このブログに最初の記事を投稿したのは2014年8月で、その時からすでに5年あまりの歳月が過ぎ、投稿した記事の数は130に達しています。
私はそれらの記事の中で、自分自身のオリジナルな形而上学、ヴェーダーンタなどのインド哲学、量子力学、進化論、インドの偉大なヨーギや聖賢、聖者の紹介、太古のインドから受け継がれた預言書、神の化身についての神話、叙事詩、個人的な体験談などを通して、サイババというアヴァターに秘められている人智では計り知れない偉大な神秘、その教えの価値に関する情報を発信してきました。
そうして費やしてきた少なからぬ時間と労力の中で何を言いたかったのかというと、結局のところそれは 『人は、生まれてきたのであれば何をすべきなのか?』 ということです。
それを教え諭すのが真の宗教です。
しかし、真の宗教に秘められている神の教えは人智をはるかに超越していて、学問や知識として学べるものでも、理解できるものでも、人から人へと伝えることができるものでもありません。
仏陀の教えはどれほど仏教を学んだところで理解できないし、キリストの教えはいかにIQが高く信仰心の篤い人が、いかに熱心に学び研究したとしても永遠に正しくは理解できません。
仏陀の教えを理解できるのは、仏陀の教えを学んだ人間ではなく、仏陀と同じ霊的境地まで到達した人だけであり、キリストの教えを理解できるのも、キリストの教えを学んだ人ではなくキリストと同じ霊的レベルまで自らも到達した人だけです。
したがって、仏陀の教えを理解できる人はキリストの教えも理解できますしムハンマドの教えもラーマナマハリシの教えも、ラーマクリシュナ パラマハンサの教えも理解できます。
なぜなら、こうした人々は、ほぼ人間に許された霊性のゴールに到達している人たちだからです。
このことを最も明確に教え諭したのは、ラーマクリシュナ パラマハンサです。
彼は、ヒンドゥーにおける正当なブラフミン(バラモン、ブラーミンと呼ばれる最高位のカースト)に神童とみなされるほどの知性の輝きをもって生まれましたが、ある時、教師の語る教えが真理を開示するためのものではなく、単にこの世的な金銭を得るためのものであることに気づき、その瞬間から、学ぶということのすべてを放棄し、それ以降は死ぬまで自分の名前すら読み書き出来ない文盲としての人生に身を置き続けました。
しかし彼は、人から学ぶことの一切を拒否しましたが、その人生のすべての時間を、寝食を忘れたバクティ ヨーガの中で神を探し求めて生きました。
そしてその結果、彼は神を悟り、仏陀やシャンカラと並び称されるほどの賢者として崇敬される存在になったのです。
しかし、ラーマクリシュナ パラマハンサはそれだけでは満足せず、「神を悟れるのはヒンドゥー教徒だけの特権なのだろうか?」という疑問を抱きました。
「ヒンドゥーによって神を悟れるのであれば、キリスト教やイスラム教といった異教の道を通っても同じように神を悟れるのではないか」と彼は直感し、ヒンドゥー教徒であることをいったん捨ててキリスト教徒の中に入り、キリスト教徒のようにキリストを礼拝し、キリストにただひたすら祈り、キリストを瞑想するというサーダナを始めました。
そしてその結果、彼はその行の中でキリストを人類に遣わした神と邂逅しました。
イスラム教の神に対しても同じことを試み、やはり彼らの神と邂逅しました。
そして、その体験をもとに、彼は弟子たちに向かってこう告げました。
「ヒンドゥー教徒が礼拝してる神も、キリスト教徒が礼拝している神も、イスラム教徒が礼拝している神も全く同一の神である。それは宇宙の創造者であり、維持者であり、自分以上の存在を持たない唯一無二の絶対実在である」
つまり、、各宗教の聖典や教えを通して信者たちが見出している異教の神と自らの宗教の神の間にある違いは、神そのものにあるのではなく、あまりに超越的である神を完全には把握することも理解することもできない不完全な人智や霊性が描き出した迷妄にすぎないということです。
ラーマクリシュナ パラマハンサのもっとも有名な弟子であるスワミ・ヴィヴェーカーナンダは仏教について、1893年にアメリカで開催された世界宗教会議におけるスピーチの中で以下のように述べています。
「私はヒンドゥー教徒ですが、同時に仏教徒です。
この両者の教えに根本的な矛盾は存在しません。
仏陀は、ヒンドゥー教を破壊するために来たのではなく、完成するために来たのです。
ヒンドゥー教は仏教なしには存続できないし、仏教はヒンドゥー教なしには生きられません。
仏教徒はブラーミン(バラモン)の頭脳と哲学なしには立てないし、ブラーミンは仏教徒のハートなしには立てません。
仏教徒とブラーミンとの間のこの分離がインド没落の原因でした」
神も真理も、知識として学ぶことによってではなく、直接体験(ヨーガという言葉の意味する、それとの合一によってそれを悟ること)によってだけ知りえるものであって、そうしたものを学問や知識として学んだだけの人たちは、それらについて人に教える資格を持ちません。
そうした人たちが語る神の教えは、道を知らない盲人による道案内のようなもので、教える人と教えられる人の双方を間違った道へと導くものにしかならないからです。
そうした人々が、教師として、説教者として、布教者として大衆に語りだすとどうなるかというと、我々が生きている世界のようになるのです。
話が本題からそれかかっているので、軌道修正します。
「人は生まれてきたのであれば何をすべきなのか?」という話です。
端的に言えば、それは 「自分を、生も死も超越したところにある、絶対的な至福と愛と平安のなかに永遠に救済すること」 です。
では、そのためにはどうすればいいのでしょう?
