ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

一つではない正解を求める教育には

2020-10-27 08:07:53 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「正解がないから」10月21日
 近藤サト氏が、ご自身の連載コラム『テレビぎらい』欄で、『会ってこそ分かる個性』という表題でコラムを書かれていました。その中で近藤氏は、教鞭をとっていらっしゃる日大芸術学部での授業について触れられています。『オンライン授業が始まったときは「これなら大丈夫」と感じました。学生たちは、感染症の不安のない自宅から明るい笑顔を見せてくれ、表現の訓練にも真面目に取り組みました。そんな彼らの「絵姿」から、個性や適性をばっちり見極めたつもりでした。しかし、対面授業が始まってからというもの、毎回「こんな人だったの!」と内心驚くことばかり~』と。
 近藤氏はこの体験を、『オンラインで判断できる個々人の情報がいかに貧弱だったかを痛感しています』と評価なさっています。そうだろうな、と思います。いかにもありそうな感想です。ですから私が今回近藤氏のコラムを取り上げたのは、オンライン情報の貧弱さに注目したからではありません。
 近藤氏はご自身の大学での授業について、『私の実習ではナレーションや朗読など音声表現の訓練も多く、それらに正解はありません。正解を学ぶのではなく、学生の個性を伸ばしながら「伝わる」パフォーマンスを見つけてもらう授業』であるとし、そうした授業の特性から『私自身が学生一人一人を観察して、適性を認めることも重要』なのだと書かれているのです。
 つまり、ただ一つの正解がある授業であれば、学生・生徒・児童の個性についての情報はあまり必要ないが、正解がなく個性の発揮や伸長を狙いとする学習では、指導者は学習者について十分に理解を積み重ねておく必要があるということです。頷ける指摘です。
 では、これからの学校教育において重視されるのは、正解がただ一つの学びなのか、学習者の数だけ正解があるという多様性のある学びなのかといえば、後者であることに異議を唱える人はいないでしょう。自ら問題を発見し、自ら仮説を立て、自ら調べ、考え、問題を解決していく能力、イコール生きる力を育てる教育こそ、ここ数十年我が国の学校教育が追い求めてきた学びの姿なのです。
 そうだとすれば、菅政権がデジタル庁を設置し、遠隔授業を推進しようとしていることについて、改めてこれからの学校教育が育成していこうとしている能力資質とは何なのかという原点に立ち返り、その是非を検討していく必要があるのではないかと考えます。
 10月22日のこのブログで、集団思考の場における教員の状況把握の在り方について論じましたが、その内容と併せて考えていただければ幸いです。

 

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