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長崎市内散策Ⅰ、日本二十六聖人祈念聖堂(聖フィリッポ教会)・本蓮寺・聖無道寺・福済寺・聖福寺

2019-06-12 23:40:40 | 長崎
2019年6月7日から9日、長崎観光をしました。ドバイ特派員が旦那と一時帰国しましたので、ぶらりと長崎観光です。長崎にっしょうかん新館の梅松鶴の2日連泊です。7日はフライトの関係で22時半にホテル着で、翌日8日、ホテルで簡単な近隣マップをもらい、歩いて散策しました。
狭い階段を降りていきます。

五社稲荷の鳥居です。





とにかく狭い階段、生活している人達は大変ですね。

聖フィリッポ教会
リーフレットより「この教会は1962年、ガウディ研究の第一人者であった早稲田大学教授・今井兼次氏によって設計され完成いたしました。26聖人が実際に殉教した場所に建てられた教会でありますが、すでに大浦天主堂の正式名に『二十六聖人』の名称が使われていたため、外国宣教師6人の内の一人でメキシコ人初の聖人となったフェリペ・デ・ヘスス(聖フィリッポ)の名前が、教会名に選ばれました。2002年4月に長崎大司教は、[巡礼所]に認定し、2012年には日本司教団により[公式巡礼所]の認定を受けました。」
聖フィリッポ像
「この像はメキシコのグアダラハラ大司教、フランシスコ・オロズコ・ヒメネスより、長崎の大司教パウロ山口(在任1937~1962)に送呈されたものです。第二次世界大戦の間、この像は大浦の大司教館に保管され、後にこの西坂の聖フィリッポ教会に移されることになりました。」

室内のステンドグラス





双塔
「二つの塔は、高さが16メートルあります。





日本二十六聖人祈念館

南東に進みます。

墓地を通り抜けます。猫がいます。

まるで墓守をしているようです。



本蓮寺
『1620(元和6)年、大村本経寺住職の日恵が開創。サン・ジョアン・バウチスタ教会、サン・ラゼロ病院の跡地でした。1648(慶安元)年、朱印地に指定され、長崎三大寺の一つでした。江戸時代末、大乗院と一乗院という塔頭があり、大乗院には、勝海舟が4年ほど滞在し、海外伝習所で航海術や砲術などを学びました。近所に住むお久(梶くま)とのロマンスは、切れた下駄の鼻緒を直してくれたのが始まりといわれています。一乗院には、シーボルトが息子アレキサンダーと滞在し、おタキや娘のおイネと会った場所です。二天門は原爆で焼失しましたが、往時の礎石の跡が残っています。当寺の西川家墓所内には、海援隊士・沢村惣之丞(1843~1868)ら土佐人が葬られています。沢村は、坂本龍馬とは土佐脱藩以来の同志。竜馬の死後、1868(慶応4)年1月14日、海援隊が長崎奉行所を占拠した際、誤って薩摩藩士を射殺し、その責任をとって切腹しました。「生きて世に残るとしても生きて世に有らむ限りの齢なるらむ」という辞世の歌が残っています。』
map
参道の階段





サン・ラゼロ病院、サン・ジョアン・バウチチスタ教会跡碑、境内入り口にあります。
「1580(天正8)年長崎はイエズス会領として寄進され、イエズス会本部が置かれるなど、わが国におけるキリスト教の一大中心地となり、数々の教会が建てられました。その様子はのちに、日本における小ローマと称するほどでした。1591(天正19)年に渡来したローケ・デ・メロベレイラは、この地(のち本蓮寺)に住民のための病院を開きました。そのかたわらフランシスコ会司祭のバウチスタが壮大なサン・ジョアン・バウチチスタ教会(司祭は日本人)を建てました。しかし、1614(慶長19)年に禁教令により破壊されてしまいました。」