すべての偉大な宗教の聖典も、サイババ様も 「それは神の教えに従って生きることだ」 と教えます。
各宗教に開示されている神の教えは人に 「善をなし、徳を積み、心からエゴを取り除き、思いと言葉と行為のすべてを愛で満たしながら生きるように」 教えています。
しかし、問題が一つあります。
神の言う、人間がなすべき 「善」も、「徳」も、心から取り去るべき「エゴ」も、思いと言葉と行動のすべてに満たすべき「愛」も、それが何であるかは人間には「正しく」は理解できないということです。
なぜならそれは、人智をはるかに超越した神を存在基盤としているからです。
すべての宗教の間で対立が起こり、互いが互いを破壊しあうような争いに発展し、それが日に日に激化しています。
宗教間の争いは、異教徒との間だけで起こるのではなく、同じ宗教の中でも起こります。
日本でも、仏教は多くの宗派に分かれて対立しています。
キリスト教も、西洋では、自分の宗教を申告するとき、もはやクリスチャンというだけでは受け付けられなくなっているほど多くの宗派に分裂しています。
イスラム教も例外ではありません。
なぜ同じ宗教に立が生まれ、分裂し、争いへと発展していくのでしょう?
現代社会で最も過激に対立し、争い会っているのはキリスト教とイスラム教ですが、この二つの宗教の原点には旧約聖書があり、本来であればこの二つの宗教は兄弟のような関係を持てるはずのものです。
にもかかわらず、敵対し憎みあい破壊しあう関係に陥っているのはなぜなのでしょう?
その原因は、経典や聖典に書かれている、神の教えや開祖の教えに対する解釈が生み出しているものです。
なぜそうした解釈が生まれるかというと、真理に立脚した神の教えや開祖の教えを理解することが、そのレベルに達していない人には不可能だからです。
すべての宗教を通して神が人類救済のために与えておいた神の教えは、その宗教の指導者が 「こうに違いない」 と独善的に思った瞬間から、社会を害するもの、人に道を誤らせていくものに変わっていきます。
人が愚かであればあるほど、このことが理解できません。
その結果として出来上がったのが、この世界です。
聖典や経典の理解は決して、自分の外から知識としてはやってきません。
自分の中から、悟りという形をとった叡智としてやって来るだけです。
つまり、聖典の理解は聖典を学び、研究するだけでは決して得られないのです。
聖典を学ぶことは重要です。
しかしそれはあくまで、これらのことを理解したうえで学ぶならば、という前提があっての話です。
宗教の聖典や経典とは、人に、人生を通してたどり着くべき目的地があることを教える地図のようなものです。
地図なしにその場所にたどり着くことはできません。
しかし、聖典のほとんどすべては、長い年月の中で記述の多くが失われ、風化し、破損し、その時代時代の権力者たちによって都合が悪い部分は消され、都合がいいように書き換えられてきています。
それは、誰にも否定できない事実であり、すべての宗教の指導者も信者も、このことをもう一度自らに問い、謙虚になる必要があります。
謙虚になれる人間だけが、他の宗教に対して寛容になり、敬意を払えます。
他の宗教に敬意を払える人間だけが、他の宗教から敬意を払われます。
逆もまた真なり、です。
本来、すべての宗教の聖典や経典の学習には、それを学ぼうとする人に備わっている知性や霊性のレベル、生まれ持った心の傾向などを鑑みながら、その人にとって最善の導きとなるようにかみ砕いて解説し、教え諭すグル(至高の悟りを得た師)が必要不可欠です。
しかし、カリユガと呼ばれる現代にはそうした聖賢をグルとして得ることは不可能です。
サイババ様は、「そうしたグルは現代の世界にもいるにはいるが、ヒマラヤなどに隠遁していて、人前に出ることはしない」 と仰っていました。
では「どうすればいいか?」
その答えが「ガーヤトリーマントラ」です。
それについては、これまでにも何度となく、「書こう、書こう!」と思いながら書けずにいたことなのですが、今回は再度挑戦しています。(半月以上かかりましたが、何とか書きあがりました。いま推敲中で、文字数限界ギリギリです。PCのバグによって、乱文が発生するかもしれませんが、ご容赦ねがいます)
なぜ何年間も、何も書けずにいたかというと、たぶん・・・ですが、一番の原因はおそらく私にまだそれ(ガーヤトリーマントラの重要性)を他人に向けて発信する資格がなかったからだと思います。
