ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

貧乏

2024-04-20 09:39:45 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「フィギュアスケートは、ジャンプは、アメフトは」4月13日
 『ぜいたくなの?母苦悩』という見出しの記事が掲載されました。『見えない貧困と格差』シリーズの「上」ということで、『スポーツから落ちこぼれる人々がいる(略)さまざまな理由で片隅に追いやられる。この国の現実を見つめる』記事です。
 記事には、年収200万以下のシングルマザー渋谷氏が登場します。『渋谷さんは毎月2万円の会費を負担し、湊斗(息子)さんを地元のクラブチームに通わせる。貯金などを取り崩したほか、装飾品など身の回りのものを売り払い、ユニホーム代など工面した(略)思いきりサッカーをさせてあげたい。だが、周囲の理解は得られず、知人からは厳しい言葉を投げ掛けられる。「プロになれるレベルならいいが、シングルマザーなのに、そこまでお金をかける必要があるの?」』という状況です。
 同じような境遇の家族が何組か登場した後、『サッカーに対する支援活動は、食料や教育など生活インフラと同じくらい必要』かという問いが提示されます。『EUでは、子供の貧困を測る指標の一つに「レジャー活動」という項目がある。欧州ではサッカーボールなどは生活必需品である、との社会的な合意がある』という専門家からの情報提供もなされます。
 『スポーツをしたいと思うのはぜいたくなのか』、この問いに対して私は自信をもって答えることができません。貧困を理由に、スポーツを諦める。そのスポーツが好きだし、小さいころは一緒にボールを蹴っていた友人がチームのユニフォームを着て、新しいスパイクを穿いてボールを追いかけているのを眺めながら、「お母さんに負担をかけちゃいけない」と唇を噛み締めている子供の姿を想像すると、切なくなります。私自身、小学校の高学年のとき、友人の中でただ一人自転車をもっておらず、みんなが自転車で走る後を駆け足で追いかけていくという経験をしていました。私自身はそんなに気にしていなかったのですが、そうした息子の姿を見て母は辛かっただろうと思います。
 一方で、スポーツをしたいという子供の願いにどこまでも応えるのか、と言われると、ちょっと待て、と思います。フィギュアスケートやスキーのジャンプ、アメフトやゴルフなど、カネのかかるスポーツがあります。東京に住む子供が、高梨沙羅氏に憧れてジャンプを始めるとすれば、シーズンの度に遠征しなければならないでしょう。渋野選手に憧れてゴルフに打ち込みたいという子供には、コーチのレッスン料や実際にラウンドする費用、クラブなどの購入費などサッカークラブ以上の費用が必要になるでしょう。どんなスポーツでも、上達していけばいくほど、大会参加費などが嵩むのは必然です。スポーツをしたいという子供の願いに対する支援に反対はしませんが、どこかで、線を引かなければならないでしょう。その「線」が分からないのです。
 貧困が子供の成長に及ぼす影響は限りがありません。お肉と言えば豚小間という子供のたまには牛サーロインが食べたい、というのは贅沢ですよね?野球に打ち込んでいる少年が「最高のプレーが見たいから米国に行きたい」というのも贅沢ですよね?小学校の卒業記念に写真館で正装の写真を撮りたいというのは贅沢ではないのかな?混乱します。
 学校は、大勢の同年齢の、そして同じ地域の子供たちが集まり、常にお互いを比べ合う場所です。服装、持ち物、遠足のときのお弁当、会話の中に出てくる休み中の家族旅行、あるときは劣等感を隠し、あるときは劣等感を感じる自分を一生懸命に働いている両親に対して申し訳ないと責め、やせ我慢をし、わざと友人関係を断ち切り、そうやって日々を生き抜いているのです。
 貧困が子供に及ぼす影響について議論が進むことを願います。

 

