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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

精神看護 2020.11 斎藤環「ゼロから始めるオープンダイアローグ」 医学書院

2020-11-20 21:38:33 | エッセイ オープンダイアローグ
 今号の特集は、「SNSの人、教えてください」ということだが、それはさて置き、齋藤環氏の連載「ゼロから始めるオープンダイアローグ」第2回目「「無意識」の協働作業」と、さきごろ読んだ昨年11月号の特集で取り上げられた琵琶湖病院でのオープンダイアローグの実践のレポート「突撃取材!!」を読みたくて購入したところである。
 斎藤氏の連載は、オープンダイアローグとはどういうものなのか、氏が依拠してきたラカン派などの精神分析との断絶と連続を探ろうとするもののようである。これは私自身、とても興味深いところであり、前回も書いたが、私のために書いてもらっているとすら言いたいところである。
 さて、前回、斎藤氏は、ラカン理論の可能性の中心は、まさにその否定神学性にあり、「オープンダイアローグの否定神学性」を詳しく検討したいと語っている。今回もその続きである。

「人間はいちばん言いたいことは言わない。あるいは、言えない。
これがおそらくもっとも簡単な「否定神学」の説明です。…そのような形でしか語れない真実というものがある。人間の心は、そういう構造を持っている。」(542ページ)

 ちなみに否定神学とは、否定という言葉が入っているが、神を否定しようとするものではない。つまり、無神論ではない。むしろ、絶対に肯定するものである。人間のことばでは語りえないような至高の存在であると考えるものであるらしい。
 ウィキペディアを見ると、「否定神学」とは、下記のように説明されている。

「神の本質は人間が思惟しうるいかなる概念にも当てはまらない、すなわち一切の述語を超えたものであるとして、「神は~でない」と否定表現でのみ神を語ろうと試みる。」

 例示として以下のような言明が挙げられる。

「・万物の原因であって万物を超えているものは、非存在ではなく、生命なきものでもなく理性なきものでもなく、知性なきものでもない。
・万物の原因であって万物を超えているものは、身体をもたず、姿ももたず、形ももたず、質ももたず、量ももたない。
・万物の原因であって万物を超えているものは、いかなる場所にも存在せず、見られもせず、感覚で触れることもでき…(中略)…ない。」

 ここで言う「万物の原因であって万物を超えているもの」とは、つまり、神のことである。キリスト教などの一神教の神。神は、姿が見えず、触ることもできないが、確かにそこに存在していると、否定神学者は考える。ふつうの人間のことばでは表現しきれないような崇高な、至高の存在であると考える。
 しかし、否定という言葉を使うと、どうしてもその言葉に引きずられて全体が否定的な方向に歪められて理解されがちになる。言葉として否定形を使う、という価値中立的な表現に過ぎないのに、価値的にもマイナスなのだと誤解されてしまう傾向があるが、そういうことではないわけである。
 斎藤氏がここで、「オープンダイアローグの否定神学性」を語るというのは、オープンダイアローグを否定しようとするものではない、はずである。むしろ、確信をもって肯定しようとする意志の表れととらえるべきところである。
 ただ、少々ややこしいのは、斎藤氏が依拠してきたラカンの精神分析理論に対する批判としてその否定神学性が語られた経緯があると語っていることである。

「後でも触れますが、否定神学とは、もともとは主にラカン派の精神分析に対して向けられた否定的ニュアンスの言葉でした。」(543ページ)

 しかし、「否定神学性」は、さかのぼって精神分析の創始者フロイトにも潜んでいたという。人間は、一見、自分のことは何でも知っていると見えて、実は自分が何を欲しがっているのか知らないのだと。

「フロイトの描いてみせた精神分析的人間像は、当時としてはとんでもなく異様なものでした。自分がなにを欲しがっているかを知らず、自らの欲望は夢とか失錯行為(言い間違い、など)でしか表現できず、つねに性欲に心をかき乱されていて、心の底では母を犯して父を殺したいと願っている(オイディプス・コンプレックス)、そんなえげつない人間像。」(543ページ)

 ひとは、自分が「心の底では母を犯して父を殺したいと願っている」とは知らないわけである。精神分析が一定程度広まっている現在では、生半可にそういうことも知られてしまっているともいえるわけだが、だが、なお、多くの人々にとって、訝しく納得しがたいことではあるだろう。

「フロイトは現代の心理学を基礎づけるような多くの概念を「発明」しました。なかでももっとも有名なものが「無意識」でしょう。」(544ページ)

 【無意識】である。
 人間の意識の底には無意識がある。意識ではないものがある。人間が自ら意識し得ないものがある。人間は、自らの中に意識し得ない部分を抱え込んでいる。
 これは確かに、何か、否定神学と呼びたくなるような事態である。

