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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

Library Resource Guide 第26号 特集「公共コミュニケーションと図書館のアドボカシー」アカデミック・リソースガイド株式会社

2019-06-16 12:53:33 | エッセイ

 今号責任編集の鎌倉幸子さんは、「走れ!移動図書館」(ちくまプリマー新書)の著者で、元シャンティ国際ボランティア広報課長、震災後、東北沿岸の支援に奔走された方でもある。気仙沼図書館でもたいへんお世話になった。

 高校卒業後、アメリカの大学に留学し、そこでの学び、そして出会いから、カンボジアに図書館をつくる仕事に従事することになった方である。

 さて、今回の特集を読むと、クラスメイトのカンボジア人留学生の次のようなことばが、「その後のわたしの人生の行き先を指し示す」大きなきっかけとなったという。

 

「私は親もいない、兄弟もいない、10年も難民キャンプで暮らしていた難民だ。でも、どうしてアメリカに留学できたか、その理由を知っているかい?それはね、難民キャンプの中に図書館があったからだよ。」(23ページ)

 

 図書館に関わりをもち、さらには、今回の特集に結実するにいたった人生の成り行きのきっかけということになるのだろう。

 鎌倉さんは、NGOで広報課長の仕事を務め、ARGに転職し、主に図書館関係者対象に広報のセミナー講師を経験してきたが、その経験のなかで、広報という言葉の限界に気づきつつあった。

 当初は、今号の特集は「広報」を取り上げるつもりだった。しかし、ARG代表取締役にして、LRG編集兼発行人の岡本真氏と、チーフ・デザイン・オフィサーの李明喜からダメ出しを受ける。一般的な広報論では意味がないと。「図書館はそれで変わったのか?」と。

 

「ふたりは「図書館が変わる」ためには、私が講演で伝えているような小手先のテクニックでは意味がないこと、変わるためには本質的な思想・あり方の部分をしっかりと伝える必要があるのではないか、と問題提起を続けた。」(7ページ)

 

 ということで、小手先のテクニックにとどまらない本来の「広報」を考え直し、捉え直して行こうというのが、今回の特集である。

 もっとも、そこで、鎌倉さんは、「広報」ということばを捨て、「公共コミュニケーション」、「アドボカシー」ということばを提示することになる。

 広報を横文字でいうと、ピーアール、PRとなる。

 PRは、パブリック・リレーションズ=public relationsの頭文字。直訳すれば、公的な関係。

 一般に、PRというと、企業の広告、宣伝を思い浮かべる。商品を、テレビ等で宣伝して売り上げを伸ばし、利益を上げるためのツールがPRであると。それは特段間違いではない。しかし、パブリック・リレーションズというのはそこにとどまらない意味をもっている。

 

「公益社団法人日本パブリックリレーションズ協会が出している「広報・PR概論」(2012年、改訂版)にあった広報の定義が目に止まった。広報とは「企業、行政、学校、NPO等あらゆる組織体が、その組織体を取り巻く多様な人々との間に継続的な信頼関係を築いていくための考え方と行動のあり方である」。しばらく何度も読み返した。「情報を発信して、露出を増やすこと」が広報だと思っていた私にとって、目からうろこが落ちたのだ。」(19ページ)

 

 PR、広報というと、企業やお役所が、ふつうの人々に一方的に情報を流し、与えていくイメージであるが、そうではなくて、双方向のものなのだという。

 

「また同じ本の中で「広報の理念」が紹介されていた。そのひとつに「ツーウェイ・コミュニケーションを確保する」という理念がある。一方的に情報を発信するのではなく、相手との対話が生まれるような文章を書いたり、問いかけには必ず答えて会話のキャッチボールを行うなど、ツーウェイ(双方向)のコミュニケーションをすることで、信頼関係が構築されていく、というのだ。」(20ページ)

 

 鎌倉さんが、「広報」の講演で伝えていたのは、一方向の情報伝達の、小手先のテクニックに過ぎなかったのだと気づいていくわけである。

 こうして、「広報」の本来の意味を見直していく中で、アドボカシーという言葉に出会う。というようりも、大学留学中に学んでいたこの言葉に出会いなおしたというべきなのだろう。

 

「東日本大震災の被災地で活動をしていたとき、海外の現場で毎日のように使っていた「アドボカシー」という言葉を思い出した。アドボカシーとは「権利擁護」や「政策提言」と訳される。」(31ページ)

 

 権利擁護、政策提言…日本語でいうと別の言葉である、このふたつの言葉が、アドボカシーというひとつの言葉の意味である、とは、なかなか難しい話である。アドボカシーとはどういうことなのか、少々長くなるが、鎌倉さんの言葉を拾い上げていく。

 

「NPO職員にとって最高の幸せは「失業すること」だ。活動している地域の課題が解決され、仕事がなくなる状態こそ理想郷、というわけだ。ただ、紛争地のような地域にあっては、課題というのは一筋縄で解決するものではない。活動を終了した後も、困難な中にいる人を支える仕組みづくりをする必要がある。

 そこで「権利擁護」のために政府にアプローチして「政策提言」を行い、制度の中で支える仕組みを構築したり、課題に気がつき、課題解決のために取り組みたいと思う人々を巻き込む仕組みをつくりだすことができれば、支援事業は自立発展性(サスティナビりティ)を得て、質の高いものになる。政治家だけではなく、その社会にいる人たちに伝え、仕組みを変えていくのがアドボカシーの役割である。」(31ページ)

