「外道クライマー」を読んだ
最近の近況と読んだ動機
自分はここ一年ぐらいロッククライミングにどっぷりはまっており、仕事中心の生活からクライミング中心の生活になっている。(仕事を「八時間のレスト(休憩)」と呼ぶぐらい仕事の生活における優先順位は下がってしまっている)
ロッククライミングは必然的に山登り、つまり登山と深いつながりがあり、岩を登るために山に登るということもあるぐらいである(東京の奥多摩の御嶽渓谷沿いなどの岩場は別として)
なので最近は山に関する本も複数冊読んでいるのだが、一番読み物として面白かったのが「外道クライマー」である。
なぜ外道クライマーなのか
筆者の宮城公博さんは、沢登りといって山登りの中でも沢をそのまま遡上していくというスタイルの登山家、クライマーである。その筆者がなぜ外道かというと、世界遺産の那智の滝(御神体)を登ろうとしたからである。
その理由がクライミングを多少なりともやってる人ならわかる「登れそうだから登った、誰も登っていないから登った」という単純なものであるからおもしろい。(逮捕はされている)登山やクライミングの世界では「初めて」というものが一番価値が大きいのであるが、本書は那智の滝の顛末からタイの奥地の未踏部分の探検から日本最後の未踏地とされている部分への挑戦まで書いており、「世界にまだ残る未踏」への挑戦とそれによって得る何かとは何かというものが書かれている。
冒険とはなんなのか
本書でそれとなく書かれているが一番重要で、一番印象に残ったのは「冒険とは何か」「冒険という言葉が最近安っぽくなっていないか」ということである。
曰く「冒険とは危険であるかもしれないしそうでもないかもしれない、まったくなにもわからない状態からその先がどうなっているのかを確かめに行く行為」を冒険というのであって「ある程度安全が保証されたもの、例えばロシアを自転車で横断する」というようなものは道路が舗装されているし、ある程度の安全は確保されているのだから冒険とは呼べないのではないかというものである。
世界に未踏の地がなくなってしまった(あったとしてもそれが本当に未踏なのかはわからないが)として、筆者の定義する冒険というものが果たして存在するのかという疑問はさておいて、冒険の定義が広くなり、安っぽくなっているのではないかという指摘は非常に共感を覚えた。危険を省みない、無謀なことを冒険というのではないが、手探りの状態から何かを得るのが冒険だというのであれば、たしかに安全が確保された冒険は冒険と呼べるものではないのかもしれない。
文章自体は軽いというか重厚さがないぶん読みやすく、かといっておふざけ一辺倒ではない。すんなりと読むことができるいい本であった。
クライマーのほぼ全員がここまで無謀なことをやる人間ではないが、こんな風に何かを突き詰めて登ってみたいなあとおもいつつ、「バカでしょ」と軽く笑いつつ、そういうものが半分半分の読後感であった。