「哲学者デカルトの有名な言葉「われ思う、ゆえにわれあり」はご存じですね。
この言葉が象徴するように、自意識と「自分という存在」を同一視する考えがかつては当然だったわけです。…自分の過去も、欲望も、動機も、自意識のもとで明晰に自覚できると考えていたわけです。
 ところがフロイトはそうした自己愛的な考え方を真っ向から打ち砕いてしまいました。人間の「主」は無意識であり、記憶も欲望もアイディアもすべて無意識にある。人間の自意識はそのごく一部を理解することしかできない、ということ。これはすなわち、「われ思う」ところに「われ」はない、ということになりますね。」(544ページ)

 ここから、フロイトは、夢の分析や言い間違いの分析、自由連想の語りの分析を行って、人間の無意識を分析家が把握し解釈することによって、治療に結び付けていくものだという趣旨を,斎藤氏は語られる。
 フロイトの否定神学性とは、人間は、自分自身をよく知らない、自分のごく一部しか知らないものだというところになるだろう。「われ思うところにわれはない」わけである。そして、精神分析の治療とは、分析家がその知らないところ、無意識を患者に知らしめることで生じるということになる。
 患者は、自分の無意識を幾分か知ることによって、治療されていく。症状が消失していく、ということになる。(無意識のすべてを知る、ということは恐らくあり得ない。いくら優秀な分析医の力を借りても、知りえるのは、そのごく一部分に過ぎないだろう。)
 なにか、ここには謎めいたものは存在すると言える。

「精神分析家のジャック・ラカンは、フロイトの正統な後継者を自称したことで知られていますが、実際にはフロイトの理論に潜在していた否定神学的な構造を極限まで先鋭化したような独自理論の提唱者でもありました。」(543ページ)

「(精神分析とオープンダイアローグは)方法論として対照的なところを含みますが、いずれもクライアントと治療者の「無意識を活用した協働作業」である点において共通しています。まさにここにおいて、精神分析と対話実践を架橋する「否定神学」の機能が見出されるのではないか。
 そうした期待を抱きつつ、次回はラカンの精神分析について検討していきましょう。」(547ページ)

 ということで、「謎解き」は、次回に続く、ということになる。
 なかで、「脱線」とは断りつつ、「脳科学」の現在の消費のされ方について触れられているところがある。同感である。脳科学では欲求は語れても、欲望は語れないと。少なくとも現時点では、脳科学は、哲学や精神分析が切り開いてきた知見や、術語、専門用語を利用しているに過ぎず、新たに塗り替えるような成果は上げていないというべきだろう。

 で、琵琶湖病院への突撃取材であるが、中島裕子さんのレポートである。中島さんは、就労支援B型BaseCampの職員で、当事者研究に取り組まれる看護師とのこと。

「知れば知るほど当事者研究と共通点が多いと感じ、オープンダイアローグを知ることは、当事者研究を説明する言葉が増えるような感覚もあった。」(548ページ)

 オープンダイアローグと当事者研究は確かに近しいようだ。

「琵琶湖病院では、家族らと支援者が参加して行うオープンダイアローグ的なミーティングを「ケアミーティング」と呼んでいた。そして病棟や外来、訪問した相手の家で、などさまざまな場面でケアミーティングが行われていた。」(551ページ)

「あるご夫婦が参加されたケアミーティングでは、ピリピリした空気が走っていた。夫と妻とで見えている景色が全く異なることが感じ取れた。そんな緊張の場面でも村上さんとソーシャルワーカーの山中一紗さんは絶妙なコンビネーションで、夫婦双方の声を拾い、その声を大事にしていた。「“話す”と“聞く”を分ける」というオープンダイアローグ的なあり方を守っているだけでなく、「あなたの話興味があります」という真摯な向き合い方が相手にも伝わているように感じた。」(551ページ)

 村上さんというのは、琵琶湖病院副院長、オープンダイアローグの実践を進める精神科医である。

「今回取材させていただいて、「人を大事にする」ために知恵を出し合い、場に合った必要なものを生み出していくのであれば、その名前は当事者研究でもオープンダイアローグでも、あるいは違う名前でもなんでもいい、ということに確信をもった。」(553ページ)

 今号も、この2本以外でも、中山求仁子氏による障害者の放課後等デイサービスのレポート「放デイ、その〈劇的〉身体」、塩月玲奈氏の「うんこあるある」、熊倉陽介氏のトラウマインフォームドケアとしてのハウジングファーストを論じる「まず住まいから始めよう」など、いつもながら読み応えのある記事満載の誌面である。




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