ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

高橋源一郎 今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史戦後文学編 講談社

2019-06-03 23:31:17 | エッセイ

 先般は、日本文学盛衰史を、文庫版で読んだところだが、今度は、戦後文学編。プロローグは、「全身小説家」。

 どこかで聞いたことのあるタイトルではある。

 

「ひとりの男性が、入念にお化粧をしている(正確にいうと、メイクさんが、この男性にお化粧をほどこしている)。

 白く粉を塗りたくり、どぎつい赤の口紅で唇を彩色する。歌舞伎の女形のように見えないこともない。玉三郎とか、それにしては、ちょっと小汚いけれど。

 その男性は、鏡を覗きこんで、そこに映った自分の姿を、うっとりと見つめている。

 ナルシシズム、ということばが思い浮かぶ。どういう人か知らないが、根本的に批評精神が欠如しているのではあるまいか。」(7ページ)

 

 この書き出しは、いかにもこれから本格的な小説が始まる、というような重厚感はまったく欠如している。安っぽい戯れ文というべきである。最近のテレビ番組で言うと、番宣でしか観たことはないが、古田新太が演じる、女装家の教師のドラマのワン・シーンかとも思う。もちろん時系列的には合わないが。(念のため言っておくと、このドラマは面白く見応えあるものと思う、たぶん。)

 前の『日本文学盛衰史』も、こんな調子だった、と思う。

 これこそが、高橋源一郎の文体である。

 全編、こんな感じのいかにも軽い安っぽい文章が続く。

 

「おひねりが飛ぶ。嬌声も飛び交う。「キャー!ミツハルさ~ん!」と叫びながら、かぶりつきにいた中年女性が、男性の下半身に抱きつく。酒池肉林ということばが思い浮かぶ。あるいは、乱倫ということばが。」(11ページ)

 

 そうか、この変な男性は「ミツハル」さんというのか。このあと読んでいくと姓は「イノウエ」さんのようである。

 「イノウエミツハル」。なるほど。

 どこかの大学の「現代文学論」のゼミで、ある映像作品を鑑賞しているらしく、上の記述は、その映像の描写であった。(ネットで見ると、『全身小説家』は原一男監督による、1994年の小説家井上光晴のドキュメント映画のタイトルのようで、そのワン・シーンなのだろう。確かにそんな映画があったという記憶はある。この監督の『ゆきゆきて、神軍』という映画は、ずいぶん話題になった。私は観ていないが、テレビでごく一部は紹介されていた。)

 

「(先生……)

 

 (なに?)

 

 (すごく……おもしろいです……)

 

 (なにが?)

 

 (このイノウエさん!けっこう、好きかも)」(13ページ)

 

などと言っているFちゃんは「『江頭2:50』の熱狂的なファン」で「愛読書は『鈴宮ハルヒ』シリーズ、『新世紀エヴァンゲリオン』で好きなのは、綾波レイではなく惣流・アスカ・ラングレー、恋愛アドヴェンチャーゲーム(というか美少女ゲーム)に通暁し」ている身長175センチメートルの女子学生である。

 

 男子学生のTくんは、

 

「「『文学』ってなんですか?」

 などと突然いいだすのである。

 …(中略)…

「オオエケンザブロウという人の小説は面白いいんですか?」

 

そんな難しい質問に、すぐに答えられるわけがない。「ぼくには面白いけど、きみにはねえ」とか?いや、もしかしたら、Tくんが読んで、むちゃくちゃに面白いと思うかもしれないし。とかなんとか考えてしまい、返答に困るのである。」(15ページ)

 

などというような、困った男子学生である。一般的に困った人物かどうかは定かでないが、この先生にとっては困った学生らしい。しかし、実はこの先生、そういう困った質問に、懸命に答えようとしているようである。

 もういちど、再生を開始して、「イノウエミツハル」が、ひとびとに「文学」について語っているシーンが出てくる。

 

「この人たちの周りにある「文学」とか「小説」は、ただ読むためのものでも、ただ書くためのものでもない。(もちろん、どんな「文学」も「小説」もそうなのだが)。ここでの「文学」や「小説」は、それがなければ、人間が生きていくことができない、空気や水のようなものだ。いや、空気や水なら、気がつかない人は摂取しても気づかない。ということは、やはり、宗教に近いものなのかもしれない。そして、その国では、すべての国民が信仰をもつことを期待されていたのである。

 では、いまは?」(33ページ)

 

 二十世紀の終わりには、「文学」は、人間が生きていくうえで必須のものであった。しかし、平成の終わりの、というか、令和の時代と言ってしまっていいのだが、現在の「文学」はどうなのか?そもそも「文学」などというものが、まだ、存在しているのか?

 この小説は、高橋源一郎が、こういう困難な問いに答えようとした、困難な回答である。

 

 所収の「ラップで歌えサルトル」は、タイトルは、丸谷才一の『裏声で歌え君が代』のもじり、「サイタマの「光る海」」は、戦後青春小説の大ベストセラー『青い山脈』を書いた石坂洋次郎の小説「光る海」を取り上げたもの、「タカハシさん、「戦災」に遭う」は、東日本大震災後の、戦後と震災後を重ね合わせた小説、ということになるか。

 しかし、「光る海」という小説は、吉永小百合主演で映画化されたようだが、ずいぶんと面白いセリフに満ちた作品のようだ。トンデモ台詞のオンパレードと言って過言でない。映画は観てみたい気がする。詳細は、「サイタマの「光る海」」に実際にあたっていただきたい。

 さて、エピローグには、こんなことが書いてある。作者の小説論である。

 

「小説にはメッセージなんかない。モデルもいない。現実とはなんの関係もない。そのことは、小説家なら、みんな知っている。」(363ページ)

 

「では、小説が、現実とはなんの関係もないとして、そこでは、なにをやっているのか?…

 なにをやっているのか当人もわかりません。楽しいからなんとなくやっているという点では、強いていうなら子どもの泥遊び?あれがいちばん近いかも。」(363ページ)

 

 これは、確かにそういうことなのだろうと思う。しかしこの「関係ない」という言葉に、字義通りたぶらかされてはいけない。何かはあるのである。「子どもの泥遊び」と同じようなものがある。人間の人生において、「子どもの泥遊び」というものは、非常に深い意味のある出来事なのである。

 こないだ読んだ、見田宗介の『現代社会はどこに向かうか』(岩波新書)で、コンサマトリーという言葉が紹介されている。

 

「consummatoryは、とてもよい言葉なのだが、どうしても適切な日本語におきかえられない。consummatoryはinstrumental(手段的)の反対語である。手段の反対だから目的かというと、それはちがう。目的とか手段とかいう関係ではない、ということである。〈わたしの心は虹を見ると躍る〉という時この虹は何かある未来の目的のために役に立つわけではない。つまり手段としての価値があるわけではない。かといって「目的」でもない。それはただ現在において、直接に「心が躍る」ものである。この時虹は、あるいあ虹を見るということは、コンサマトリーな価値がある。コンサマトリーという公準は、「手段主義」という感覚に対置される。新しい世界をつくるための活動は、それ自体心が躍るものでなければならない。楽しいものでなければならない。この活動を生きたということが、それ自体として充実した、悔いのないものでなければならない。解放のための実践は、それ自体が開放でなければならない。」(『現代社会はどこに向かうか』154ページ)

 

 小説というもの、文学というもの、ま、詩も含めて同じことだが、そういうことなんだろうと思う。

 

 

 

 



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