ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

伝統って?

2019-09-17 07:54:16 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「伝統って?」9月11日
 批評家浜崎洋介氏が、『歴史軽視の国語改革』という表題でコラムを書かれていました。高校国語で『実学が重視され小説が軽視される』という危惧があることについての内容です。この問題について浜崎氏は、『改革案は、今の時代に必要なのは、実際的な国語であって、中島敦の「山月記」や漱石の「こころ」などが描く文学世界、仲間内だけに通じる感性的言語ではないと言いたいのだろう』と推測なさっています。
 私も同感です。この問題については、以前にもこのブログで触れてきました。しかし、浜崎氏は、浅薄な知識しかない私とは違い、別の視点からもこの問題を論じていらっしゃるのです。浜崎氏は、『アジア文化圏に生きる日本人が、西洋文明という他者と出会った衝撃から生み出されたのが日本近代文学であるという事実』を指摘なさっています。そして、『仲間内だけに通じていた言葉を失って後に、それでもなお他者の心に届く言葉を模索して生み出された言葉、それが言文一致体の日本近代文学』『近代文学に対する軽視は、そのまま国民国家の形成と共にあった近代日本人の心の歴史、その繊細な言語表現の歴史に対する軽視』と批判を重ねていらっしゃるのです。
 浜崎氏の指摘がすべて正しいのか否かは、私には分かりません。ただ、浜崎氏の考えを目にして、歴史や伝統について考えさせられたのです。現在の安倍政権は、復古主義的とか、保守的とか言われます。つまり、古き良き我が国の伝統を尊重する価値観です。ではその「古き良き我が国の伝統」とはいつの時代のどのようなものをイメージしているのか、と考えると、非常に曖昧になってしまうのです。
 文化の基盤ともいえる言語について考えてみても、飛鳥時代の言葉は私たちにとって外国語に近いものでしょう。浅学非才な私は、ほんの200年前の江戸時代後期の文書でさえも、読解する自信はありません。漱石や鴎外の小説なら辛うじて何とか読めるかも、と言った状態です。日本語の伝統って何なのでしょう。
 夫婦同姓か別姓か、これも伝統という言葉を持ち出すと、江戸時代には国民の大部分を占めた農工商には姓はありませんよ、ということになってしまいます。企業に忠誠心をもたせ日本式経営の中核をなすと言われる終身雇用制も、戦後の風習に過ぎません。くだらないことですが、結婚式は大安になどと言う形で今も残る六曜ですが、これも明治時代になってからカレンダー業者が思いついて記載したところ大ヒットしたという、まるでバレンタインデーと製菓会社の組み合わせのような話なのです。
 さらに、作られたウソの伝統もあります。一時期話題になった、相手を思い遣る「江戸仕草」も、そんな事実はなかったと明らかになっています。江戸仕草を見習ってなどと道徳に時間に話をしてしまい、今は恥ずかしい思いをしている教員もいるのではないでしょうか。万世一系という天皇家の歴史も、継体天皇のときに途切れているという専門家もいます。私はそれであっても、皇室の伝統は誇るべきと思っていますが。
 話がそれました。歴史や伝統を尊重しようという考え方は、学習指導要領においても、過去何回もの改訂を通して強調されています。正しい「方向性」だと思います。国際化が不可逆的に進む現在、自国の歴史・伝統・文化について誇りをもって語れることは、他国に人々から一目置かれるためには不可欠なのですから。ただし、「方向性」が正しくても、何を歴史・伝統・文化とするかについて、共通の理解がなければ、指導者の恣意的な価値観で、誤った歴史・伝統・文化が尊重されてしまうことになりかねません。
 議論が必要です。
 
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