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保身だけではない

2024-04-19 08:10:26 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「国民性」4月12日
 『障碍者スポーツを阻む 思い込み 「何かあったら…」考えすぎる日本人』という見出しの記事が掲載されました。『健常者の思い込みが理由で、障害者が運動する機会を奪われることも少なくない』という問題意識の下、『パラスポーツの伝道師と呼ばれる』オランダのパラスポーツ専門家リタ・ファンドリエル氏に取材した記事です。
 その中に印象に残る記述がありました。『日本人は「起こりえる難題を考えすぎる」。「何かあったらどうするのですか」と反論されるが、ファンドリエルさんは腹を据えている。「失敗しても、次は違うやり方でやってみればいい。スポーツ中に障害者が車いすから落ちるのと、私が足をけがするのと、違いはありません」』です。
 日本人についての指摘には頷かされます。私もその一員でしたが、特に公務員の場合は、より強く「何かあったら」を考えます。極端に言えば、99回成功しても1回失敗すれば、それは失敗ということだという考え方が染みついているのです。
 自己保身、責任逃れという面があることは否定しません。しかし、それ以上に、1回の失敗で99回の実績がふいになり、有意義な取り組みが中止、または後退させられてしまうことを恐れる気持ちが強いのです。
 ある学校が、子供自然体験教室を企画・開催したとします。大変評判がよく、順調に回を重ねます。しかし、ある回で木に登っていた子供の目の前に鳩がとんできて、驚いた子供が手を放し、落下して首を捻った形で地面に落ち、一命はとりとめたものの下半身不随で車いすの生活になったという事故が起こります。
  鳩が人に向かって飛んでくることはあまりありません。落ちた木の下は芝生になっており、地面は柔らかく通常であれば落ちても致命的な怪我はしないはずなのですが、その日は、級友の1人が珍しい直径10cmほどの石を見つけ、それを入れたリュックを置いていたところにぶつかってしまったのです。不運に不運が重なった形です。
 どうなるでしょうか。メディアは、教員が子供の行動をよく見ていれば、石のことも発見できたはずだと仄めかすでしょう。木に登ることを認めていたことを問題視する人も出てくることでしょう。そうなれば、子供が自由に木登りができる環境を肯定的に見ていた人は黙ってしまい、学校は孤立無援の状態に陥るでしょう。保護者会を開き説明、メディア向けの記者会見などで頭を下げ続けなければなりません。議会では、教委が学校への指導が不十分だったとして吊し上げられます。実施計画をチェックしたのか、現場に足を運んで確認したか、最初の開催時に視察をして状況を把握したのか、など問われ、一つでも欠けていれば責任を追及され、全て実施していれば実際に見ていながら危険性を感知できなかったことを無能と責められるでしょう。そして体験教室は中止となります。
 これが日本人の国民性です。常に他者に対しては完璧性を求める、そしてそうした傾向は「官」に対して顕著になるのです。ファンドリエル氏の指摘はもっともですが、国民性の違いを無視し、「官」だけに重荷を背負わせていくというやり方では、何も変わりません。国民性を変える、そんなことが可能なのかどうかわかりませんが、不運を不運と認める文化を創り出さない限り、「考えすぎ」による弊害をなくすことはできません。

 

