ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

樋口直美 誤作動する脳 医学書院

2020-09-24 23:15:25 | エッセイ
 医学書院の「シリーズ・ケアをひらく」の一冊。最近、このシリーズを読むことが増えた。現代日本で最もアクティブでアトラクティブで挑発的なシリーズ、と言っていいと思う。
 著者は、レビー小体型認知症の当事者である。
 レビー小体型認知症とは、脳の神経細胞の中にレビー小体という、ある種のたんぱく質の塊りが蓄積することによっておこるレビー小体病のうち認知症の症状を有するもののことだという。

「私は、レビー小体型認知症(レビー小体病のひとつ)の診断を五〇歳で受けていました。
 ところが、当事者として内側から観察してみると、この病気や「認知症」の症状は、本やサイトに書かれている説明とはずいぶん違っていたのです。(それは脳の病気や障害全般で、長く続いてきたことだろうと今は思います。)そんな自分を観察した日記『私の脳で起こったこと』(ブックマン社、二〇一五年)を上梓したことをきっかけに、思いがけない世界が開けました。」(4ページ)

 病気や障害の当事者の内側でどんなことが起こっているのか、というのは、これまで、謎に包まれていたのかもしれない。当事者の肉体のなかで何が起こっていたのか、そして、当事者はそれをどう意識していたのか。どう感じ、どう認識していたのか。
 問診をし、診察し、診断した医師の報告はあったに違いないが(それなしに、病気が病気として知られるということはあり得ないはずだ、少なくとも現代においては)、症状を抱え、困難を抱えた当事者が、本人の言葉で状態を報告したという例は、そんなに多くないはずだ。あくまで、医者が話を聴いて、観察して、伝達するというのが通例だった。
 患者が、客体的な観察の対象ではなくて、自ら主体的に言葉を発し得る、記録としての言葉、報告としての言葉を発し得るということは、これまでなかった。熊谷晋一郎氏らが進める当事者研究の進展のなかでの、最近の出来事であるに違いない。言ってみれば、当事者の地位の向上を明らかにしたエピソードの一つであるだろう。(まさしく、医学書院のこのシリーズ「ケアをひらく」の功績と言っていいのかもしれない。)
 恐らく「レビー小体型認知症」という病気については、著者が、最初の当事者たる報告者であるだろう。
 さて、一種の若年型認知症の診断を受けた著者は、当時、徐々に、人間としての認知能力が失われ、記憶も言葉も早期に失ってしまうのだろうという恐怖を味わっていた。

「ところがどっこい、予想を裏切り、今日も私は書いています(病気の脳には、大変な作業ではあっても)。
 そう、今の私は、たびたび誤作動する自分の脳とのつきあい方に精通し、ポンコツの身体を熟知して巧みに操り、困りごとには工夫を積み重ね、病前とは違う「新型の私」として善戦しているのです。」(5ページ)

 著者は、「病前とは違う「新型の私」として善戦している」のだと言う。一方的に被害を被るだけの立場ではない。ただし、「病気の脳には、大変な作業」を強いながらではある。

「連載中、私の症状は、高次脳機能障害や発達障害の当事者の方々から「自分とよく似ている」とたびたび言われました。統合失調症などの脳の病気とも共通点があります。今まで別物として切り分けられ、一緒に語られることのなかったこれらの病気と障害ですが、同じ「脳機能障害」なのですから、原因が病気や事故であれ加齢であれ、似ていないほうが不自然かもしれません。」(6ページ)

 なるほど。よく似ている部分が多いと。一方で、違う部分も明らかになってくるはずである。似た部分と違う部分が鮮明に観察でき、症状のメカニズムを把握し、そこから脳の働きの詳細がなお明らかになり、医学の進展に、大いに寄与しているはずである。
 寄与することと同時に、症状を抱えながらも、自らの人生としても「善戦」している。
 しかし、もちろん、だからといって、困ったことがなくなったわけでも、病が治癒したわけでもない。
 困ったことは、常につきまとっている。
 たとえば、ある時か匂いがわからなくなったという。

「匂いが、しあわせという感情と深く結びついた感覚だということに、臭覚が低下してから気がつきました。
 弾きたての豆で淹れるコーヒーの香り、ティーポットで丁寧に入れた紅茶の香り、炊飯器を開けたときに広がる炊きたてのご飯の香り、台所から漂うお味噌汁の香り……。」(14ページ)

 このあたり、私事ではあるが、引っ越しをしたばかりの新居での最近の生活から言っても、深く納得できることどもである。リビングと対面するキッチンでコーヒーを淹れる。簡単な朝食を、また、有り合わせの野菜を使って夕食を準備する。その空間の幸福。そこに香りが、ふつうにあること。匂いが失われることの空虚、喪失はいかばかりのものか。(しかし、ふと気づくと、私も、においに関する官能度は、年齢を重ねるごとに低下してきているような気がしないでもない。)
 一方、以下の、時間についての感覚は、よくわからないところである。どういうことなのかうまく想像できない。もちろん、とてつもなくたいへんな、不便な、困った事態であることは分かる。理屈としては分かるのだが、実感としてはうまくつかめない。

「私には、時間の遠近感、距離感がありません。来週も来月も半年後も、感覚的には、遠さの違いを感じません。過去も同じです。もちろん言葉の意味は理解できますが、感覚が伴わないのです。今からどのくらいの時間が経てば来週になるのか、来月が来るのか、見当がつきません。」(101ページ)

