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日常語り。たまに創作。 映画・漫画・TV・料理・小説・写真。 精神科の病気について...。 PC版推奨。
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 幼少のころ、恐らく私は、人見知りをしなかっただろう。母親の後さえ追わず、奔放に、あっちへふらふら、こっちへふらふらしていたように思う。六つ上の心配性な兄が、私の世話を嫌がったというのも頷ける。目に映るもの映らないもの、すべてに興味があって、知りたがる。大人からすると少々、厄介な子供だっただろう。


 厄介な子供だったのはその頃だけではない。幼稚園から大学に至るまで、教師にとって厄介だったことは間違いない。幼少期の記憶はほとんどないのだが、順を追って考えることにする。


 


 大阪府大阪市にて第二子として生まれ、三歳から三年間幼稚園へ通う。兄の通った幼稚園とは違い、小学校が同じになる子の多い幼稚園へ通っていた。その分遠いため、園長先生が自家用車で迎えに来てくれるという、特別待遇だった。兄は幼稚園が違う子たちばかりの小学校入学式で可哀想だったため、私の幼稚園を決めたらしい。どう考えても、私と兄が逆なら問題なかった。多分私は、知らない子たちとの入学式でも、兄の様にしょんぼりしたりしなかっただろう。


 


 つまり、私の実家から小学校もとても遠い。小学生の足だと三十分を超える時間、歩かなければならない。もちろん、徒歩以外の手段は許されていない。今考えても、遠いことによる一番の問題は、変質者に狙われやすいことだろう。二日に一度は、何かしらの加害をされていたと記憶している。一番多かったのが、歩いている私の後をついてくる自転車。たまに追い越しても、戻ってくる。何人もいたが、すべて男性。何がしたいのか。怖がらせて、ほくそ笑んでいるのか。一度だけ、虫の居所が悪く「何か用ですか」と怒号の様に叫んだことがある。相手は逃げて行った。今ならわかる。これは危険な行動だった。相手がナイフでも持っていたらどうなっていたことか。ただ、驚いた顔で逃げていく若い男を見て、しょーもない馬鹿だな、と思えたことは良かったかもしれない。


 ある日、本を読みながら歩いていた。そのことは私が悪い。家まで一分、すぐ近くだった。すれ違いざまに、胸をもまれた。顔をあげると、にやにやしながら私を見ていた。正直そんなことはどうでもよくて、本の続きにすぐ戻った。だが、今考えると気持ちが悪いことこの上ない。よくある、露出狂もたびたび見たし、そんなことは日常茶飯事だった。


 小学生時代の私は、はきはきして好奇心旺盛で、優等生といった具合だった。優等生と言われることは嫌だったが。


 


 小学五年生の時、はじめて「死にたい」と思った。担任と合わず、仲の良い友人全員と違うクラス。今思えば馬鹿馬鹿しいが、確実にストレスになっていた。この前後、母方の祖母と一緒に暮らしていた。今でいうと認知症で、母親が介護していた。到底、素人が家ですべき介護ではなかったが。


 


 原因なんてものは、必ずしも大事だとは言えない。そう思っている。きっかけは些細な事。ただ、少しずつ、ストレスとなり、溜まっていったんだろう。


 中学校に入って部活をした。吹奏楽部だ。一年の頃は楽しくて楽しくて、小五ごろの鬱憤は消え去っていた。ただ、この部活もまた、大きなストレス源となる。本当に、人生の長さを考えたら、些細な出来事だと思う。皆に慕われた実力のある先生が、定年をとっくに越えていたので、新しい先生と変わる過渡期だった。おじいちゃんとおばちゃん、この二人がまた、仲が悪い。私の一年先輩はおじいちゃん先生を慕っていた。簡単に言うと、おばちゃん先生をいじめようとしていた。それに気づいた私は、先輩に楯突く形になってしまった。予想外に、友人を巻き込んで。念のためにいうが、私はどっち派でもない。特別おばちゃん先生が好きなわけではなく、やろうとしていた行動に反発したのだ。ただ、それはこちら側の言い分である。先輩方及び、そちらについた()一部の同期に、敵とみなされた。いじめられたとは、昔から思っていない。が、そのようなものだろう。私を苦しめたのは、攻撃対象が私だけではなかったこと。一人でかぶろうとすれば、もれなく叱られていたが、やはり私には、友人たちが苦しんでいる姿を見ることが一番の苦痛だった。申し訳なくて仕方がなかった。そしてその時、先生方からはそれぞれ、次期部長にならないかと言われていた。だが、黙っているように指示された。中二の秋ごろでもまだ、言えなかった。一緒に苦しんでくれた友人たちにさえ。


 結果から言うと、最終的には全員が仲間として私たちは引退できた。ただし、かなりの人数が辞めていった後だったが。その間、様々の細かい出来事に対していた訳だが「やつれていた」と称される程度には、疲れていたようだった。部活引退後は遊びまくった。


 


 忙しかった中二の頃、友人たちと帰路についている時、ふと気付いた。自分の肩や頭の上には曇天が広がり、それはいついかなる時にも晴れてはくれない。すぐに分かった。私は、病気だ。それはとても珍しいことらしいが、なぜか私は病気であることを確信した。


 


 幼少より、休むことは駄目なことだと強くしつけられてきた。「嫌でもみんな頑張ってんねん。」根性論を信じている、両親はそんなタイプだった。


 病気を確信したその時、瞬時に計画が頭を巡った。何とか、何とか、大学卒業まで頑張ろう。だましだまし、大学まで卒業して家を出よう。そしたら、通院できる。今考えたら、別に高校生でも通院は出来たと思うのだが、両親にばれてはいけない、その一心で思い込んでしまったようだ。


 


 これからはずっと、我慢の毎日だった。どんどん出来ることが少なくなり、日に日に死にたくて仕方なくなってくる。しかも、高校・大学と電車通学だった。何度飛び降りようと思ったことか。しかし私は、今に至るまで自殺をしたことがない。私は病気以外にも、どこかおかしいのかもしれない。自傷行為も、身体を傷つけるのは痛いだろうし怖い。臆病なのか何なのか、自分の身体に傷をつけたことがない。自分の症状は大したことがないのかと、何度も疑問に思っている。


 とにかく、我慢の繰り返しで、耐えて耐えて、辛ければ寝て、寝て寝て、大学四年に、なれなかった。留年の通知書を見て思ったことは、そりゃあそうだろうということ。この頃にはすっかり過眠症で、そもそも布団から起き上がることさえ辛かった。大学なんて、ほとんど行っていない。高校もさぼりまくっていた。高校をストレートで卒業でき、一応大学に入れたのは、奇跡に近い。


 限界を感じ、人や薬を頼るしか方法がないと確信した。治療したい旨を伝えた母の反応は「父さんと母さんだってしんどいけど、毎日働いて頑張っている。理解は出来ない。自分のことは自分で勝手にしたらいい。」といったもの。想像と大差はなかったが、やはり辛かった。


 





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