 

「アドボカシーは「人と人とが信じること。理解をしあうこと、対話をすること」から生まれるのだ。…その大きな歯車には、教育省、州教育局、小学校、そして日本の支援者と子どもたちみんなが一緒に乗って、同じ方向に向かって動き出していくのだ。だからアドボカシーを軽視する団体は、「誰のための活動か」を忘れているのではないかとさえ思う。頑張っている自分をアピールするための活動ならいらないのだ。」(35ページ)

 

 

 さらに「公共コミュニケーション」という言葉と出会う。「公共コミュニケーション学会」という組織を知るが、そこに、「公共コミュニケーション」についての明確な定義がなかなかみつからない。そこで「福利」ということばに出会い、「営利」ではない「福利」を目指すのが「公共コミュニケーション」であると当たりをつける。

 

「…図書館におけるコミュニケーションは、一般の広報活動が志向する「営利」的な成果ではなく、「福利」的な成果を追い求めるものだ。」(71ページ)

 

「「営利」とは、言葉のとおり金銭的な利益を目的とする。営利事業は、利益を得るために行われる事業を指す。「福利」は英語でwelfareと訳されるが、このwelfareには「福利」のほかに「安泰」という意味がある。私が定義する「福利」とは、経済的な安心・安泰はもとより、心や体が健康な状態を指す。福利事業とは、一人ひとりの生活に安泰を生み出すための事業となる。」(71ページ)

 

「無料でサービスを提供する図書館において発生する公共コミュニケーションは、一般的にはこの「福利」を満たすために行われるものだ。この点は繰り返し強調しておきたい。だが同時に言えることとして、「福利」にとどまるものでもない。別の言い方をすれば、公共コミュニケーションにおいては「福利」と「営利」は両立する目標といえるのではないだろうか。たとえば、「福利」を志向して行われた公共コミュニケーションを利用する機会をもちえた人は、図書館の情報を自分自身の活動に活用することで、生活が安定したり、新しいビジネスのヒントになるなど、結果的に社会に営利をもたらすのではないか。」(71ページ)

 

 福利を目指すことが、営利にもつながるという考えである。

 なるほど。いちいち腑に落ちる内容である。

 ところで、welfareであるが、ここでは「福利」、「安泰」の訳語があてがわれている。もっと普通に使われる訳語として「福祉」という言葉がある。social welfareは、「社会福祉」である。市役所の組織である「社会福祉事務所」の福祉であり、また、そもそも市役所などの自治体や、中央政府は、ひとびとの福祉の実現こそがその役割である。うえで、鎌倉さんが語る「福利」は、もちろん、「福祉」という言葉に置き換えてもあてはまることである。

 「営利」と「福利」は両立するという。ここは、ひとつポイントになると思う。「ビジネス」と「福祉」は両立すると言ってもいい。「営利」と「行政」も両立する。一見相反するように見えるこれらの対語は、よくよく考えると対立するものでも矛盾するものでもない。

 このあたりの行論は、私として改めてじっくりと練り直してみたいと思っている。そもそも、営利企業の典型である株式会社ですら、人間社会の福利追求のためにこそ存立しうるものであるはずである。「利潤の追求こそが第一義」などというのは、甚だしい勘ちがいにほかならない。

 ところで、この豊かな内容をもつ鎌倉さんの労作であるが、論理の組み立てとしては、広報=PRの本来の意味の発見というところで結論としていいのだと思う。いわく、「組織体を取り巻く多様な人々との間に継続的な信頼関係を築いていく」、また、「ツーウェイ・コミュニケーションを確保する」、この二つのことが広報本来の役割なのだというところで終わっていいはずである。「アドボカシー」とか「公共コミュニケーション」さらに「パブリック・アフェアーズ」についてのたいへんに貴重な紹介は、その中身を裏付けるものである。その内容を豊かにしてくれるものである。結果として、「アドボカシー」や「公共コミュニケーション」に移行するとしても、それは本来の「広報」の発展形としてのはずである。

 というか、こんなことは言わずもがなではあるが、文章の流れとして、「広報」と対立するものとして「アドボカシー」や「公共コミュニケーション」という言葉を持ち出すという筋道だてになっているように読めるが、本来の「広報」=PRの意味を取り戻す限りにおいて、決して対立ではなく、同調しつつ豊かに多重化した、輻輳したポリフォニーとなっていると思う。

 さて、今回も、特集のみならず、通常の連載も、特集の内容にシンクロした内容となっている。

 「司書名鑑」は、サイエンス・コミュニケーターの内田麻里香氏、「伊藤大貴の視点・論点では「企業と行政の境界線がぼやける時代とパブリック・アフェアーズの必要性」と続けて、特集のテーマとリンクする内容である。「サイエンス・コミュニケーション」は、「公共コミュニケーション」の元ネタというか、特集の中でも項目を上げて取り上げられている。「専門家」と「一般大衆」、「専門的な組織・機関」とその事業や施策の「対象者・利用者」との越えがたい溝を如何に埋めるかの試みであるらしい。

 田中輝美氏の「島で始める未来の図書館」も、島根県隠岐の西ノ島町の図書館建設プロジェクトの紹介で8回目となるが、特集のなかで、一例として取り上げられているものである。

 猪谷千香氏の、図書館エスノグラフィーのシリーズは、福島県須賀川市の市民交流センター「tette」の紹介で、これもまた、特集テーマの実践の一例であることに間違いはない。

 

 



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