内図はとてもわかりやすい。
これから紹介する所がシンプルに書かれてある。
この看板をよく見ると平成11年10月設置、浦和市教育委員会となっている。
これもささやかな歴史の名残りだ。
通船堀水路と芝川が合流している所。
芝川の上流遠くに見えるのが桜橋。(2020-5-19付、芝川第一調節池参照)
見沼通船堀が開通した翌年の享保17年(1732年)に創建された水神社。
年貢米など江戸時代に荷物の積み下ろしなどをする仕事についた人たちが
水難防止を祈願して祀ったのがこの神社だそうだ。
ここ八丁堤は関東郡代の伊奈半十郎忠治が築いた人工の堤で、
長さが八丁(約870m)ほどあるのでその名がつけられた。
ここの通船堀が開通して江戸と見沼縁辺の河岸で荷物(江戸へは年貢米、
帰りは肥料、塩、酒などの商品を積んできた)の
積み下ろしをする河岸場は59ヶ所もあり、ここ八丁堀にも河岸場があった。
この大きな家は見沼干拓事業に参加した「鈴木家住宅」です。
この鈴木家と高田家は幕府から差配役に任じられ、
江戸の通船屋敷で通船業務をつかさどり八丁堤などに通船会所を持っていた。
鈴木家は各船に対する積荷や船頭の割り振りなどの船割りを行っていた。
この住宅はその当時、文政年間の建立で貴重な建物だ。
また、当家の当主は地元の名土で日頃大変お世話になっている。
当家からは大分以前、駐米アメリカ大使も輩出している。
ここ八丁が重要な荷揚げ場となり舟頭など舟運にかかわる人々が多く居住し、
まさに見沼通船の基地であった。
新田開発に伴ってこの地に住み着いた人々が勧請して享保16年にこの稲荷社を建立した。
この附島の地に氷川女体神社が祀られるようになったのは、
おそらく三室村(現・緑区宮本)に鎮座する
氷川女体神社の社領が村内にあったことに関連して
寛永6年(1629年)以降に創建されたようだ。
このわずかのエリア(通り)に3つもの神社があるとは
江戸時代には多くの人がこの地に居住していたことが想像できる。
帰り道にまた素敵な竹林を抜けて帰路についた。