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本当のプロ

2024-04-18 08:30:32 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「プロ」4月12日
 川柳欄に、久喜市M氏の『材料は並みを使ってこそのプロ』という句が掲載されていました。本日の秀逸です。意味を解説するまでもありませんが、大間の本マグロ、松阪牛、間人ガニなどの高級品を使って旨い料理を作っても、それは当たり前で名人でも達人でもない。近所のスーパーで売っている庶民が買うような材料を使って美味しいと唸らせる料理を作るのが本当のプロの料理人、ということです。
 全くその通りです。私がこの句を目にして直ぐに浮かんだのは、料理とは関係のないことでした。新たな教育課題が学校に持ち込まれようとするとき、先進的な実践に取り組む研究校が設けられるのが普通です。生活科、総合的な学習の時間、小学校英語、プログラミング教育等々、例外はありません。そして、研究校での先行実践の結果、新しい教育課題の導入が見送られたり、延期されたりしたことはありません。初めから、大きな成果とわずかな課題が予定されているかのように。
 私はこうした状況を見て、「○○小学校なら成功するよな。子供のレベルは高いし、保護者も理解があって協力的だからな。A校長は~の実践家だったし」と、半分白けた思いを抱いたものでした。つまり、一級品を使って料理を作って提供している料亭の料理がおいしいのは当然という感覚でした。
 学力テストの結果は中の中、いくつかの学級には、問題行動の対応に苦慮する子供がいて担任以外の教員が補助に入ってやっと授業が成り立っている、おまけに保護者から苦情が絶えない指導力が疑われる教員がいて校長が対応に苦慮している、というような一般的な学校が研究校に選ばれることはほとんどないのです。本来であれば、そうした普通の学校において新しい教育課題に取り組んでこそ、問題点や課題が見えてくるものであるはずなのに、です。
 また別の見方もできます。かつて「荒れる学校」が話題になった時期がありましたが、生徒が授業中に平気で立ち歩き、勝手に教室を出ていくものもいる、教室内で大人しく座っている生徒の半数は、漫画を読んだりスマホを診たりしている、校舎裏の階段には煙草の吸殻が落ちていて、生徒間の暴力沙汰が絶えないというような学校もまた、研究校には相応しくないということです。腐りかけた材料では一流のシェフにもおいしい料理は作れませんから。
 全国に学校は実に多様です。子供の実態、地域の実情、家庭の状況、管理職の見識、教員の指導力、過去の出来事、全て異なっているのです。キーワードは「並み」です。新しい教育課題の導入の是非、教育施策の成果の検証、いずれも「並み」の学校で行ってこそ、意味があると考えます。

 

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妙に忘れられない

2024-04-17 08:34:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「教員の一言」4月11日
 科学の森欄に、『「光遺伝子」研究や治療に 目の難病 薬の開発進む』という見出しの記事が掲載されました。『光を当てることで、狙った神経細胞の活動を操作する「光遺伝子」という技術が、脳研究などで広く使われ始めている。脳の仕組みを理解するなどの基礎的な研究だけでなく、失明した人の視覚再生など、実際の治療への応用も期待されている』ことを報じる記事です。
 私はこの「科学の森」欄にはいつも目を通していますが、ほとんどの場合よく理解できず、「ふーんそうなのか」ということで次の紙面に進むというのが実情です。今回も同じでした。やはり私は文系の頭なのだな、ということを再確認しただけです。
 ではなぜこの記事を取り上げたかというと、次の記述が目に飛び込んできたからです。『栗原さんが構想する治療法では、光に反応するたんぱく質「ロドプシン」を組み込んだ~』『ロドプシンを組み込むと、視細胞がなくても光を受けとめられるようになる』『ロドプシンの遺伝子を組み込んだウイルスを患者に投与する臨床試験を計画し』『このロドプシンというたんぱく質こそ、近年、研究現場で急速な広がりをみせる光遺伝子のカギとなる物質』などです。
 私が高校生のとき、生物の授業で担当教員が、この「ロドプシン」という言葉を発したのです。前後の脈絡は全く覚えていません。ただ、「暗いところに長くいるとロドプシンという物質がたまる」「ロドプシンは光に反応する」「将来、殺人事件の被害者の目に残されたロドプシンに最後に見た犯人の顔が釣っていてそれで犯人が捕まる、なんてことが起きるかもしれない」というような内容だけが記憶に残っています。
 私の高校生物に関する記憶はこれだけです。教員の名前も忘れてしまいました。どういうわけか、「ロドプシン」という単語だけが強く記憶に刻まれ、50年経っても忘れないのです。
 この「ロドプシン」にまつわる話は、いわゆる雑談というやつです。教員は「今日は途中でロドプシンの話をしよう」と思っていたわけでもなく、何となく流れで口にしたのだと思われます。教員自身、次の日には忘れていたかもしれません。しかし、そんな一言が子供の記憶に残り続けることがあるというのが、教職の面白さであり、怖ろしさなのではないでしょうか。
 現に私は、明るいところに長くいると、「今、ロドプシンは減っているな。少し目を閉じてロドプシンを貯めておこう。そうしないと暗いところに入ったら周囲が見えづらくなる」などと考えてきたのですから。
 教員は自分が発した一言、意図的でも計画的でもなく気軽に発した一言が子供に与える影響について、考える必要と責任があるように思います。子供におかしな先入観や思い込みを与え、それが長くにわたって悪影響を及ぼすことがあるという自覚をもって、です。
 私には、もう一つ、今でも覚えている言葉あります。中学校の歴史のI教員が言った「世界で最も美しい言葉はフランス語と朝鮮語である」です。何でこんなことを覚えているのかは分かりませんが。誰の説なのか、今でも確かめられていません。

