花も嵐も寅次郎

ラインブログから、また戻ってきました。

渡し場から吊り橋へ…そして美しいトラス橋へ😊渋川市大正橋

2019-10-17 10:54:19 | 日記

渋川市の利根川にかかる大正橋。
老朽化していたので、改修工事をしていてのは知ってましたが…ずいぶんキレイになったンですねぇ😄
歩道も整備されて…



すぐ隣に架かる鉄橋を渡るSLの、撮影スポットとして、展望台風の休憩コーナーまであります🤗





橋の無い頃、ここには渡し場がありました。


渡し舟は明治時代まで運航していたようですが、洪水で流されてしまった為、有志でお金を出し合って吊り橋を架け、その代わり渡る人からは、一銭ずつ徴収していたといいます。
この橋は大正2年に開通して大正橋と名づけられましたが、ようやく人が渡れるだけの幅しかありませんでした。
昭和4年になって、鉄製のトラス橋に架け換えられ、いまの姿になりました。
トラス橋とは、三角形を組み合わせた形の橋で、この形がいちばん重さに耐える強度を持っているのだそうですよ😋
ただデザインが美しいだけじゃなかったンですねぇ😉



この辺りの川の流れを、作家の菊地寛(文芸春秋社を創立した人で、芥川賞と直木賞を作った人としても知られています)
は、こう書いているそうです。
「関東平野を思うがままに馳せ下ろうとする、若々しい青年利根である❗」
この辺りの流れは激しく、橋の上から見下ろすと、そんな感じが確かにして、見ていて飽きません。


そういえば、ライトアップしていた季節もあったはず。
その頃にまた、来てみたいと思います。
一人淋しく…😅









通るたびに…チョッとドキッ❗とする😅太田市山之神

2019-10-16 10:53:17 | 日記

こちらは太田市の「山之神」という交差点。通りかかるたびに、何となくドキッ❗としてしまうのですが…😅


この辺りには怖〜い😖奥さん達が多い❗というワケではありません。
この近くに山の神様を祀った大山祇神社があるので、こんな地名になったようです😄
ところで、どうして奥さんのことを「山の神」などというのでしょうか❓
飲みに誘われたときなどに「ウチの山の神がウルサイから…」と断ったりしますが…
給料も賞与もソックリお供えして「これで全部でゴザイマス〜❗」と平伏するから…ではないようです。
もともと山にいる神様は女神なんだそうで、しかも嫉妬深くて醜女(しこめ)❗
だから美しい女性が登ると危ないので、昔から山は女人禁制❗なのだそうですよ😋
昔は、山で働く人々は、山の神様のご機嫌を取って、顔の醜いオコゼを供えたり、オコゼの干物を身に付けたといいますから…ドンダケ〜😜
「山の神」なんて言わないよ❗という人も「ウチのカミさん」とは言いますね。
あれは神さん❗で、まさに山の神のこと。知らず知らずに、崇め奉っているんですねぇ。
そういえばウチの山の神も、テレビの画面に美人が出ると、何だかプンプンして「フツーじゃん❗お金をかけて磨いてるだけじゃん❗」などと言ってます。
今度、オコゼを供えてみようかしらん😝


話変わって、こちらは境町の「百々」という交差点。「どうどう」と読むのだそうですが…
以前から不思議な地名だと思っていたら、たまたま図書館で見つけた「群馬の地名」という本に紹介されていました。
この辺りは広瀬川と粕川が合流する場所。
この広瀬川は、もともと利根川の本流であったので、川と川とがぶつかり合い「ドウドウ」と激しい水音がしていた…とのこと。
実は、この「どうどう」という地名は全国各地にありますが、共通しているのは河川の合流する場所なのだそうです。
それはナルホド❗😋と納得したとして…なぜ「どうどう」が「百々」なのでしょうか❓
この本の作者の尾崎喜左雄々という先生は、面白い説を述べられています。
「十」には「止」という区切りの意味があるので、百は「止」のさらに「止」で「とと」となる。これが「どど」になったのではないかと…


さてさて真相は分かりませんが、交差点を通るたびに「ハテこれは❓」と、ついつい考えてしまうように…なってしまいました〜🤔


船着き場で待っていてくれたのは…😍舟戸の渡し

2019-10-15 11:26:01 | 日記

こちらは利根川に架かる大正橋。
渋川方面へ行くときは、よく通るのですが…
こんな看板、気付かなかったなぁ😄


鉄橋の下を潜って、行ってみることにしました。




車で行けるのは、ここまで。
あとは民家の脇の細道を、歩いて下ります。
いまは歩く人もないのか、荒れた道を下ってゆくと、待っていたのは…


まるで迎えてくれるように、道端に彼岸花が並んで咲いていました。
何だか…嬉しい😃💕
誰も来ないのに、キレイに咲いているンだね。
江戸の頃、渡し場へ降りてくる旅人を、ヤッパリこうして迎えたンだろうか🤗







