ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

不思議の世界

2019-12-05 08:46:39 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「不思議」12月2日
 『親子をつなぐこの一冊』欄に、『世界のおばあちゃん料理(河出書房新社)』が取り上げられていました。首都圏TSUTAYABOOKディレクション西麻里子氏はその中で、『食事は不思議です。誰とどんなふうに食べるかで感じる味が違います。特別な誰かに作ってもらうご飯がおいしくてたまらなかった経験は誰にでもあるのではないでしょうか』と書かれていました。
 確かにそうです。私にもあのときのアレがおいしかったなあ、という思い出がいくつかあります。大したものではありません。マヨネーズをかけただけのサラダだったり、酢蛸あり、ソース焼きめしだったり。そして、おそらく今食べてもそんなに感激はしないだろうというところも、まさに「不思議」です。
 私は、学校の授業にも同じような「不思議」があるように思います。教員の立場から言うと、どういう訳か異常に盛り上がり、子供たちが「もっとやりたい!」と言い、何か憑き物がとりついたかのように熱中して、しかもそこで新しい発見や個性的な見方が生まれるという奇跡のような授業です。おかしなもので、次に同じ学年を受け持ったときに、同じ授業をしても、全く盛り上がらず淡々と終わってしまうのです。教員としては、内心大きな期待をもって臨んだだけに、がっかりさせられてしまうのです。
 また、子供の側からすると、自分の発言が教員を含むみんなから認められ授業の展開を左右したり、絶対出来ないと思っていたことが達成できたり解決できたりして、「やったっー!」「できた!」と叫びたくなるような、誇らしくなるような一瞬を味わえた授業ということになります。さらに、子供の側から見た奇跡の授業についていえば、Aさんにとっての忘れられない奇跡の授業は、Bさんにとっては退屈な普段通りの記憶にも残らない授業であることも珍しくありません。
 授業を構成するのは、教員であり、子供一人一人の存在であり、教員と子供の相性であり、子供同士の人間関係であり、教員の調子や子供集団の醸し出す雰囲気であり、厳密に言えば、その日の天候や授業以外の出来事までも関係してくるのです。さらに、子供の家庭での出来事、お母さんに叱られた子供がいて、おばあちゃんが入院してしまった子供がいて、可愛がっていた猫が死んでしまった子供がいて、などさえ微妙な影を落としているのです。
 つまり、厳密な意味で、授業には再現性がないのです。同じ授業は日本全国の数万の教室で一つもなく、10年前から10年先まで、1回もないのです。このことを充分に理解しておく必要があります。授業は科学ではなく、ある条件を揃えておけば、必ず成功するというものではないということを。
 そう考えれば、授業の質の向上には、学習機器やカリキュラムなどを充実させるだけではなく、その場で臨機応変に舵取りをする教員の資質向上を図ることの重要性が理解できるはずだと思います。微妙な湿度を感じ取って塩加減や水の量を指先の感覚で微調整する料理人育てるように。
 
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