 

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一体化の罪

2024-04-16 08:04:05 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「手段化」4月8日
 『地域再生 カギは「高校魅力化」 財政破綻 北海道夕張市の挑戦』という見出しの記事が掲載されました。『人口減少の著しい北海道夕張市が、地域再生の柱に教育を据えて市内に唯一ある夕張高校の入学者を増やす取り組みを進めている』ことを報じる記事です。『地域から高校が失われると、中高生世代が減るだけでなく、進学を控える子を持つ現役世代の転出の増加が予想される(略)特色ある学びを提供することで学校の価値を高めて閉校を避けつつ地域振興につなげるという狙いがあり、市と学校が連携して進めている』
とのことでした。
 『市の窓口となるのは教育委員会ではなく、地域振興課。職員室に専用の机も用意されている。行政や地域と学校のパイプ役を担う職員が週の半分を学校で過ごし、意思疎通を図る(略)一連の「投資」が地域振興に資するという認識』なのだそうです。『進学実績を含めた学力向上に取り組む姿勢を示すことも必須』ということで、校長は『きれい事でなく、進学実績は子どもたちが将来像を描くうえで大切』と述べています。
 夕張市の特殊事情は理解できます。しかし、学校が人口減少を防ぎ地域を活性化するための道具、という発想には違和感を覚えます。このブログでも何回か書いてきたことですが、学校と地域振興というテーマについては、嫌な記憶があるからです。
 某区の指導室に勤務しているとき、不動産開発業者から電話があり、「F町のあるF小学校が区内有数の伝統校として区教委指定の研究推進校になるというのは本当ですか」と聞かれたことがあります。研究推進校指定は事実でした。まだ発表はしていませんでしたが、校長には伝えていましたし、主な教員たちも準備を始めていました。区内30校あまりの小学校の中で歴史があることは既知の事実ですし、イエスと答えても問題はないように思いましたが、不動産業者がなぜそのような質問をしてくるのか不思議に思い、理由を尋ねました。
 業者は、「名門校の学区ということでマンションの入居希望者へのセールスポイントになる」ということを正直に答えてくれました。なるほどと思いました。学校にはある種の経済効果があると認識させられたのでした。
 その後、某市の指導室長になったとき、都教委が行う中学校の学力調査で、私が勤務する市が、全教科で1位という快挙を成し遂げました。すぐに市長部局から、「今回の結果をどのようにアピール、広報していくつもりか」という問い合わせが入りました。市への移住者を増やす絶好の機会という認識だったようです。指導室に良いアイデアがないのであれば、市長部局が全面的に応援するという意気込みが感じられました。
 しかし私は、学校を、教員の指導を、生徒の頑張りを利用することに積極的になれませんでした。次年度、1位が2位、3位になれば手のひらを返したように、学校や生徒に対する非難、攻撃が目に見えていたからです。
 これらの経験から、政治や行政が、学校教育を私たち教育関係者とは異なる目で見、評価しようとする「業」をもっていると考えるようになりました。それは、良い結果をもたらすこともあるかもしれませんが、政治や行政の「介入」という前例を作り、学校という仕組みに悪影響を及ぼす可能性が高いと判断するようになったのです。
 さらに、当時とは異なり、現代では首長の地方教育行政に対する権限が飛躍的に強化されています。選挙での当選を最重要視する政治家である首長、その思惑で学校の方針や活動が「歪められる」可能性は高まっていると考えます。地域振興課の職員が学校の常駐する、それが未来の新しい学校の形だとすれば恐ろしいと感じてしまうのですが。

