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ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

松本敏治 自閉症は津軽弁を話さない 福村書店

2020-10-17 12:47:32 | エッセイ
 副題は、自閉スペクトラム症のことばの謎を読み解く。
 著者は、1957年生まれ。特別支援教育士スーパーバイザーで、臨床発達心理士。弘前大学教育学部教授を退職されているとのこと。北海道大学で教育学の博士を取得されている。

 「おわりに」から引いていく。

「「自閉症の子どもって津軽弁しゃべんねっきゃ(話さないようねえ)」
妻のこの一言で始まった研究は思わぬ展開を示すこととなりました。」(246ページ)

 この本は、この“思わぬ展開”の様子を、スリリングに描いていく一個の物語である。著者の最初の見立てにおいては、安易な俗説に過ぎない、自閉症の特性の誤った読み取りでしかない、それで一件落着であり、むしろ病に対しての偏見を増長しかねない危険な噂話に違いないというものであったようだ。偏見の増長につながるとすれば、教育、心理の専門家として早期にきちんと対処しなければならないと使命感を持たれたようである。(念のために言っておけば、俗説だとか、偏見だとかのことばは、分かりやすく私が補った表現である。)
 ことに、この言葉を語ったのが、同じく臨床発達心理士として、乳幼児健診の現場で活躍し、地元津軽生まれであるご夫人であったということで、なおさら危機感を持ったということになるのだろう。
 さて、自閉症は、いまは、ASD(Autism Spectrum Disorder、自閉スペクトラム症)と呼ばれるが、国立精神・神経医療センターのHPを見ると、

「社会的なコミュニケーションや他の人とのやりとりが上手く出来ない、興味や活動が偏るといった特徴を持っていて、自閉症スペクトラム、アスペルガー症候群といった呼び方をされることもあります。問診や心理検査などを通して診断されます。親の育て方が原因ではなく、感情や認知といった部分に関与する脳の異常だと考えられています。…」

 この本の紹介としては蛇足にもなるだろうが、同じHPで症状については、下記のように記されている。

「会議などの場所で空気を読まずに発言してしまい、ひんしゅくを買う
視線があいにくく、表情が乏しい
 予想していないことが起きると何も考えられなくなり、パニックを起こす
自分なりのやり方やルールにこだわる
 感覚の過敏さ、鈍感さがある(うるさい場所にいるとイライラしやすい、洋服のタグはチクチクするから切ってしまう)
 手先が不器用である
 細部にとらわれてしまい、最後まで物事を遂行することが出来ない
 過去の嫌な場面のことを再体験してイライラしやすい」

 実際に接する機会がない限り、他の障害との区別は、一般には、なかなか難しいところではあるだろう。
 さて、上記のご夫人の発言を聞いて、著者は危機感を持つ。

「大学で発達障害の講義を受け持つ私としては黙っていられません。
…方言を話さない、だからASD傾向があるとなると問題です。」(12ページ)

 短絡的な決めつけは、いじめ、とか、差別とかに通じる危険がある。専門家としては簡単にオーケーとは言えない。ご夫人に対して、くつろいだ居間でのよもやま話として終わらせるのでなく、きちんと明確に、根拠をもって反論すべきであると思い定めたに違いない。
 そこから探求を開始したのが、著者松本氏の学者、研究者たる所以である。矜持と言ってもよいかもしれない。それが思わぬ、驚嘆すべき展開を生んだわけである。
 まずは、身近なところから聞き取り調査を開始した。

「機会を捉えて知り合いの特別支援学校の先生たちに、このような噂を聞いたことがあるか、そして本当だと思うかを尋ねてみました。

「そうですよ。確かに話していませんよ。」
「その噂は聞いたことがあるし、そう思います。」
「そう言われればそうですね」
「ある生徒は、親から方言を話せって言われて困って『話せません』と言っています。」

こんなことばかりが聞こえてきました。津軽の特別支援教育関係者のなかではよく知られていて納得のいく指摘と思われているようでした。」(12ページ)

 しかし、著者は、こういう簡易な聞き取りだけでは、容易に納得しない。

「ASDの話し方が独特であることはよく知られています。一本調子であったり、奇妙なアクセントやイントネーションであったりします。彼らのもつ独特の口調については、ASDの特徴として良く記載されています。
 …(中略)…
 ですので、方言かどうかではなく、話し方の奇妙さとして捉えることでこと足りると考えました。」(13ページ)

 しかし、とある学会での、ある出会いがあった。

「ある年の日本特殊教育学会で、…知り合いの鹿児島国際大学の崎原先生にこの話をしたところ、髭面で笑いながら、
「それおもしろい話だねえ」」(15ページ)

 その夜、生ビールを飲みながら

「これさあ、ちゃんとした研究になるかもしれない」」(16ページ)

「このようなきっかけで【自閉症児は津軽弁(→方言)を話さない】という研究が始まりました。そしてこの研究は当初私が予期していたよりも大きな問題、人は周囲の人びとのことばをどう学んでいるのか、そしてASDはなぜ周囲の人びとが話すことばを学ばないのかという問題へとつながっていくことになります。」(16ページ)

 まずは津軽と下北の青森県内で、特別支援教育や乳幼児健診などの専門家を対象にンケート調査を行い、その後、秋田県での講演の折、特別支援教育関係者にアンケートを行った。青森県内で、方言語彙使用についての調査も行った。
 学会等での発表、そこで質疑なども受けた。
 そして、さらに、身近な同僚と出会い直すこととなる。

