M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

「チェルト君のひとりごと」は電子ブックへ移りましたhttp://forkn.jp/book/4496

M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」の休刊について

2021-12-05 | エッセイ

2009年7月から約11年半、定期的に書いてきたこの エッセイ・ブログを、体調不良のために不本意ですが、しばらく休むことといたしました。

この間、合計296編を書き、合計250,834ページビュー(PV)と

述べ訪問者163,778IP アドレス(IP)を迎えることができました。

ありがとうございました。

このブログは削除しないで休刊にしておきます。 いつか戻ってきて、不定期でもいいから、ブログを書いていきたいと思っています。

なお、このエッセイ・ブログを電子ブック(無料)に上げてあります。

「チエルト君のひとりごと」2冊 リンク先 (次をクリック) http://forkn.jp/book/4291/

「てつんどの独り言」2冊 リンク先(次をクリック)http://forkn.jp/book/9213

など、電子ブック「forkN」に上げてあります。無料です。

PDFでのダウンロードが読みやすいと思います。

今後も毎日、ブログのコメントはチェックしたいと思いますので、何かあればお聞かせください。

本当に楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。

                       徳山徹人(てつんど)

                        歳:79歳11か月


人生の転轍機 その2

2021-11-21 | エッセイ

その1の続きです

<転轍機>

 

<人生の分岐:全て>

分岐6 (他の人の決定)

日本IBMに入ってアメリカを中心とする海外との関係で仕事を進めていましたが、30歳直前、僕はフランスのエッソンヌというところに駐在員として赴任するという内示を受けました。僕は喜んでその内示を受けました。なぜならば英語に比べてフランス語はとても美しい言葉で、法政の頃、外堀の向こうの日仏学院を訪ねて、フランス語の勉強を始めようと面接した時、フランス語の美しさに惹かれました。

僕にとっては、フランス語を磨くとても良い機会だと思っていました。しかし出発の3ヶ月ぐらい前だったと思いますが、赴任する先がフランスからイタリア・ミラノに変更になりました。6つ目の転換、イタリアへの進路変更になりました。

<ミラノ>

イタリアに行ってみると、全く日本では考えられなかった世界が広がっていました。特に彼らの「家庭」と「仕事」と「その他の社会的活動」に驚きました。彼らは常に3つ以上の「世界」を持っていました。それは僕にとっては新しい生活の基準に見えました。

分岐7 (自分の選択)

2年の駐在を終えて日本に帰ったとき、イタリアでの経験を踏まえて業務システム開発の仕事に就くことになりました。コンピーターを道具として、仕事のやり方を設計するという新しい業務設計の手法をイタリアIBMで勉強したからです。

分岐8 (他の人の選択)

IBMが製品開発製造の支援システムを、世界共通システムに方向を定めたという外的な要因でした。それまでは日本独自で、フランスのモンペリエの開発したERPを動かして仕事を支援していましたが、急遽、CMISという米国IBMステムに乗り換えることになりました。

分岐9 (他の人の選択)

アメリカとの共同システム開発という仕事が、僕に課せられました。その中心にCMISというシステムを置くことになり、ニューヨーク州、スターリング・フォレストで始まった仕事は、日本固有機能のシステム設計でした。

<スターリング・フォレスト NY州>

その頃、日本ではコンピューターと言えば=IBMで、通産省が主導して国産コンピューターをNEC、富士通、日立に開発させる戦略を立てて実行していました。通産省は日本マーケットでのIBMの独占を抑えるという至上命令を実行することでした。

作戦の1つとして、日本IBMに難しい要求を突きつけてきました。それは日本から輸出するIBMコンピューターを、国内用のものと完全に分離して、保税状態(日本の関税を払わずに)で輸出用マシンを作ると言うシステムを確立することが要求されました。通産省の差金で大蔵省の関税局あたりが考えた嫌がらせの1つのだったかもしれません。

僕はスターリング・フォレストのシステム設計者と3カ月間、共に働き、日本政府がIBMに要求した機能をCMISに組み入れると言う難しい設計作業を完了しました。設計者は何を期待されているのかが正確には理解できなかったようで、僕がそこに駐在して、最初の客先の受注管理から、生産計画の確立、部品必要量の計算、発注、在庫管理、払い出し、原価計算、そして完成報告までのすべての業務において、この保税対象の仕分けが出来るようなシステムを共同設計しました。

