つまるところ全てはバレることで
ここにはいられない
はてなの人気ブログ「シロクマの屑籠」さんに興味深い記事が上がりました。
「超自我」は滅びんよ、何度でも甦るさ - シロクマの屑籠
興味深い。
2018/10/17 21:38
「心」や「精神」「意識」のようなものは、若いころからの関心の的でした。折に触れ、自分自身の心のありよう、精神や意識をどのように捉えるか、その正体は何なのか、心は、意識はどこから生まれてくるのか、ということについて観察と瞑想、思索を重ねてきました。
しかし、哲学や心理学についての書物は読んだことがなく、他人がどのように心を解釈しているか、ということにはあまり関心がありませんでした。そもそも、難解な理論を理解できるほどの頭は持ち合わせていないというのもあります。お触り程度に関連書籍をあたってみたことはありますが、本格的に学ぼうという気にはなりませんでした。
他人が構築した難解な理論を学ぶのは面倒くさい、というのもありますが、他人が構築したもので自分の心を解釈することに、どことなく抵抗があったのです。自分の心は自分にしか見えないのだから、自分で探究するしかないのではないか、と思ったのです。大勢の人が認め、崇めるような権威には近づきたくない、という気持ちもあります。
だから、精神分析というものも、眉に唾を付けて見ていました。はたして、精神が自己を分析することはできるだろうか。自己分析の結果は、まさに自己の枠組みの中で構築された平面的・断片的なものでしかなく、精神の包括的な理解に結びつかないのではないか。分析者である精神は、精神自身の枠組みを超えて自己を理解することはできないはずだと考えたのです。
つまり、精神の外に出なければ全体の形を見通せないはずだけれど、精神が自身の外に出ることは叶わない。常に内側からしか自身を見られない精神に、自己の全体像を把握することは不可能ではないか、ということです。
イド、自我、超自我、と精神の層を分けてみたところで、つまるところそれらも精神が作り出した概念であり、言葉遊びの域を出ず、精神そのものの包括的な理解とは無関係だろうと思います。
ここ数年、考えるようになったのは、自我が、自分自身を幻であると認めたらどうなるか、ということです。
日々の生活において、人は自分の意識、自我によって物事を決定し、行動していると思っています。しかしそれが全て偽りだったとしたら。「自分」というものとは無関係に、無意識が勝手に決定し、それを自分の思考や判断の結果だと錯覚しているだけだとしたら。
もしかしたら、人はその考え方に恐怖を覚えるかもしれません。しかし、その先にはおそらく解放があります。自我からの解放。その衝撃が、精神に何をもたらすのかはわかりません。もしかしたら、心が救われるような感覚を味わうかもしれない。万能感が生まれるかもしれない。
だとしても、それが精神の領域にあるのなら、それもまた錯覚ということになるでしょう。自我が感覚を捉え、これは解放だ、救済だ、悟りだと言い出したら、それはもう錯覚です。
心とは、精神とは、意識とは一体何でしょうか。その問いが解かれるとき、そこには心も、精神も、意識も存在しない状態があるのかもしれません。知らんけど。
ということで、本日もお粗末さまでした。
- アーティスト: Galileo Galilei
- 出版社/メーカー: SME
- 発売日: 2012/01/25
- メディア: CD
- 購入: 1人 クリック: 22回
- この商品を含むブログ (20件) を見る
フロイトの精神分析 (図解雑学-絵と文章でわかりやすい!-)
- 作者: 鈴木晶
- 出版社/メーカー: ナツメ社
- 発売日: 2004/01/01
- メディア: 単行本
- 購入: 6人 クリック: 33回
- この商品を含むブログ (15件) を見る