ガーヤトリーマントラそのものは以前から、毎日欠かさずに唱えていたのですが、サイババ様の帰依者として十分といえるほど真摯な思いをもって唱えていたわけではありませんでした。
私は元々、極度の音痴であり、外国語の発音も聞き取りも底辺レベルの才能しかない人間だったので、サンスクリットという特殊な言語と、ヴェーダとい特殊な音階と、アクセントと、イントネーションによって構成されているガーヤトリーマントラは敷居が高すぎて、どうしてもあるレベル以上には深入りできずにいたのです。
サイババ様が教え諭される 「人が生きるうえで最も重要なこと」の中には、「思いと言葉と行動を一致させて生きる」というのがあります。
どういうことかといえば、簡単な話で 「心で思っていることと話していることと実際に行っていることのあいだに嘘や乖離があってはいけない」 ということです。
私は自分以外の人に向かって 「ガーヤトリーマントラを唱えることの重要性」 について伝えようとしていました。
であるならば、私は私自身の霊性修行の中で、ガーヤトリーマントラにそれにふさわしい敬意を払い、それにふさわしいかかわりをしていなければなりませんでした。
もしそうでないのなら、私はガーヤトリーマントラの重要さを真には認めていないことになり 「ガーヤトリーマントラの重要性」 を語る資格はないということになるからです。
で、どうなったかというと、一か月ほど前から突然、以前よりはガーヤトリーマントラをより正確に、大事に、より適切な時間に唱えることができるようになっていました。
しかしそれは、私がそうしようと決意したり、努力した結果そうなったわけではなく、なぜかある日ふと気が付いたらそうなっていただけです。
実を言うとこれが私の霊性の歩みにおける特徴でして、瞑想を一日6時間前後一日も休まず何年間も続けるようになった時も、肉、魚、卵を一切食べないヴェジタリアンになった時も(ちなみに私は、ビーガンではありません。ビーガンはこれに加えてミルク、チーズ、ヨーグルト、バターなどの乳製品も飲食せず、かつ革製品も使用しない人たちのことで、ヒンドゥーでは、牛は神聖な生き物であり、その贈り物である乳製品は浄性の食物と考えられているので、インドではビーガンはほとんど見たことがありません)自分の意志や努力によってそうなったわけではなく、気が付くと何故かいつの間にかそうなっていただけです。
この世に存在するものには、すべてのものに三つの属性(グナ)が備わっています。
飲食物にも、霊性修行にも、一日の時間の中にも、鈍性、激性、浄性の三種類があります。
食べ物で言えば魚は鈍性の食べ物(食べた人を鈍性にする食べ物)で、動物の肉は激性で、果物や木の実や野菜などは浄性の食べ物です。
時間でいえば、朝の4時から8時までが浄性の時間で、瞑想や神への礼拝、沐浴、などの霊性修行に最も適した時間はこの浄化性の時間です。(注釈・ただ、太古の時間と現代の時間は厳密に言えば違っていて、太古の時間は夜明けや日没を起点に時間が決めていると考えられるので、その旨含み置く必要があると思われます)
AM8時時から夕刻の4時までが激性の時間で、この時間はこの世的な活動をするのに最も適した時間だといわれています。
PM4時からPM8時までが再び浄性の時間となり、太古の聖者たちもこの時間に瞑想や神への礼拝、沐浴などの霊性修行にあてました。
PM8時からAM4時までは鈍性の時間で、睡眠に最も適した時間です。
私は瞑想を始めて25年以上になりますが、どうしても「やろうとしてできなかったこと」があります。
それは、AM4時から8時までの浄性の時間に起きてガーヤトリーマントラを唱えたり瞑想をすることです。
私は子供のころから夜型人間で、どうしても早寝早起きができないでいたのです。
つねに、寝るのが朝の4時以降でした。
そんな私のダメなところを含めて守り導いてくださるのがサイババ様なので、ついに一か月ほど前から早朝の浄性の時間に起きて瞑想できるようになりました。
早寝早起きができるようになったのか? というと、そうではありません。
今でも寝るのは2時~4時の間です。
変わったのは寝る時間ではなく起きる時間です。
何時に寝ても、4時から6時までの間に間が覚めて、そのままガーヤトリーマントラを唱えスムーズに1時間ほどの瞑想に入れるようになったのです。
そしてこの時間に瞑想することが、他の時間に比べて特別であることも実感できるようになりました。
そのあと3~4時間ほど寝て昼前に起き、再びガーヤトリーマントラを唱え1時間ほど瞑想をし、夕方の浄性の時間にガーヤトリーマントラを唱え30分ほどの瞑想をし5曲のバジャンというのが最近の日課です。