 言葉として、語られている内容は分かる。理解できる。しかし、実感としてどういうことなのか、全く分からない。想像を絶する、としか言いようのない事態である。
 小林秀雄が、『無常といふ事』だったか、「当麻」だったかで、室町時代の能楽の小鼓の音だったかを想い浮かべて、直線のように流れる時間の感覚について何か否定的に語っていたことと並べるのは、ほとんど意味のないことではあるだろうが、言ってみれば、遠い過去に直結する、距離感なく飛んで戻ってしまうかのような体感があるとすれば、そこには共通するものがあるということにはなるのかもしれない。

「時間の流れを考えるとき、私は、濃霧の中に一人で立っているような気がします。前に続くはずの未来も、後ろにあるはずの過去も濃い霧の中にあって見えないのです。霧の中には「ある」とわかっていますが、過去の出来事も未来の予定も自力では見えず、存在を感じることができません。いつも迷子でいるような、寄る辺のない感覚があります。」(102ページ)

 過去も未来も、その存在を感じることができない、のだと。
寄り道ついでに、もう少し言ってしまえば、この前に読み終えた村上龍の「MISSING失われているもの」は、こういう寄る辺のない感覚をこそ繰り返し書いているように思える。今回の村上龍の参考図書に、この本も入っているのではないだろうか?出版時点から言うと、参照したのは書物のかたちになる前の、医学書院のネット上の連載時点ということになるのだろうか。
 過去からも、未来からも、切り離されて、しかし、救いは、今、にこそあるのだと。

「それでも「今」だけは唯一実感でき、把握できる。」(103ページ)

 いずれにしても、想像を絶する事態である。

「だから、健康な人の「忘れる」を基準に対応しても無効です。何度も言えば忘れない、本人が努力すれば忘れない、叱咤激励すれば思い出す……ということはないでしょう。
 でも多くの場合、巧妙に時間を切り取られた「被害者」が周囲から責任を追及され、「加害者」扱いされてしまいます。すべての訴えは「症状」として片づけられ、「病識がない」というラベルを貼られるのです。」(114ページ)

 この最後のところ、〈すべての訴えは「症状」として片づけられ、「病識がない」というラベルを貼られる〉、考えてみるに、恐ろしいことである。医療という現場において、日常的にこういうことが行われているとすれば、それほど恐ろしいことはない。

 恐ろしいと言えば、「眠る」ということが「苦行」であるというのも、そうである。

「眠ることが好きでなくなって二〇年近く経ちます。
 睡眠とは、なかなか大変な行いです。」(173ページ)

 睡眠に障害がある、というのは、よくあることでもあるだろう。悪夢を見るとか、寝ようとすればするほど目が冴えるとか、昼間の仕事の用件が押し寄せるとか、抑うつ状態に置かれた人は、たくさんいる。たくさんいるからと言って、当然のことながら、それが問題でない、苦しいことでないということではない。ふつうに寝られることの幸福は得難いことであるに違いない。
 こういう、困ったことに囲まれた著者の生活の中で、土井善晴さんのことばは、救いを与えるものだったという。確かにとてもいい言葉だと思う。

「先日、テレビから料理研究家・土井善晴さんの柔らかい関西弁が響いてきました。
「味噌汁は、濃くてもおいしい。薄くてもおいしい」
 ああ、その瞬間、土井さんのおでこから放たれた世界を照らすビームに貫かれたと思いました。「正しさ」を求められる限り、私たちの苦手意識はどんどん強くなり、調理はどこまでも嫌いになり、台所はトラウマ製作所になります。
 もっと自由に、もっといい加減に……。
 それをお互いに許しあえれば、台所に笑顔が戻ると思うのです。」(203ページ)

 最後のⅥ章は、「『うつ病』治療を生き延びる」である。
 この章は、読むのがつらい。精神科の治療における最悪のケースの一つだろう。投薬の副作用を訴えることが、さらなる投薬を産み、蟻地獄のように抜け出せなくなる。一般的な精神科の治療に対する不信感はぬぐい切れないものがある。さらに、現在の日本社会における医療の使われ方の問題、職場における医療機関の使われ方の問題もある。

「そもそも医療に解決策を求めないほうがいい病気、病状、年齢層、環境もあります。
 高熱が出たら解熱剤を飲んで出社、眠れなくなったら薬を飲んで仕事を続けるという考え方が、根本から間違っていたのだと今ならわかります。身体が「このままだと危ないよ」と信号を出して教えているのに、対症療法でしかない薬で蓋をして突き進めばどうなるか……。何が何でも仕事を続けるために睡眠薬を求めて精神科に行った私は、落ちるべくして穴に落ちたのです。」(236ページ)

 という状況の中で、中井久夫が登場する。

「精神科医・中井久夫は、著書「こんなとき私はどうしてきたか」(医学書院)にすでにその答えを書いていました。
『診断とは治療のための仮説です。最後まで仮説です。「宣告」ではない。(同書一二頁)』」(237ページ)

 中井久夫には、救いがある、と思う。
 さて、末尾、「おわりに」は、下記のように閉じられる。

「自分の病気を公開してからは、”ヘンな人“として生きることを許された気がして、私は以前よりも自由になりました。
 誰もが、どこか必ず人と違うちょっとヘンなところを持っているのですから、みんな”ヘンな人“として生きるようになれば、こんなに息苦しい社会にも風が通って活気が生まれ、病気になる人も減るのではないかと妄想したりします。
 みんなそれぞれにちょっとヘンで、それが自然な社会のなかでは、「どっちが正真正銘のヘンか」とか「どっちのほうが上等のヘンか」などと比べあうこともないでしょう。誰もが、どこかヘンなままで、苦しむことなく、そのままに生きられたらいいなぁ、と強く強く願っています。」(248ページ)

 これは、まさしくそのとおりだろう。読み通して、この書物には、希望がある、と思う。


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