勝海舟寓居の地碑
「勝海舟(1823~99)は、勝小吉の長男として江戸本所亀沢町(現東京都墨田区)に生まれました。1855(安政2)年から約4年間、長崎奉行所西役所に置かれた海軍伝習所の伝習生となり、オランダ海軍士官カッテンディケらの指導を受けました。長崎に滞在中は、この地にあった大乗院に宿泊し、長崎の女性、梶くまとの間に一男一女をもうけました。くま(法名は容誉智顔麗光大姉)の墓は、本蓮寺隣の聖無道寺の梶家墓地にあります。」

日蓮上人

本堂



装飾瓦



庫裏



聖無道寺
「1644(正保元)年利生院専音が利正院を創建。1658(万治元)年聖無道寺と改称しました。当時は、江戸時代、オランダ船の航海安全等、出島乙名や阿蘭陀通詞等に海上安全・家運繁盛の守札を配布し、江戸参府の際には、海陸祈安の守札を贈っていました。寺には、安全祈願の石燈篭が残っています。また、江戸時代中期の頃には、出島の火災時のオランダ人の避難場所に定められていました。同寺には勝海舟と巡り合い恋に落ちたお久(梶くま)の墓があります。この墓は、1974(昭和49)年に放映された大河ドラマをきっかけに発見されたもので、その中からは銀のかんざしが出てきたそうです。」
参道の階段









福済寺
「分紫山福佐済寺は、1628(寛永5)年中国の僧覚悔禅師によって創建され主たる堂宇は明朝式建造物で明治43年特別保護建造物、昭和2年国宝に指定された。明治12年には米国のクランド大統領、同23年には中国の丁汝昌提督等来山、国際親善友好の場として有名であった。書院には小原慶山、沈南蘋等国宝級の絵画の大作があり。文化財の宝庫と賞讃されていた。然るに昭和20年8月9日長崎に原子爆弾炸裂、創建317年にして大伽藍はことごとく、火焔に包まれ一物も残らず焼燼して境内は瓦礫の丘と化してしまった。現在の木造の堂宇は昭和27年先代三浦実道禅師によって戦後はじめて本堂兼庫裏として大書院跡地に建造されたものである。戦後30有余年、ようやくにして元国宝雄宝殿跡地に鎮魂慰霊の殿堂として萬国霊廟長崎観音が造営された。高さ35メートル、重量35トン。被爆都市長崎の原爆観音として平和祈念像と共に後世に永く戦争と原爆の悲惨さをつたえる慰霊鎮魂の道場となることでしょう。亀の形は中国、韓国、日本と仏教伝来の過程に於いて、亀の背に仏様や碑文を立てて、亡者の往生安楽を祈願した形が多くの地方に見られる。この霊廟もその主旨にそい、その形式を建築様式化して、亀の形をかたちどっている。」













鎮魂の鐘









非核非戦の碑

幣振坂
幣振坂の名前は、1634(寛永11)年、諏訪神社の一の鳥居に使用するための石材を麓に降ろした際、宰領が御幣(紙を切り細長い木に挟んで垂らした神祭用具)を振って、人夫達を鼓舞したことに由来するとも言われています。長崎では、この坂のほか晧台寺と大音寺の間や延命寺と長照寺の間の坂も幣振坂と呼ばれています。長崎でロケがおこなわれた映画「解夏」の冒頭に登場する「井戸」が坂の途中にあります。』

観善寺







聖福寺
「1677(延宝5)年に鉄心道胖が開創した黄檗宗の寺院。1867(慶応3)年5月22日、いろは丸事件の談判が、この聖福寺で行われました。4月23日、坂本龍馬らが乗った「いろは丸」は、瀬戸内海で紀州藩船「明光丸」と衝突・沈没、その賠償交渉が鞆の浦(福山市)と長崎で行われ、龍馬は土佐藩士・後藤象二郎とはかり、紀州藩に賠償金8万3000両(のちに7万両に減額)を支払わせることで決着しました。このとき龍馬は世論を味方にするため「船を沈めたその償いに、金をとらずに国を取る」という歌をつくり、長崎の街中に広めたと言われています。」
山門(重要文化財)
「この山門は、堺の豪商・京屋宗休が寄進し、堺の棟梁によって1703(元禄16)年に竣工。堺で木材を切組み、海路長崎に運んで建造した。八脚門形式で、屋根は切妻の段違いで本瓦葺き、中央部を一段高めた雄大な造りである。中央の大額は、黄檗宗開祖の隠元が揮毫したものである。」