カリユガというこの時代は、過去のあらゆる人生の中で神の試験に落第し続けてきたダメ人間しかいないような世界であり、かつ後がない最終試験のための世界のようなものなので、合格ラインがとてつもなく低いレベルまで下げられているとサイババ様は仰っています。
なので、太古の世界で「あらゆるユガの中で、最も人が幸運な時代はいつですか」と問いかけられた聖賢が「それは、カリユガである」と断言しているほどです。
しかも現代は、そのカリユガの中でも神が化身する私という最も幸運な時でもあるのです。
サイババ様は仰います。
「私に一歩近づきなさい。そうすれば、私は百歩あなたに近づきましょう」と。
ガーヤトリーマントラは、いつどこで唱えてもいいのですが、最も推奨されているのは日の出直前のサンディヤーとやばれる浄性の時間と正午と日没の浄性の時間の三回です。
唱える回数は、最低でもそれぞれの時に3回ずつ計9回です。
唱える回数は多ければ多いほどいいとされていますが、これには一つ大きな落とし穴があって、私が見てきた限りでは、数多く唱える人の多くは(アシュラムの長期滞在者の中には毎日1008回以上唱えている人もいました)、回数を多く唱えることが目的となり、そのせいで一回一回のガーヤトリーマントラが不正確で雑で機械的になり、それによって本人はある種の神秘体験をしますが、それは全く意味のない(どちらかというと病的な)何の霊的成長ももたらさないものなのとなってしまうので注意が必要です。
人は自分の目に見え、体験できる世界(物質世界)だけに注意を払って生きています。
その結果、自分とは肉体のことだ思い込みながら。
しかし、目に見え、物理的にその存在を確認できる物質世界は、目に見えず、物理的にその存在を発見できない不可知な世界に根を持って存在しています。
目に見えない物理的に不可知な世界は大きく分けて天界と地下界の二つあり、我々が生きている物質世界と合わせれば三つになります。
さらに、不可知な世界は13の世界に分かれているといわれています。
我々の世界がほぼ中間にあり、そこから神から離れて下方に堕ちていく世界と、神に向かって上昇していく世界です。
(注・ここで私が言及している神とは、ギリシャ神話に出てくるような神、日本で八百万の神と呼ばれているような存在とは全く違うものです。こうした神話に出てくる神は、ヒンドゥーでは半神と呼ばれているもので、私が神と記述しているものとは全く違った存在で、こうした神々の住む世界も14の世界のいずれかであり、私がここで神と記述しているものはそれらすべての世界の存在基盤となっているものです。もっとわかりやすく言うなら、目に見える宇宙や目に見えないすべての世界、天界、地界、現象界のすべて、過去と現在と未来のすべて、時間と空間と物質のすべてが滅び、消滅したとしても何の影響も受けることなく無傷で絶対的に存在し続けるものが真の神であり、そうでないものはどれほど超越的な力を持つ超越的な存在であっても、私がここで言及している神、サイババ様を神の化身と言うときの神ではないということです。
世界がそのような多重構造になっているように、我々の体も、物質として存在を発見できる肉体とは別に、物理的には決して発見できない多重構造をした四つの体を持っています。
その体はコーシャと呼ばれていて、鞘という意味です。
植物の鞘がだいじな種を守るための育成器のようなものであるように、目に見えない体も、人の存在にとって最も重要なものを保護し育てる育成期のような一面を持っているものです。
私たちの存在と生命活動は、不滅なるもの(真の自己であるアートマ)と、朽ちるもの(不滅でないもの)の融合と調和によって成り立っていると言われています。
私たちが自分と思っている物質的な肉体は、摂取した食物の粗大な部分(物質)を材料として作られているため【粗大体、食物鞘】と呼ばれていて、水面に出ている氷山のようにもっとも外側にあるものです。
その内には、水面下にあって目に見えない氷山の本体のように、精妙すぎて物理的には発見できない【生気鞘(微細体)】【心理鞘(微細体)】【理知鞘(原因体)】【歓喜鞘(超原因体)】の四つがあるといわれています。
摂取した食物の役に立たない部分は排泄され、物質として検出されない精妙な部分は、心の材料(心素)となります。
したがって、食べるものによって心の性質が大きく影響を受けるのです。
(このことは、この世的な科学の分野でもある程度知られていますが、物質科学によっては知ることのできない領域での影響というのは想像をはるかに超えています)
