新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

86歳の高齢者になったという意味

2019-08-24 08:07:24 | コラム
テレビ局は老化の実態を何ら何ら理解していない:

いきなり英語で恐縮だが、“They don’t know what it means to be 80 or above years old.”とでも言っておきたい。「彼らテレビ局の連中は80歳を超えたら体が如何なる状態になるかが解っていない」と言うことだ。そんな高齢化の辛さを知ってか知らずにか、先ほどもテレ朝がさも解ったような調子で高齢者のアクセルの踏み間違いの事故が多いと言い、高齢者の教習所での講習会の様子を採り上げていた。彼らは何も解っていないなと腹立たしかった。

先日も昭和11年生まれのYM氏と語り合ったのだが、往年は小型飛行機操縦の免許と船舶一級の資格を持っていた身体能力抜群の彼も「歳には勝てなくなって、室内でも何でもない時に脚がふらついて危うく転びそうになることが屡々」と嘆いていた。黒井千次氏の「老いのゆくへ」という本には「低い位置にあるコンセントの抜き差しに苦戦した」とあるそうだが、余りにもその通り過ぎて悲しくなってしまった。そうなんである、今や脚が痛くて床に何か落としたら、身体をかがめて拾うのは大苦痛なのである。

私は若い頃から身体が柔らかい(英語では「関節が柔軟」という表現になっている)ことを誇ってきた。だが、86歳の今となっては両脚の付け根が痛んで一寸でも外に出て歩く度に苦しめられている。そこを何とか我慢して5分ほど経つと身体が温まってきて何とか普通に歩けるようにはなるが、そこに一寸した上り坂でもあれば再び塗炭の苦しみである。2年ほど前には言うなれば「80肩」に苦しめられたが、一昨日はつい気取って洗濯物を投げたところ、右の肩と肩甲骨の周辺に激痛が走って、姿勢如何ではPCを扱っても痛いという情けなさ。

今年の前半くらいまでは13年の夏以来苦しんでいた気象病が未だに自分の身体を蝕んでいてあちこちが痛むのだと信じていたが、掛かりつけのクリニックの医師も国立国際医療研究センター病院の主治医も「大病を何度もしたことと年齢の問題だ」とヤンワリと引導を渡された。そうなんである。「老化」とはそういうことで、何時までも若い頃のように身体が柔らかいなどと言うことはなく、それこそ順番にあちこちが痛んでくるものらしいと漸く解ってきた。今でも、ジムでストレッチをしていれば「柔らかいですね」などとお世辞を言われて喜んでいるが、「老い」は着実に進んできたのだ。

ここまでで何が言いたいのかと言えば、思うに高齢の方々が車を運転して事故を起こされるのは「最早手も足も往年のように思うようには動いていないし、また動かせるものではないのだ」という自覚が不足されていることも相当以上手伝っていると推察しているのだ。72歳まで中学以来の仲間と何ら年齢を感じることなくサッカーをやっていた私の脚が、腰が、床に物を落とせば痛さを堪えて拾うわねばならないほど老化しているのだ。運転をされる高齢者の頭脳と脚が思うように連動しなくても何ら不思議ではないと思う。

それを知らずして、如何にも高齢者の踏み間違いを悪であるかの如くに責め立てて、社会問題であるかのように騒ぎ立てるマスコミの無神経さを非難したくなるのだ。そう言われて悔しかったら80歳になって床に物を落として見ろ。階段を降りる怖さを味わって見ろ。急な坂道をこの酷暑に中を痛む足を引きずって上って見ろと言ってやりたい。高齢化社会とはこういうものであり、何も身体障害者の為だけにバリヤーフリー(念の為に申し上げておくが、これはカタカナ語だ)があるのではないと思っている。これ以上騒ぎ立てる気ならば、いっその事高齢者全員に自動運転の車を支給するべしとでも訴えたらどうだ。



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