ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

「定説」を拒む人

2020-04-10 08:10:29 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「望まない人」4月5日
 『がん手術を8回 心の持ち方次第で望む未来をつかめる』という見出しの記事が掲載されました。俳優黒沢年雄氏へのインタビュー記事です。その中で黒沢氏が語った言葉が気になりました。『がんの本は一切読まない。がんの友達を持たない。がんのサークルには参加しない。がんに関することを頭の中から削除して、がんとは闘わない。僕はずっとそうしてきたんですよ。この考え方には賛否はあるだろうし、人それぞれの考え方があると思うけど、ぼくのかんがえかたはずっとそう。それが僕の“脱・がん哲学”なんですよ』。
 私は考え込んでしまいました。一般的な「がんサバイバー」の話とは全く違うからです。治療に当たる医師は、がんのこと、治療法のことには詳しいが、患者の気持ち、立場、悩みなどについては必ずしも詳しいわけではないと言われます。だからこそ、辛く苦しく、ときにはかなり長期にわたるがん克服の過程においては、同じ体験をしている仲間との語らいやそこで得る情報が有意義なのだというのが、一般的な見解となっています。そして実際にそうした取り組みをするNPOなどが紹介されています。
 しかし、黒沢氏のように、そうした一般的に有意義だと言われる取り組みを拒絶する人がいるのです。もし担当医が、黒沢氏に、「いろいろと思い悩むこともあるでしょう。同じ悩みをかかえる人たちのサークルがあります。一度参加されてみては」と勧めたとしても、黒沢氏は断るでしょう。がん治療についてであれば、黒沢氏のように、「私の考え方は違う」と自分流を貫き通すことは可能ですし、認められているでしょう。記事を書いた記者も、黒沢氏の言葉について、『多くの手術を切り抜けてきただけに、その言葉には説得力がある』としています。
 しかし、これが学校教育においてであったらどうでしょうか。学校にはいくつもの定説があります。私もそうした「定説」をこのブログで述べてきました。例えば、ヤングケアラーのかかえる負担に想像力を働かせよという「定説」についてです。でも、「鬱陶しいな。放っておいてほしいんだよ」と心底考えている子供がいるかもしれないのです。
 いじめ被害者に対しては、被害者にも落ち度があるという考え方を持って接してはいけないというのも「定説」です。しかし、「僕の何がいけなかったのでしょうか。それが知りたい。それさえ分かれば自分の力でいじめを脱してみせる」と意気込む子供がいるかもしれません。
 障害のある子供に対しては、同情するのは一段下に見ていることになるので、障害という個性のある同じ人間として接するという「定説」はどうでしょうか。もしかしたら、「障害があるんだから特別扱いして楽させてよ」と望む子供がいる可能性は否定できません。
 教員は、一般的な「定説」を学び、それに基づいて現場で経験を積み、いろいろな問題への対応力を身に着けていきます。しかし、「定説」とは真逆な対応を望む子供や保護者と出合ったとき、あくまでも「定説」にしたがって対処するのか、要望を受け入れるのか、難しい問題です。それこそ究極的な「定説」、子供の望むように、が正しいという人がいるかもしれませんが、ことはそんなに単純ではありません。
 以前、ある宗教の信徒である保護者から、「たとえそのままでは死に至る場合でも、けっして輸血はしないでください」ときつく要望されたことがあります。大怪我をし、輸血すれば回復、それ以外の治療法では死亡というケースでは死なせろということです。こんな要望も「もっとも大切なのは子供の命」という「定説」を放棄しなければならないのか、私は酷く悩みました。幸い、その子供は小さな怪我さえせずに卒業していきましたが。
 一般論は個別の事例には必ずしも当てはまらない、という「定説」は承知しているのですが。

 

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