霊性修行者が動物の肉や魚を食べてはいけないといわれているのは、非暴力という観点からだけではなく、獣の肉を食べれば否応なく心がその性質に影響され、魚を食べれば否応なくその性質に影響されて、決してあるレベル以上に霊性を高めることはできないからです。
心理鞘の内には知性によって作られている理知鞘(微細体)があります。
ヨーガなどの霊性修行は、この幾層にも重なっている鞘を、粗雑な部分(外側)から内面へ内面へと向かって浄化し、最終的にはその深淵に隠されている真の自己であるアートマと合一するためのものです。
理知鞘の内側には、アーナンダ(至福)で作られた鞘があるといわれています。
霊的高みに達したヨーギや聖者が叡智に輝き至福に満ちているのはここまで達しているためであり、幸福は自分の外の世界にあるのではなく、自己の内面世界に隠されているといわれるゆえんです。
私たちが「死」と呼んでいるものによって滅び、消え去るのは肉体という食物で作られている粗大体だけであり、その内にある心(心理鞘)や更なる内にある自己は消え去ることなく生き残ります。
ヒンドゥーの聖賢やヨーギやリシたちが、我々が死と呼ぶ現象に際して、死という概念を持つ言葉は使わず「肉体を脱ぎ捨てる」というのはそのためです。
死後に行き着く世界は、この目に見えない体(鞘)の浄化の程度によって振り分けられていくという要素があります。
この世で、霊的に大きな力を持って生まれて、その力を誤った方向に使った人々が、死後に普通の人よりもはるかに過酷な、低級な世界に落ち、地獄から解放されても輪廻転生した先が、悲惨なものになったりするのはそのためです。
人が人に生まれてなさなければならないのは、力や、名声や、富や、地位や権力を得ることでもなければ、神社仏閣を立てたり、特定の宗教の信者を獲得したりすることでもなく、ただただ、自分をより善なる存在に、徳高く、愛に満ち、慈悲深く、神を愛し、神に受け入れてもらえる存在にまで昇華することです。
自分が持っている富や力や権力や、霊力が大きければ大きいほど、それを誤って使う確率も増え、死後に待ち受ける裁きも重くなり、輪廻転生後に待っているカルマの報いも過酷で悲劇的なものになります。
サイババ様が語られる太古の逸話の中に、大きな勢力を持つ教団の教祖として生きていた人が来世では野良犬に生まれ変わっていたというものがあります。
彼は、ラーマチャンドラというアヴァターが地上での役目を終えてこの世を立ち去ろうとするとき、「自分も連れて行ってほしい」とガンジス川に身を投げようとします。犬にしては奇妙な願いなので「なぜ?」と神は問います。犬である彼は「自分は前世ではとある教団の教祖であり、その時の過ちによって今生ではかくもみじめな境遇に生まれてしまい、もはや耐えられないのでお供することを許してほしい」と泣きついたのです。彼の話によれば、みじめな境遇に転生したのは自分だけではなく、自分に従って甘い汁を吸っていた弟子や取り巻きたちも同じであり、その者たちはたちは今、私の体に群がって生き血をすすって生きる蚤やダニになって私を苦しめているのです」と。
そのような悲劇に陥らないために、誰もが唱えるべきものがガーヤトリーマントラなのです。(@^^)/~~~
こうしたことを聞いても、単なるおとぎ話にしか感じられない人は感じられないでしょうが、私はサイババ様のアシュラムに住み着いている野良犬を見るたびにこの話が脳裏に浮かび 「過去世で何があってこうなっているのかはわからないけど、まぁ、野良犬は野良犬でもサイババ様のアシュラムに居つくことを許されている野良犬なら、大方の人間よりは救いがあると思うので、何も助けてはあげられないけど、頑張れ!」と秘かに思っていたりしました。
目の前の犬が、来世の自分の姿かもしれないので。(*^▽^*)/
(サイババ様のアシュラムに住み着いている野良犬には、アシュラムでその権限を与えられている帰依者以外は一切かかわってはいけない規則になっていました。手を触れるのも、えさをやるのもダメです。私が知る限り、すべての野良犬が全く吠えたりせず、きわめておとなしかった。そして、犬なのにヴェジタリアンでした。アシュラムにはヴェジタリアンの残飯しかないというだけの話ではありますが。