 

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知っているのに知らぬふり

2024-04-15 07:43:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「記者の意識」4月8日
 連載企画『子どもっておもろい 作文のチカラ』が始まりました。『なにわ作文の会』の活動について報じる記事です。記事によると同会は、『月1回、土曜日に開催され、発表者を決めて、担任する子どもが書いた作文を発表する』のだそうです。
 『書きたいことを、書きたいだけ、書きたいように』が原則で、『テーマは自由。原稿用紙に何枚でも書いていいし、1行だけでも全く問題ない』『子どもに自由に作文を書いてもらい、学級通信などに載せてクラスで読み合う取り組みを続けている』とのことです。
 記者は、特に印象に残ったこととして、『勉強会の主題が、作文の書き方、教え方ではなく、教師が作文を「どう読むか」だったことだ。表現の上手下手は気にしない。その子はなぜそのような作文を書けたのか。作文の背景にある子どもの心の動きや暮らしとは-。会場に子どもはいなかったが、議論の中心にはずっと子どもの存在があった』を挙げています。
 私も担任時代、「書く」ことを重視してきました。同会の取り組みや理念はよく理解できます。しかし、私はこのような記事を目にするたびに、とても疑問に思うことがあります。記事を書く記者は、教育問題を担当している方だと思われます。そうであるならば、学校という制度や仕組みについて基本的なことは理解しているはずです。
 学校の授業は、各教科、道徳、特別活動、総合的な学習の時間などごとに、内容と時間数の基準が決められています。上記のいずれにも当てはまらない授業はあり得ないのです。では、同会の教員が行っている「作文」は、何の授業なのでしょうか。国語でしょうか。国語だとして、原稿用紙の3枚描く子供と1行書いて終わりという子供が混在しているとき、1行を1分で書き終えた子供は、残りの時間は何を何をしているのでしょうか。国語の時間ですから、他の教科の学習をさせるわけにはいきません。ドリルでしょうか、漢字練習でしょうか。自習させるのでしょうか。教員が個別指導するのでしょうか。
 公立学校の教員は、週案簿という形で、1週間の授業計画を校長に提出し、校長の許可を得て授業に臨みます。そこには、国語:作文、早く終わった子供は自習とでも書かれていて、校長が認めているのでしょうか。
 また、公立校は学習指導要領だけに則っていればよいのではなく、各教委ごとに制定されている教育の基本方針、各学校ごとに編成した教育目標・教育課程に則って教育活動を進める必要があります。基本的に、同学年で各学級毎に異なる内容の授業を行うことはありません。
 もちろん、実際には担任ごとに授業の進め方は異なりますから、1組はある単元に6時間を費やし、2組は7時間で学習を終えるということはあります。1組は学習班ごとに学習を進めていて、2組は個人の調べ学習を中心に進めるという違いもあります。国語でいえば、1組は三読法、2組は一読総合法で指導するということもあるでしょう。しかし、同じ時期に1組は作文、2組は教科書の教材を使った読解の授業ということは、違う理由、年間を通したときには同じ学力形成が見込まれる根拠を保護者に説明して納得を得なければ、学校への不信感をもたらすことになります。
 また、そこで行われる「評定」「評価」についても説明が必要になります。小学校でも、私立や国立の中学校への進学や中高一貫校への進学など、いわゆる「お受験」が一般的になりつつある現在、内申書や報告書という形で、評定が合否に影響してきます。1行書いた子供と1200字書いた子供について、評価においてどのような基準や視点で行われたのか、保護者も子供も気になるはずです。学校も公的機関として、説明責任があるということは記者は皆知っているはずです。
 私が今ここで書き並べたことは、教育を担当する記者であれば瞬時に頭に浮かぶことばかりです。こうした点について、同会の実践には問題点はないのか、そのことを点検しないまま、『子どもたちの豊かな言葉があった』というような情緒的な表現で肯定してしまう姿勢に、教育報道はこんなことでよいのか、という疑問を抱いてしまうのは私だけでしょうか。

