ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

ロバート・キャンベル 井上陽水英訳詞集 講談社

2019-11-12 21:17:00 | エッセイ
 これは、『英訳詞集』だけの書物ではない。ページ数でいうとほぼ三分の一が訳詞で、残り三分の二は、ロバート・キャンベル氏による陽水の歌詞の読み解きであり、取り組んだ英訳についての解説書であり、井上陽水本人との対話の記録である。
 新聞の書評に載っていて、買い求めた。
 私にとっては、英訳された歌詞自体も興味深いものであるとしても、むしろ、前半の解説部分の方が読みたいところである。歌詞の方は付録、とすら言ってもいい。
 ロバート・キャンベル氏は、テレビにもよく登場されている、日本語の達者なアメリカ人である。恐らく、ネイティブの日本語話者を除いて、世界でも五本の指に入る日本語の上手なガイジンさんに違いない。(21世紀の現在、というか、令和の時代に、というか、こんなことを言うのはいささか時代錯誤な戯れ言ではあるだろう。)
 近世・近代文学を専門とする日本文学者、東大名誉教授、カリフォルニア大学バークレイ校からハーバード大学大学院東アジア言語文化学科博士課程を終了された文学博士である。
 さて、冒頭「はじめに」は、「井上陽水はうなぎだ」と、サブタイトルがついている。

「さて陽水さんの歌詞を訳そうと思ったわけ、それは陽水さんの歌詞世界が日本文学研究者である私から見て「松」すなわち極上のうなぎに感じたからであります。箸で突っついて食(訳)したら、なんとも言えず美味しい汁が出て、喉ごしもよかったのです。」(4ページ)

 「井上陽水はうなぎだ」というのは、陽水の歌詞が、うなぎがとても美味でかつ滋養がある魅力的な食べ物であるように、美しく深みのある言葉を駆使した魅力的な文学作品であるということである。文学研究者としては、それに触れずに通り過ぎてしまうことなどできないとおっしゃっている。
 と同時に、「僕はうなぎだ」という「うなぎ文」と呼ばれる、日本語と英語の表現の仕方の違いの有名な例のパロディにもなっているということで、翻訳の技術的な困難さを表す表現ともなっている。
 日本語の「僕はうなぎだ」という文章は、英語では「アイ アム ウナギ」ではない。「俺はうなぎだ」というのは、私自身がうなぎだとか、うなぎでないとかの話ではなく、料理店のメニューの選択の問題である、というのは、日本人なら改めて説明するまでもないことであるが、こういう言葉を省略するもの言いは、英語では通じないという。
 (ところで、パロディとはいっても、「井上陽水は…」と「僕は…」は、レトリックの種類としては別で、前者は隠喩で、後者は、なんだろう、省略法とでもいうのか。)
 続けて、日本語から英語への翻訳一般、特に陽水の歌詞の翻訳の困難について、キャンベル氏は、さらに語る。

「英語では確定しなければならないことがあまりに多い。主語をIにするのか、Weにするのか、所有格をhersにするのかtheirsにするのか。その主体が単数なのか複数なのか。男性なのか女性なのかなど、明確にしなければなりません。
 一方陽水さんの歌詞ではしばしばそれらが省略され、ちょっとやそっとでは上手く翻訳できません。省略を埋めてもその下にはまだ何か潜んでいそうです。そうでなくとも、先に触れたように、日本語自体が英訳するに際しての悩みがつきない言語なのです。
 私は、くねくね動く「陽水」といううなぎの図体をしっかりと捕まえ、長いまな板の上で目打ちを加え、太い体の青白く柔らかな腹に小出刃を……。いや、そんな剣呑な話ではなくただ単に、日本語で彼が歌を歌ったとき私たちの胸中に浮かぶイメージや気分を「あいまい」に表現するのではなく、うなぎの「中入れ」のごとく多層的で滋味深いものとして届けたい、と考えているわけなのです。」(4ページ)

 陽水の歌詞は、省略の多い日本語のなかでも、特に省略の妙が「滋味深い」らしく、なおさらに翻訳困難であるということになる。
 しかし、なんというか、キャンベル氏の文章は、滋味深い、というか、濃厚で濃密である。上に引いた文章でも明らかなとおり、相当に達者な日本語で、語彙も豊富、比喩も的確、用例にも通じている。
 特にこんなところ。

「くねくね動く「陽水」といううなぎの図体をしっかりと捕まえ、長いまな板の上で目打ちを加え、太い体の青白く柔らかな腹に小出刃を……。」

 これが比喩であることは、日本語的にはあえて説明しなくとも明確であるが、バターたっぷりのソースのようにこってりとは言わずとも、うなぎの脂分もたっぷりという具合に濃厚である。これで終わらずに、

「いや、そんな剣呑な話ではなくただ単に…」

と、反対側から注釈を加えて、表現の層を分厚くする。これはちょっとくどい、かな、などとも思ってしまう。ここで、「剣呑」というのは、うなぎの体にくぎを打ったり、出刃包丁で切りつけたりという血を見るような恐ろしげな話しだとあえて言い立てかけているわけだが、そうではなくて決して恐ろしい話ではないのだと、先回りするように反対側から言葉を重ねている。ちょっと微妙に説明し過ぎかな、みたいな感じと言えばいいか。
 日本語らしい、あっさりとしながらお出しの効いた、というよりは、繰り返し濃厚なソースを絡めて、という風情である。
 また、たとえば、上出の「うなぎ文」について、

「このように「好き」とか「食いたい」をばっさり省いて「~だ」(または体言止め)だけで自分の好みや欲求を伝えるのはかなり大胆なことのように、英語を第一言語とする私には思えます」(1ページ)

 というところは、あえて最後に「私には」と主語(というと文法的には不正確か、行為の主体)を明示するところなど、英語的な表現だなあ、と思ってしまう。
 面白いことである。
これは、急いで言葉をつなげるが、決して、だからキャンベル氏の日本語はダメだと言いたいのではない。
 古くは文明開化の時代に、また、下っては、大江健三郎とか、村上春樹も加えていいのかもしれないが、翻訳調が日本語を豊かにしたとは言われてきたはずである。
 ロバート・キャンベル氏という、日本語の手練れな使い手による、井上陽水の歌詞というたぐいまれな素材を使った、濃密で美味な料理のレシピ、というのがこの書物である、のではないか、と私には思える。
 不思議でスリリングで豊饒な読書体験であった。


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