サイババ様のアシュラムには、昔、イギリス人の帰依者から送られたジャックとジルという二匹の犬がサイババ様のペットとして暮らしていたこともあります。一種の神話のように語り継がれているくらい有名な犬たちで、前世はサイババ様の学友だったラメーシュとスレーシュという二人の子供が生まれ変わったものだといわれています。この二人は、共に政府の役人を父に持つ裕福な家の子供でしたが、勉強がほとんどでませんでした。しかし、サイババ様を誰よりも慕いサイババ様にも愛されていました。この二人はサイババ様を慕う気持ちがあまりにも強かったため、サイババ様がサイババとしての活動を始められたとき、サイババ様との別離に耐え切れず、一人は井戸に身を投げて亡くなり、一人は気がふれてしまいました。そして、サイババ様が彼の両親の願いを聞き入れるかたちで見舞ったあとに静かに息を引き取りましたました。我々の目から見れば悲劇的な出来事ですが、サイババ様は「神への愛の最高の形である!」と称賛されていました。サイババ様との別れに耐え切れずに死んだ二人の魂はそのカルマによって、サイババ様に贈られるという運命を持った二匹の犬に生まれ変わり、サイババ様のそばで生涯を終えたのです。すべての人には人智では計り知れない過去世でなしてきたカルマの報いがあり、人知では計り知れない神の恩寵や祝福もあるという話です)
人が人として生まれてしなければならないのは、力や、名声や、富や、地位や権力を得ることでもなければ、神社仏閣を建てたり、特定の宗教の信者を獲得し勢力を拡大したり、超自然的な力を得たりすることでもなく、ただただ、自分をより善なる存在に、徳高く、愛に満ち、慈悲深く、神を愛し、神に愛される存在にまで昇華することです。
人はそのための精進努力をしなければなりませんが、しかしそれは本人の精進努力だけでは不可能なことでもあるのです。
なぜなら、我々が生きているこの世界には、その障害となる、人間の力ではどうすることもできない多くの力が充満しているからです。
人間の肉体と心の健康の大部分は、飲食するものに依存しています。
有害なものを含んだものを食べれば肉体だけでなく精神も異常をきたします。
自然科学は知りませんが、現代社会においてわれわれが安全だと思って飲食しているすべてのものがたった一つの例外なく汚染されています。
飲食物だけでなく、大気も汚染されています。
物理的な汚染ではなく、物質科学では絶対に検出することのできない根源的なレベルで汚染されていて、人の肉体と、精神と、霊性、知性のすべてを蝕んでいます。
人も社会も、邪悪に、より愚かに、より悪く、人品を卑しめ、狡猾に、偏狭で、孤独で、不幸になり続けているのはそのためです。
しかし、人間にはもはやどうすることもできません。
我々の生きている世界は、単独に存在しているわけではありません。
他の天界や地下界、さらにはその中にある13の世界と、一枚の紙の裏表のような、切っても切れないものとしてつながって存在しています。
したがって、この世界が抱え込んでいる問題を、この世界だけで解決することも不可能なのです。
心の活動は、厳密に言えばエネルギー活動です。
したがって、それは大気、虚空に充満し、あらゆるものに影響を与えます。
この世界に生を受けた人間だけでなく、獣や魚類や虫や植物や細菌に至るまで不可避の影響下に置き、すべての生物が誤作動を起こし始め、自分自身と世界の双方に混乱と破壊をもたらすようになります。
生物だけではなく、自然そのものが異常をきたし、天変地異も続発し始めます。
それを人間の力で止めることはできません。
あとは雪だるま式にその影響が増幅し、破滅へ向かって突き進んでいくだけです。
その流れを止める力は人間にはありません。
神にあるだけです。
人は神に頼ることを覚えなければなりません。
宗教にではなく、神に頼ることを始めなければならないのです。
神と宗教の違いは、宗教は神無くしはて存在できませんが、神は宗教とは無関係に絶対的に存在し続けるものです。
宗教は人類が滅びれば消え去りますが、神は人類が滅びようが、地球が滅びようが、宇宙が滅びようが、無傷で存在し続けます。
なぜなら、宇宙が神を生み出し育てているのでではなく、神が宇宙を生み出し育てているものだからです。
人類が滅びるのであればそれは「それが神の神の意志したことだ」ということでありであり、宇宙が滅びるのであればそれも神が意志したことだということです。
滅びゆく運命というレールに乗ってしまった人類を救えるのは人類ではありません。
神です。
人類を滅亡から救いたいのであれば、頼るべきは人智ではなく、神です。
そのことに気づかないのであれば、まもなくすべては終わります。
世界が変わる必要はありません。
あなたが変わればいいだけです。
あなたが真に、神我救済を意志するレベルまで変われば、神はあなたを救うためにあなたを支えている世界を救わざるを得なくなるからです。