惜字亭(長崎市指定有形文化財)
「これは、経文をはじめ、寺内の不要文書類を焼却するための炉で、惜字亭という名称は、文字を焼却するにあたり、書かれた文字を惜しむという意味を示し、たいへん奥ゆかしい。炉は、煉瓦造り漆喰塗りの六角形で、築造は1866(慶応2)年7月とされている。赤煉瓦の製造法は、幕府の要請により長崎製鉄所建設指導のため、1858(安政5)年頃長崎に来たオランダ海軍技師官によってもたらされた。中国人信徒によって築造寄進された。」

天王殿(重要文化財)
「天王殿という名称は中国伝来のものである。中央に弥勒菩薩(布袋)と韋駄天を背中合わせに祀り、左右を通り抜けにした、仏殿と門を兼用する独特の形式を持つ。中門・弥勒門・護法門などの別名がある。当寺山門と同じ堺の棟梁により、1705(宝永2)年に竣工。鉄心が修業した京都の黄檗山萬福寺に倣い、中国建築様式の特徴である朱丹塗を避け、彩色は扉やその他局部に止め、素木を主体としている。反りのある優美な屋根と吹き放しにつく曲線の黄檗天井が特徴の建物である。」



鐘楼(重要文化財)
「この鐘楼は、堺と長崎の棟梁の合作で、1716(享保元年)に竣工。長崎県下での鐘楼建築では現存する最古のものである。全体的には禅宗様を基調にした造形で、長崎の黄檗宗寺院に見られるような強い中国色はほとんどない。全体の姿形は均整がとれていて、秀逸である。細部様式も派手さはないが、逆に抑制された上品さが感じられる。一部後世の改造が見られるが、創建当初の構造形式がよく保持されており、創立当時の伽藍遺構を構成する一連のものとして、建築史的価値の高い貴重な建造物である。」



大雄宝殿(重要文化財)









石門(長崎市指定有形文化財)
「聖福寺の背後に位置する金比羅山にあった祟岳神宮寺は、衰退を重ねた後、福済寺の住持であった唐僧木庵性瑫が無凡山神宮寺と命名した。この門は、神宮寺にあったもので、明治新政府より出された神仏分離令によって金比羅神社となり、仏寺関係の一切が除去破却された中で、境内に残された。石門の中央要石に、木庵筆「華蔵界」の文字が刻んであり、聖福寺開基鉄心道胖が木庵について修行した由縁があったので、1886(明治19)年聖福寺が金比羅神社より譲り受け、現在地に移築した。こうしたアーチ式の石門は、江戸初期に中国からもたらされた形式で、市内の寺院にいくつか残っている。この石門は神宮寺がさ再興された1725(享保10)年以降の建造と推定されるが、その唯一の遺構としても貴重である。」

庫裏





永昌寺山門

西園寺公望仮寓跡碑
「西園寺公望(1849~1940)は、京都の徳大寺公純の次男として生まれ、西園寺家を相続し、後に文相や首相を歴任、最後の元老として重きをなしました。公望は1870(明治3)年4月、広運館に入学し、フランス領事のレオン・ジュリーやフルベッキからフランス語を学びました。長崎滞在中の公望は家臣山口正信とともにこの地に居住しました。3年間を予定していた長崎遊学は、フランス留学の辞令が出たためわずか7か月余りで終わりを告げました。」


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