何度か書いては消して、書いては消して、やはり「誰でも見られる」この場に残しておきたいと思い、書く。

コロナ第二波、第三波とマスコミが命名するものが到来し、ずっとモヤモヤした思いを抱えていた。






 
東京で一日あたりの新規感染者数が500人を超えた。
これまでで「最多」。(これだって"本当に"最多かは分からない。PCR検査数の増減、暗数の増減に言及しない"最多"に踊らされるのは如何なものだろう。)


今こそ、「最前線で働いている方々のために」自分の行動を制限する時では?
あの耳障りの良いキャッチコピーは何だったんだろう。どこへ消えたんだろう。
あの時、声高にあのキャンペーンに参加していた人達は、本心からそう思っていたのだろうか。
"周りの雰囲気"に流されていただけでは?


自粛期間中に、熱心に活動していたコロナ警察はどこに消えてしまったのだろう。
「国民みなが我慢しているのに、みなと違うことをするなんて非国民だ!」というくらいの勢いで、袋叩きにしていた。
マクロン大統領じゃないが、まるで戦時下のようだった。




 

非常時は、人は何か良い(または"良いとされる")行いをすることで、ショック状態にある心を立ち直そうとする。
災害時のボランティア活動などが例となるだろう。


問題なのは、その"善"でもって一致団結し、"悪"や少数を攻撃して排除しようとする傾向。
海外から輸入された「最前線〜」キャンペーンは、まさにこの一致団結に打ってつけだったのだろう。
だって、今それを声高に言ってる人、いる?
 

学校でわざわざ全校生徒が拍手を"させられる"、それをマスコミが報道する。
本来ならば拍手をしたい人はすれば良いし、したくない人はしなくて良いはずなのに、"良いとされる"行動は強制される。
勝つまでは我慢することが"良い(美徳)とされた"戦時下を彷彿とさせる。





 
自粛に対する行動基準とは?
感染者数が増えた時の自主規制は?
GoToだって、時期尚早と感じていた方は少なくなかったはず。
自主的に使わない選択もあったはず。
コロナ禍で、経済を回すことは少なからず感染を拡大するリスクを伴う。
にも関わらず結局、自粛もGoToも、最初から最後まで国の言いなり。
 

"考える力"とやらは、どこに行ってしまったのだろうか。


あの時、「最前線で働いてる方のことを考えれば」「万が一」という美辞麗句をうんざりするほど聞いた。
結局それって他人が基準。
その他「大勢」と違う行動や意見を取ると不安になるという潜在意識。


自分で考えて行動に移すことは、集団圧力という大きな闇と時として対峙すること。
制限された中で、自分たちに出来ることを考える。





 
私の基準は、あの頃も今も変わらず、自分にある。
「自分さえ良ければいいのか」と言う人がいたけれど、確かに私は自分と家族が大切だ。
第一波の時も、自分たちの心身の休息のために県をまたいで移動した。


自分たちの生活や心に余裕がないと、他の人たちのことも思いやれない。
私は、聖人君子ではないから。




 
なにか勘違いされている方が多くて驚いたのだが、このブログは読者の共感を得たり、仲良しごっこをするために書いている訳じゃない。
子育ての悩みや面白いスポットの紹介など、いつか誰かの役に立つかもしれないと思う情報を、「私が」取捨選択して発信している。


自分の頭の中を無料で公開しているに過ぎないのに、見るのは自由なのに、なぜ批判をするのだろう。
あの時、批判をされてやや迎合してしまった自分も恥ずかしく、ずっとモヤモヤしていた。


普段から交流のある方からの反対意見は、一つの意見としてしかと受け止めたい。
けれど、非常時にだけ攻撃してくるのは卑怯だなと思った。

 



日本国民の大多数が、自粛と言われれば自粛する。
それはそれで、自分で納得して選んだことなのであれば、良いじゃないか。
「皆が自粛しているのに」という文脈じゃなく、皆がそれぞれ自分にできることを、他人にもきちんと配慮をしながら、すれば良いと思う。


与えられた環境で存分に楽しむ努力をすればいい。
与えられた環境は、皆それぞれ違うのだから。