人が宗教にとどまる限り、異教徒とは真の意味で兄弟姉妹にはなれません。
しかし、神に立脚すれば、すべての宗教の信者が宗教の垣根を越えて兄弟姉妹となることができます。
神は人智の及ばない遥かな太古から、人類がこうした危機に陥った時には常に、アヴァターとして地上に化身し人類を救ってきました。
そのアヴァターが自己と世界を救済するために不可欠なものとして人類に与えた、最高の恩寵がガーヤトリーマントラなのです。
サイババ様の御言葉
『今日からガーヤトリー ジャパ(ガヤトリーマントラを唱えること)によるサンディヤー礼拝(日の出と正午と日の入りの刻に行う礼拝)を始め、熱意を高めつつ、続けていきなさい。
あなた自身のため、そじて人類社会のために、しっかりと味わいながら元気よく(ポジティブな気持ちで)行いなさい』
『毎日ガヤトリーマントラを唱えなさい。
それは三界(地上界、地下界、天界)と三つのグナ(鈍性、激性、浄性)と三つの時(過去、現在、未来)を取り囲む限界から皆さんを開放し、ブラフマンの光輝へと導いてくれるでしょう。
ガーヤトリーは心を浄化するために唱えるべきです。
ガーヤトリーは太陽光線のようにあなたの内なる闇を払います。
心を開いてガーヤトリーマントラを唱え、人生で成功をおさめなさい。
木の幹が木を支えるように、ガヤトリーは人の身体を支えます。
ガーヤトリーなしには、人生という木は枯れてしまうでしょう。
ガーヤトリーを唱え、同時に両親を神として敬うなら、その両方の果報が共に働いて一つに結合し、人生に大きな影響を生み出すでしょう』
『バーラタでは、古代より、神聖なガーヤトリーマントラを通して、霊的意識を発達させてきました』
『ガーヤトリーマントラは、いつ、どこで唱えても構いませんが、心の清らかさだけは確保しなければなりません』
『私は皆さんに、入浴時にガーヤトリーマントラを唱えることを勧めます。
入浴時のほかにも、食事の前、眠りから目覚めたとき、そして床に就くときにも努めてガーヤトリーマントラを唱えるようにしなさい。
加えて最後に、「シャンティ」と三回唱えなさい。
そうすれば、あなたの体と心と魂という三つの存在に、シャンティ、すなわち平安をもたらしてくれるからです。
ガーヤトリーは、あなたが一生守らなければならない宝です。
決してガーヤトリーマントラをやめてはなりません。
他のマントラは、やめても、無視してもかまいませんが、ガーヤトリーマントラは少なくとも一日数回唱えるべきです。
ガーヤトリーマントラは、あなたがどこにいても、旅行をしているときも、家にいるときもあなたを危害から守ってくれます』
『人はガーヤトリーを瞑想することで、(宇宙を構成している)五つの元素と、人体の五つの生気と、アートマを包んでいる五つの鞘を動かしている本質を自覚できるようになります』
『ガーヤトリーマントラを唱えることによって、人の理知と直感力が発達します。
少なくとも、朝昼夕に一日三回ガーヤトリーマントラを唱えることは必須です。
これは人が日々なしてしまう間違った行い(カルマ)の影響を軽減させるのに役立ちます。
それはクレジットで品物を手に入れるかわりに現金で買うようなものです。
ガーヤトリーマントラを唱えることで、その日のカルマはその日に償われ、そのおかげで負債を積むことがなくなるのです』
『神はあなたの礼拝の形ではなく、あなたの思いの誠実さであなたを判断します。
神はあなたのシャクティ(力)ではなく、あなたのバクティ(神への愛、信仰)を見ます。
神はあなたのクラ(カースト)ではなく、あなたのグナ(性質)に気を留めます。
神はあなたのヴィッタ(財産)ではなく、あなたのチッタ(心)を見ます。
皆さんは心の浄化に励み、愛と正直さをもって正しい行いに従事しなければなりません。
もし罪深い行為に耽っているなら、どんなサーダナ(霊性修行)をしても無駄です』
『人は、食べ物と人の心の状態のつながりを認識すべきです。
現代人の間に広まっている悪魔のような性質の多くは、食べているものが主な原因です。
適量の、健全で浄性な食物を食べれば、よい性質が育まれます』
『ガーヤトリーマントラは、有益なあらゆるものを授けます。
ガーヤトリーマントラを唱えられると、様々な力がその内面から浮上してきます。
ですから、ガーヤトリーマントラを不用意に扱うべきではありません』
『神はあなたから遠く離れたどこかにいると想像してはなりません。
皆さんは何を見ても、何をしても、何に触っても神を想うことを習得しなければなりません』