 

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ほんわかとした

2024-04-14 08:33:00 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「子供も教員も、そして保護者も」4月6日
 人生相談欄に、55歳女性の『子育て担わなかった夫』というテーマの相談が寄せられていました。女性は、『夫が我が子の幼い頃を思い出し「かわいかったなあ」などと言い出すと、「大して子育てを担っていないくせに」と怒りがこみ上げます』と訴えています。そして、『その怒りをぶつけると、「昔のことを」と言い合いになります。私たちは一生こんな会話を繰り返すしかないのでしょうか』と相談を持ち掛けているのです。
 こうした問いに対し、回答者の漫画家ヤマザキマリ氏は、『私のそばにも「平等の子育て」を心がけている夫婦がいますが、子育てにとって何より欠かせない寛容性やフレキシビリティーが欠落し、いつも互いの自由や子育てに携わる時間を巡ってけんかになっています。子育てとは根本的に「利他」の行為です。全てに平等が求められる今の時代に見当違いなことを言うようですが、自由や平等への執着を頭から払拭しなければ成立しません』と答えていらっしゃいます。素晴らしい回答だと思いました。
 組織には2種類あります。何かの成果を上げる目的で集められた組織と、組織とその構成員自体の「幸せ」の維持発展を目的とした組織の2つです。夫婦という組織はどちらなのでしょうか。私は後者だと考えています。もちろんそうした組織においても、相互の自由や平等という概念は大切なのですが、それだけではなく思いやりや尊敬、感謝や助け合いといったものが重要になってくると思うのです。ヤマザキ氏が言いたいこともそういうことなのだと解釈しました。
 では、学校というところはどうなのでしょうか。企業や官庁のように、服務規程を明確に設定し、それに則って職分と責任が定められ、誰もが自分の職分の範囲内で責任を果たしさえすればよい、ということなのでしょうか。私は違うように思うのです。学校も教育行政機関の一部であり、教員は公務員です。法と規則と上司の命によって仕事の範囲と責任が定められています。でも、全ての教員が、自分の職分以外の職務には関わらない、というのでは学校は動きません。
 私は○○をしたのに、A教員はしていないと不満を言い、抗議するだけでは組織として円滑に動いていかないのです。子供は常に想定外の動きをし、ある教員に特別な負荷をかけてくるからです。A教員が担任している子供が午後5時になっても帰宅しない、という知らせがあったとき、他の教員が「私の受け持ちの子ではないし、私は生活指導部の属していないし、安全部でも校外活動部でもない」と言って退勤してしまうような組織では困るのです。
 大雪が降った翌朝、普段よりも1時間早く出勤し、通学路と校門の雪かきをする教員がいる一方、子育て中で保育園に子供を送ってからしか出勤できない教員は、いつも通りに始業5分前に出勤してきて、「ごめんね。大変だったでしょう」「ううん、S先生こそ、保育園いつも通り開いていた?」というような会話が自然に行われる、それが大事なのです。「今日は私が雪かきをしました。次はS先生がやってください」という会話が行われるようでは、だめなのです。
 学校は子供を育てる場です。子供は教員の言動を見て、真似をし、自分の価値観や行動規範を身に付けていきます。だからこそ、教員は自由や平等だけでなく「利他」で行動する姿を見せることが必要なのです。そして、子供に対しても自由や平等を過度に重視するのではなく、「利他」の原理で行動することを意図的に指導していかなければならないのです。温かくやわらかな雰囲気がなければ、学校ではありません。

 

