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長崎市内散策Ⅲ、中華街・大浦天主堂

2019-06-12 23:44:40 | 長崎
2019年6月7日から9日、長崎観光をしました。ドバイ特派員が旦那と一時帰国しましたので、ぶらりと長崎観光です。長崎にっしょうかん新館の梅松鶴の2日連泊です。7日はフライトの関係で22時半にホテル着で、翌日8日は平戸観光です。翌々日9日、長崎市内観光をしました。
中華街















庄屋で昼食

チンチン電車









石橋に移動です。

大浦展望公園の猫





まち歩きマップ





南山手レストハウス



祈念坂





大浦天主堂(国宝)
「日本の開国が近いとみたローマ教皇庁は、日本での再布教をパリ外国宣教会に託した。フオルカード神父は、沖縄で日本語を学んだが、鎖国の壁は厚く、来日は果たせなかった。日本が開国すると、ジラール神父がフランス総領事の通訳として来日、横浜に天主堂を建てた。次いで長崎に天主堂を建てるため、1863年にフューレ神父を派遣。天主堂は西坂で殉教した二十六聖人に捧げるため、殉教地に建てたかったが、居留地外は許されず、現在の南山手の地が選ばれた。
 プティジャン神父も応援にかけつけ、天主堂の建築がはじまる。しかしこの時は禁教令が残っており、教会は外国人用だった。フューレ神父は、日本人に宣教できないことを悲観して帰国したため、工事がおくれた。そんなおり、奉行所の語学学校で、プティジャン神父にフランス語を教えてもらう見返りに、長崎奉行が工事人夫を3倍に増やしてくれ、建物は1864年に完成する。
 外観は黒地に白い格子のナマコ壁、内部は西洋風交差式リブ、ヴォール天井(こうもり天井)という和様折衷の建物である。正面の塔には金色の十字架が輝き、長崎の人々は[フランス寺]と呼んで見物におしかけた。プティジャン神父は日本人キリシタンの発見を期待して、正面に[天主堂]の大きな文字を掲げた。
 そして1865年2月19日、大浦天主堂は[日本二十六聖殉教者聖堂]と命名され、ジラール神父によって献堂式が行われた。フランス長崎領事のほか多くの外国商人が参加、長崎港に停泊中だった仏・英・露・蘭の軍艦からも船長と儀仗兵が駆け付つけ、祝砲も放たれた。
 大浦天主堂献堂から1か月、3月17日に宗教史上の奇跡[信徒発見]が起こる。男女子どもを合わせ12~15名の一団が天主堂の門にいました。プティジャン神父が聖堂に案内して祈ると、40歳ないし50歳位の婦人が手をあてて申しました。
『私共は、全部あなた様と同じ心でございます。浦上では全部の人が同じ心を持っておりいます』『サンタ・マリアの御像はどこ?』神父が聖母像の祭壇に案内すると、喜びのあまり口々に言いました。『本当にサンタ・マリアさまだ!御子イエズスさまを抱いていらっしゃる。』このことは浦上ですぐに広まり、翌日から大勢が天主堂にやってきた。当時は、禁教下で、奉行所の役人は監視を強めたが、夜間や早朝に忍び込む者もいた。さらに外海地方、遠くは五島からも天主堂を訪れた。
 そのうち浦上の信者は、4つの秘密礼拝堂を造る。かやぶきの民家風で、そこに神父が密かに巡回してミサや洗礼を行った。信仰に自信を持った浦上の信者の中には、伝道士となって遠くは今村(福岡県大刀洗町)に出向いた。
 浦上では過去3階のキリシタン摘発(=崩れ)があったが、幕末から明治にかけての四番崩れが最大の迫害となった。きっかけは白葬事件で、旦那寺の僧侶を呼ばず、自分たちで葬儀を済ませたうえ『自分たちはキリシタンなので、お寺とは縁を切りたい』と主張した。
 長崎奉行所は秘密礼拝堂を調べ、1867年7月15日未明にサンタ・マリア堂に踏み込んだ。この時、他の礼拝堂含め、68人が捕まった。
 フランス公使は、将軍徳川慶喜と会見し、『キリシタンは国法を犯したが、対外関係を考慮して拷問せずに釈放する』ことを認めさせた。しかし実際は激しい拷問が加えられたため、長崎奉行は交代させられた。
 1868年1月25日、時代は明治に入る。新政府は天皇制国家を築くために神道を重視し、キリスト教は引き続き禁教とした。長崎裁判所総督(長崎県知事)になった沢宣嘉は、『中心人物は斬首、その他は流配』を政府に進言。これに英国公使らが抗議し、長崎から呼び出された弱冠30歳の大隈重信は、①混乱状態の日本では外国思想の一時禁止はやむを得ない、②西洋諸国でも宗派の違いで兄弟げんかをしている、との論陣を張り、物別れに終わる。最終的には『斬首は不穏当』として全員流配が決まった。1868年7月、中心人物114人は萩、津和野、福山に蒸気船で送られた。浦上全員3394人が20藩に預けられ、拷問や苦役を受けた。これは1873年まで続き、600人以上が亡くなっている。
 浦上四番崩れが起こる中、欧米を歴訪した岩倉具視使節団は、信教の自由を強く求められた。そして1873(明治6)年、政府は禁教の高札撤去を決定。禁教令は259年ぶりに効力を失った。こうして潜伏からカトリックへの復帰が本格化する。信者は全国で4万人を超え、1891年には函館、東京、大阪、長崎の4教区体制となった。仲でも長崎教区(九州全体)は信者数の6割以上を占め、大浦天主堂は司教が常駐する司教座聖堂異常(カテドラル)となった。信者が流配から戻った浦上では、1879年に最初の聖堂を建て、1914年には東洋一の大聖堂が寛政した。
 各地でも教会建設が進んだ。長崎市内には現在130もの教会がある。」
室内は撮影禁止です。素敵なステンドグラスでした。
説明書





































旧羅典神学校

グラバー通りの店舗

長崎市内観光を終了し、長崎空港へ



































お疲れさまでした。
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