『ガーヤトリー ジャパには何の制限もありませんが、伝統的には108回繰り返すことが必要とされています。
しかし、不幸なことに、回数が決められると、その努力は無意識のうちになんとしても数をこなそうという強制的な行へと貶められ、ガーヤトリーマントラの力と荘厳さを黙想するという喜びに影を落とします。
ガーヤトリーマントラへの愛と敬意、そして約束された果報を信じることのほうが、さまよえる心でただ機械的に唱えることよりはるかに重要です』
「ガーヤトリーマントラを唱えるうえで注意すべきことはありますか?」という帰依者の問いに対するサイババ様の答え。
『あせったり、急いだりすることなく、一語一語はっきりと明確に発音すべきです』
ガーヤトリーマントラはヴェーダであり、ヴェーダの真髄です。
すべてのヴェーダは、幾千年、幾万年という太古からたった一つの方法で学ばれ今日まで完全な状態のまま継承されてきました。
その方法とは、師が唱えるヴェーダーを耳で聞き、聞いたとおりに完全にコピーして唱えるという方法です。
したがって、ガーヤトリーマントラもまた、ガヤートリーマントラをヴィシュワミトラという聖賢を通して人類に授けた神の化身であるサイババ様が、帰依者に教えるために唱えて聞かせておられる音源を聞き、それをできるだけ正確に耳コピするのが最善です。
ただし、サンスクリットであるガーヤトリーマントラには、日本語にない発音(したがって聞き取れない音)がかなり含まれているので、それを補足するためには、それを文字や図で解説したテキストなどで勉強する必要もあります。
信頼できる師から習えばそれに越したことはないのですが、このブログは、そうした環境にいない人を主な対象にしているので、とりあえずは、サイババ様の唱えて聞かせているガーヤトリーマントラをできる限り正確にコピーして唱えられるよう努力してください。
サイババ様のテキスト音源(サティヤサイオーガニゼーション公式のもの)は、以下のURLをクリックすればアクセスできるはずです。👇
サイババ様によるガーヤトリーマントラ(練習用3回)
https://sathyasai.or.jp/gayatrimm/sound/gy.mp3
「サイババ ガーヤトリー」で検索すれば トップ画面にサイババ様の画像を貼り付けた多くのyoutube動画がヒットしますが、どれも過剰なBGMなどが付け加えられたりしていて推奨できるものはないし、中にはサイババガーヤトリーマントラと表記しておきながら、実際はサイババ様の唱えるガーヤトリーマントラではないものや、ガーヤトリーマントラですらないものもあるので(普通の人には判別できないと思いますが)無視することをお勧めします。
ガーヤトリーマントラを唱えるについての注意点は、サイババ様の唱えるものを、速度、アクセント、イントネーション、キー、各音節の切り方、雰囲気、に至るまで、とにかく「忠実に耳コピするよう努力する」ということです。
決して自己流にアレンジしてはいけません。
「努力してもできない」というのならサイババ様はその真摯な努力や思いに重きを置いて祝福されるので問題もありませんが(←なおこのソースは私自身の体験です)、いい加減な気持ちで取り組んだり、自分の耳に心地よいように歌うように唱えたり、怒鳴るように唱えたり、うなるように唱えたりしてはダメです。
それらに加えて、ガーヤトリーマントラが何のために授けられたものなのか、その意味も正しく認識して唱える必要があります。
ガーヤトリーマントラのカタカナ表記
👇
オーム(宇宙の始まりの時に鳴り響いた最も神聖にして重要な音)
ブール ブヴァッ スヴァハ
タッ(ト) サヴィトゥル ヴァレーンニャム
バルゴー デーヴァッスヤ ディーマヒ
ディーヨー ヨー ナッ プラチョーダヤー(ト)
ガヤトリーマントラの書面テキスト(サティヤサイオーガニゼーション公式)
https://sathyasai.or.jp/gayatrimm/howto.html
なお、ガーヤトリーマントラを終わるときは「om shanty」を三回唱えて終わります。
(サイババ様の帰依者は、さらにそのあとに「みんな(この世界だけでなく14世界のすべてが)幸せになりますように」という意味の、ユニバーサルプレイヤーを唱えて終わります。
👇
http://sai.way-nifty.com/gayatri/universal_prayer.mp3
今回の記事は以上です。
ではまた。
みんな幸せになりますように。
サイラム <(_ _)>