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言われた通りにはならない

2024-04-13 08:47:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「仲が悪い事の結果」4月5日
 連載企画『受験格差』では、『地方が陥る「探究」偏重 東京圏に劣る基礎学力』というテーマを取り上げていました。記事によると、『旧7帝国大学に合格した東京圏の高校出身者は2008年度から23年度入試までの15年間で1.68倍(略)東北6県は08年度から15年間で、東大合格者数が94人から54人、地元東北大も1085人から830人へと落ち込んだ』のだそうです。
 そして、東北地方の高校教員はその原因として、『21年度に中学校で導入された学習指導要領が重視する「主体的、対話的で深い学び」(アクティブラーニング、AL)』を挙げているのです。どういうことかというと、『学校では「知識を教え込むのはよくない」と受け取られがち』『「話し合い」などの活動を増やすように求められ、ドリルや小テストに割く時間は減った』『義務教育で学ぶはずの基礎知識が身につかないまま高校生になっている』ということです。
 しかし、学習指導要領は、全国共通のものであり、特定の地域を想定したものではありません。その点について、記事では、『大都市では、学校が「詰め込み」をしない分、塾で補っている』『大都市には進学塾の手厚いサポートもあり~』という捉え方です。確かにそうした傾向はあるでしょう。学習指導要領に対して比較的柔軟に対応する私立中高が多いという点も見逃せません。
 ただ私は、それだけではないと考えています。それは、文科省と都教委の関係性です。雑な言い方になりますが、地方の教委は文科省に対して素直で従順であるのに対し、都教委は、首都、最大都市、傘下に抱える膨大な学校と教員数、豊富な教育予算、国に先駆けて様々な独自施策を実施してきたという自負などが複雑に絡み合って、素直でも従順でもないという性質があるのです。
 下品な言い方になりますが、地方は「お上(国=文科省)がおっしゃるのならばその通りに」であるのに対し、都は「文科省さんはそう言うけど、我々は~」なのです。もちろん、法治国家の枠組みの中で、学習指導要領を否定するなどということはしませんが、より強く独自色を打ち出す傾向があるのです。このことが「受験格差」に影響しているのではないでしょうか。
 蛇足ですが、指導主事試験の際、一次の論文審査を通り面接に臨むにあたって、知り合いの指導主事から「学習指導要領や文部省の方針は大事だよ。でもそれは基礎。都教委の指導主事になるんだから都教委の方針や考え方をよく研究しておかなければ」と言われたことを思い出します。
 記事では、『文科省のある幹部も「指導要領が、基礎学力が必要だと理解されていないとすれば、意図と違う」と語る』とあり、それはその通りなのですが、当時の雰囲気としては、地方の教員が知識軽視の方向に誤解するのも仕方がないくらい、「探究学習」推しは強かったのです。文科省から教委幹部を受け入れているケースも少なくない地方教委はそうした「雰囲気」に強く影響されたのでしょう。
   それはともかく、戦後の我が国の学校教育政策は、系統的な知識重視と体験的・問題解決的な学習を重視する路線が、振り子のように交互に入れ替わってきたという経緯があります。また、知識重視の揺り戻しが起きるのでしょうか。

 

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辞めます!