渡し場には、いまは何もありませんでした。
その昔、越後や信濃へ向かう人々は、皆この渡しから舟に乗りました。


重そうに旅人を乗せて、水面を滑ってゆく渡し舟を思い浮かべながら、帰ることにしました。
彼岸花達にも、サヨナラ❗と手を振って…😋










小泉が大泉になったワケは❓❓🤔大泉町成就院

2019-10-13 07:55:10 | 日記

ここは、大泉町の成就院というお寺です。
この近くには、戦国時代の小泉城という立派なお城の跡があり、このお寺こそ「小泉」という地名のもとになったというのですが…😊
その昔、この辺りは佐貫荘築比地郷(さぬきのしょうついひじごう)と呼ばれていました。
領主は築比地次郎良基(ついひじじろうよしもと)という豪族でした。
良基は仏教への信仰心が厚く、かねてから立派なお寺を建立したいものだと思っていましたが、なかなか適当な地が見つかりませんでした。
そんなある日のこと。
家臣とともに狩りにでかけた帰り道、良基が館の近くまで馬を駆けさせてくると、馬の足もとに清らかな水が流れているのに気づきました。
よく見ると、そこの地面から澄みきった水がコンコンと湧き出しています。
これは仏がお寺を建立する地を、自分にお示しになったに違いないと思った良基は、ただちに家臣に命じ、領内の大工を集めさせました。
夜を日に継いで工事は急がれ、良基の旧知である竜賀和尚が開山として招かれました。
そして落慶したお寺は、清らかな泉にちなみ「小泉山成就院」と名づけられました。
それ以来、この辺りは小泉❗という地名になったというですが…いまは何故か大泉❗になってます🤔


いまでも小泉町は残り「小泉町駅」もあるのに…ここは大泉町なンだよなぁ😁
ところで、東京都練馬区には「大泉学園町」があります。
じつは、ここももともとは小泉❗だったンだそうです。
やはり清らかな泉が湧き出していたので小泉(おいずみ)と地名になったのを「コイズミ」と読まれて紛らわしいので、これから大いに発展しよう❗と意味も込めて「大泉」に変えたンだそうです😄
こちらも同じかと思ったら…チョッと違うようです。
昭和32年(1957年)邑楽郡(おうらぐん)小泉町は大川町と合併し「大泉町」❗となりました❇️
大川町の大と小泉町の泉を、それぞれ新しい町名に残したのでしょうね。
そして偶然にも❓小泉はデッかくなって大泉❗❗になった〜😝というワケ。
説明が長くなって、少し疲れたましたが…地名ってホントに面白い❗❗ですね😋








首切り地蔵は…感謝のシルシ😑千代田町金剛寺

2019-10-11 10:57:32 | 日記

こちらは、邑楽郡千代田町の金剛寺。
とても質素な感じのお寺ですが…




こちらには「首切り地蔵」と呼ばれる、四基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。
宝篋印塔とは、美しい塔のようにデザインされたお墓のことのようです。
その昔…
この辺りの村々は大飢饉に襲われ、とうとう餓死者まで出る事態となりました。
これを見た寺の世話人達は額を集めて協議し、村人達を救うために寺にある杉の大木を伐採し、売却することに決めました。
これは実は命懸けの決心でした。
寺の杉の木を勝手に売却することは、到底許されることではなく、大罪に当たるからです。
しかし世話人達は、これ以上人々の窮状を見るに耐えませんでした。
杉の木は次々と伐り倒されて金子(きんす)に変えられ、一軒ずつ配られました。
村人達は、この金子で何とか生き延びることができました。
しかし、四人の世話人達は罪人として捕らえられ、住職をはじめとする村人達の必死の嘆願も聞き入れられず、処刑されてしまいました。
村人達は泣く泣く、四人の遺体を貰い受け、寺に四基の立派な宝篋印塔を建てて、これを「首切り地蔵」と呼んで、末代まで供養することにしたといいます。
その宝篋印塔も、いまは欠け落ち、無縁仏の墓のなかに埋もれていますが、村人達を救った四人の尊い行為は、いまも語り伝えられています。😊
台風が来ているというのに、宴会をしていたという知事や、内閣改造人事にウツツを抜かしていた政治家達に、四人の爪のアカを煎じて、飲ませてやりたい〜❗❗🤔