「2011年の特殊教育学会は弘前で開催されました。弘前大学が準備を引き受けることとなり、「自閉症児・者の方言使用について――『自閉症児はつがる弁をしゃべらない』との風聞の検討」というタイトルで準備委員会企画シンポジウムを行いました。
 この準備委員会企画シンポジウムから、方言学者である弘前大学の佐藤和之先生に参加していただきました。佐藤先生からは【自閉症児者は方言を話さない】という現象について方言と共通語の使い分け行動と対人距離の関係など、方言の社会的側面からの役割が説明されました。この解釈こそがその後の私たちの理論的検討の方向性を決めることになります。」(44ページ)

 その後全国調査にも進む。
 結論としては、というところは、実際にこの書物に当たって確かめていただきたいところだが、非常に、面白く興味深いプロセスである。推理小説を読むような、と言ってもあながち間違いではないだろう。
 この探求は、ASDの特性の理解に大いに資するものである。実際、概論書で読む知識しかなかった私にとっては、なんといえばいいか、実地の例も取り上げられ、立体的な知識となったように思う。
 もう一方で、この探求は、方言とは何か、どういうものかについての解明にも資するものであった。
 ここから以下は、この本の紹介からはいささか外れた蛇足になるがご容赦いただきたい。
 明治維新以降の時代の要請はあったはずであるが、標準語が正しく、高等で上品であるに対し、貶められ、時代遅れで下品で劣ったものであるという方言の理解は、言うまでもなく時代錯誤でしかないわけである。
 ただし、そういうふうに貶められた歴史は、厳然と存在し、現在の方言の在り方にもまだまだ影響を及ぼしているものでもあるが、その点の探求はさておき。
 ほとんどの方言話者は、方言しかしゃべることができないわけではなく、時に応じて、共通語(らしき言葉)と方言(めいた言葉)を使い分けている。広く言えば、それは、対話する者のあいだの社会関係の表れであることになる。
 おおざっぱに言ってしまえば、共通語はオフィシャルなものであり、方言はカジュアルなものである。
 公式な式典で、方言でもって、格式高く挨拶を述べる、司会進行するなどということは、相当に難易度の高い、ほぼ不可能なとすらいうべき技である。井上ひさしが芝居でそういう場面を描いたことがあるかもしれないが、それは、端的に笑える場面であり、喜劇的場面でしかありえない。
 極論に聞こえるかもしれないが、私たちが、気仙沼あたりで、日常的に交わしている方言の会話は、すべて冗談を語る場面でしかないと言っていい。有用で、まじめな内容にかかる情報交換であっても、ユーモアを漂わせ、どこか笑いも含み、冗談を言い合って、泥臭いかもしれないが語りやすく明るい雰囲気のなかで語り合う。人的な距離感の近さが表れる。方言を使うのはそういう場面である。共通語は、格調高く、格式張って、笑いなく、余裕なく、叱責とか、陳謝とか訓示とか、学校の授業時間中に似合う言葉である。よそよそしい距離が保たれる。
 私の感覚では、方言は、カジュアルで気安い雰囲気を作るため、さらに可能であれば笑いをとるためにあえて使う高等な技術であるとすら言ってしまいたい。幼いころから身についたものというよりは、成長につれ体得したものであり、うまく方言を使いこなせることが、地域の大人として成長した証しとすら言ってしまいたい。
 これは、江戸時代以前の自然言語として方言しかない状態で育った時代には生じなかった事態かも知れない。(ただ恐らく一定の、公的な場と私的な場での言葉の違いはあったはずとは思う。)
 私が思うに、若い父母は、気仙沼あたりでも、小さな子どもに語り掛けるのに方言を使っていない。私自身の育ったころ、身の回りの記憶を想い起こしてもそうだったように思う。祖父母も、ある時代以降は、方言で語り掛けることはなくなっている。子供たちは、幼稚園とか、小学校に上がって以降はじめて使い始めているのではないか。
 これは、テレビや学校教育の影響は大きいはずである。
 ただ、大人同士では、もちろん、方言は使っている。幼い時期から、周りの大人同士の会話は耳に入っている。
 ここらはかなりケースバイケースになろうが、ある時代以降は、恋愛して、あるいは見合いでも、そこから結婚に進んだ当初のカップルは、あまり方言で会話していないのではないかとも思う。となると、核家族化した状況では、幼い子供は、直接語りかけられる場合でも、家族内で頭の上で交わされている会話という意味でも、ほとんど方言を耳にしていないという事態が生じている可能性が高い、のではないかと思う。
 ときおり、親の友人、親戚が訪問した場合、その間では、方言が語られるにしても、それは非日常の来客時のみの体験となっている可能性が高い、のではないか?祖父母が同居してというと若干、条件が違うかもしれないが、祖父母にしても幼い乳幼児に語り掛ける際に、ほとんど方言は使っていないはずである。特に我々の世代となってからは。
 幼い子供たちは、幼稚園、保育所に行ってから、あるいは、小学校に上がってから、ようやく方言を自ら使い始める場面に遭遇することになるのではないか、とこのところ、私は考えているわけである。
 後半は、この本の紹介を離れて、勝手な妄想めいたことだったかもしれない。何か言い当てているところがあったとしても、仮説のレベルでしかない。ただ、前々から考えていて、この書物に触発されて思い出したことではあり、「自閉症の子どもが方言を話さない」という事態のメカニズムに関連したことではあると思うところである。
 方言があるとは意識されていない地域と、方言を意識して使おうとする地域では、人間の育ち方に実は大きな違いがあるのではないか、このあたり、面白い研究課題になりうると思う。
 ところで、再度蛇足だが、ほぼ半世紀前、首都圏の大学に進学して、ゼミの歓迎会だったか、哲学の先生に、私は、気仙沼弁と標準語のバイリンガルだと思っていると話して、ほう、と感心された記憶がある。方言バイリンガルを語り始めたのは、私が嚆矢ではないかと自負している。(ここは“おだずな”と、気仙沼弁のツッコミが入るべきところ。)


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