2024-04-12 08:29:27 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「辞めます!」4月5日
 『新社会人調査 希望と異なる配属なら 4人に1人 退職検討』という見出しの記事が掲載されました。『入社して希望通りの部署に配属されるか分からないことを指す「配属ガチャ」。これに外れたら、4人に1人が入社辞退か早期退職を検討する-。就活支援会社が今春大学卒業の新社会人を対象にした調査』の結果を報じる記事です。
 教員の場合はどうなのでしょうか。教員の志願者が減り続けていることが問題になっています。せっかく確保した教員候補が、希望と違うと言って退職していったのでは、目も当てられません。教員配属ガチャ問題が気になります。
 教員採用においては、まず勤務する学校のある自治体、どのような学校か、担任する学年は、同学年を組む教員はどのような人物か、担任する学級に問題児・モンペはいないか、校務分掌は何か、などが「ガチャ」に当たります。
 校内人事権をもつ校長は、通常、既にいる教員たちの適性や相性などを考えて担任や校務分掌を決めていきます。どうしても新規採用教員は後回しになります。多くの情報をもっている現教員と、新卒で不慣れということ以外情報のない新卒とでは、そうなるのは仕方がない面もあります。
 それが「常識」でした。私も新卒で5年生の担任を命じられたとき、「そうか、5年生か」と思っただけで、特に不満は感じませんでした。もちろん、不安はたくさんありましたが。勤務校は満員電車で1時間、通勤はきつかったですが、務めるとはそういうものだと思っていました。職員団体の勢力が強い「拠点校」だということはしばらくして知り、嫌だなとは思いましたが、だからどうこうしようとは思いませんでした。
 校長に不満を言ったこともなければ、まして辞めようなどとは考えたことはありませんでした。私の新卒1年目は、学級経営も授業も上手くいかず、とてもストレスフルでしたが、辞めて就職浪人をし、また来年教員以外の職を探すなど、宇宙旅行に行くくらい考えづらいことでした。
 今思うと、随分と自己主張のない素直な青年だったのだなと思います。現代では、当時の私のような者は希少種なのでしょう。そうであれば、教委も校長も、「ガチャ」防止のために万全を期す必要があります。採用担当者の中に学校現場をよく知る指導主事を組み入れ、採用予定者に対して1人数回、計数時間の面談を行うことで「ガチャ」を防ぐ、そんな取り組みが求められているのかもしれません。大変な時代になったものです。

 

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許したけれど失敗、次は?

2024-04-11 08:38:30 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「その後、のこと」4月4日
 専門記者田原和宏氏が、『自分の物差し』という表題でコラムを書かれていました。その中で田原氏は、『昨夏の全国高校野球選手権で優勝した慶応高の監督であり、慶應幼稚舎の教員でもある』森林貴彦氏を取り上げていらっしゃいました。
 印象に残った記述があります。『「任せて、信じ、待ち、許す」。森林さんが挙げる指導者の資質とは、教育者のそれである。人は失敗や過ちから学び、成長する』です。その通りだという気がします。自分にはこれができなかったな、という反省も浮かびます。と同時に、でも分かっていても難しく、ほとんどの教員は出来ないんだよな、と自分を慰める気持ちにもなります。
 ただ、今回書きたいのはそういうことではありません。「任せて、信じ、待ち、許す」のその後のことです。腹をくくって、子供に任せます。失敗しそうで危なっかしくてハラハラし見てられませんが、信じて見守ります。堂々巡りや後戻りを繰り返し、口を出したくなりますが我慢して待ちます。子供なりに頑張ったのですが失敗してしまいました。でも、頑張ったのだからと認め失敗は受け入れ許します。問題はその後なのです。
 公教育には、学習指導要領に代表される「到達目標」があります。いくら頑張ったからといって、分数の計算ができないまま中学校に送り出すことは無責任ですし、許されません。失敗した=目標に到達できなかった子供に、その後どのような方針で接すればよいのか、が問題なのです。
 子供に任せて一度は失敗したのだから、今度は教員が主導して成功への最短コースを歩ませる、それでは子供が自分で考え自分で乗り越えて成長するという理念に反します。子供は、結局最後は教員の指示に従っていけばいいんだな、ということを「学習」してしまう可能性があります。それでは主体性は育ちません。
 かといって、「さあもう一度!」と子供を鼓舞し、「任せて、信じ、待ち、許す」を繰り返させても、また失敗が待っているかもしれないのです。時間は無限にはありません。多くの教員が迷い悩んでいるのはここなのです。慶応高校の森林氏は全国制覇という結果を出しました。もし、予選敗退を繰り返していても「任せて、信じ、待ち、許す」を継続できたのでしょうか。周囲はそれを認めたのでしょうか。聞いてみたい気がします。

 

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