こうした設計をシステムに組み込み、日本IBMがアジア全般のシステム/360の製造、輸出、販売することができるようになったわけです。つまり日本IBMの根幹のシステム構築ができたと言えるでしょう。

IBM本社からも上級役員が来日し、盛大な完成祝式典が鵠沼海岸の三笠会館を借り切って行われました。しかし、その夜、僕は仮眠を取ったもののアルコールの残った状態で車を運転し、右手を5か所も骨折するという自損事故を起こしました。速、課長職を解かれ、アイスホッケーでいうマイナーペナルティ2年間を、部長付きで過ごしました。

<日本IBM 開発製造システム アーキテクチャー>

最終的には、日本IBMの製品開発製造部門のアプリケーション全体に対する責任者になりました。僕は日々、同じ仕事をやるということにはできなくて、常に新しいことをやっていくということしかできない性格でした。システムの開発は、常に新しいプロジェクトへのチャレンジでしたから、飽きることもなく、20年ほどをこのキャリアで歩んできました。

分岐10 (自分の選択)

50歳近くになったころ、IBMではコンサルタント業界に進出する決定がされました。日本IBMでも開始することになり、システム開発に精通した人材募集が全社で行われました。僕の部下、約500名の中から誰を推薦するかと考えましたが、まず僕自身がやってみて、その結果で人選を進めることが正しいだろうとボスに話をしました。20年間携わったIBM開発製造のアプリケーション担当をやめました。

各部門からの10名がコンサルタント教育を、すべて英語で受けることになりました。一年間のコンサルタントの教育をアメリカのトップレベルの社外講師たちから受け、コンサルタントの選別に合格し実務を開始しました。

<IBM コンサルタント教育のDiploma>

しかし心臓の状態が悪化し、コンサルタントのグループの中で、僕が足を引っ張るということになりました。皆が何日も徹夜をして業務をやっている傍らで、定時退社は僕にはできませんでした。

そこで僕に変わりとなる、自信を持って勧めることができるメンツを頭に思い浮かべながら人選を考えました。そこで行きついたのが、藤沢の生産技術部長をやっていたO氏でした。SEの経験を持つ彼を頼み拝み倒して、部長をやめてコンサルへ転向の道を強く勧めました。彼は、僕の願いを受け入れて、IBMのITコンサルタントのメインプレーヤーになって製造業の業界で大きな成果を上げてくれました。

分岐11 (自分の選択)

僕自身は、実は20年ほど前から個人的に勉強していたTAのカウンセラーの仕事がやりたくて、岡野嘉宏先生(会社のリーダーシップ教育で知った「TAとゲシュタルトセラピー」によるリーダーシップトレーナーであり、TAベースのセラピストの日本における第一者)に師事し、勉強し、研究部会に出席し、仕上げとして3週間のアメリカのインターナショナル・ワークショップに参画し、キャリアを積んでいました。それをもとに岡野先生に、IBMを退職します。先生の弟子にしてくださいと申し入れをしましたが、基本的には個人のキャリアとカリスマ性がカウンセラーの資質の要件だと言われ、先生の弟子になることができませんでした。

 

<カウンセリング TA>

岡野先生の助言、心の母となったアメリカのミュリエル・ジェームズ博士(TAの創始者:エリック・バーンの最後の直弟子)の援助などを受けながら、カウンセラーとして自立する道を選び、日本IBMを54歳で早期退職することにしました。

<ミュリエル・ジェームス博士 Muriel James PHD>

なぜこんな道を選んだかと言えば30代の頃イタリアで生活し、仕事、家庭ともう一つの世界と言う3つの世界が、常識であると心した結果、従来、仕事と家庭以外の新しい領域として、カウンセラーを選んで学んでいたわけです。IBMにはA&Cと言うシステムがあって、毎年、ボスと部下が共同で、業務計画と自己育成計画の両面から計画を作り、ドキュメント化し、中間点でチェックを入れ、最終的に年末に、その成果、進捗状況評価をするというシステムがありました。

僕は500人ぐらいのエンジニアをもっていましたから、カウンセリングのたくさんの実例を経験することができたわけです。対人関係の世界で、人間が変わっていくことを援助することができるという喜びを感じ、この仕事を選んだわけです。

分岐12 (自分の選択)

しかし神様はトラップを仕掛けていました。それは僕の心臓の病気の問題です。僕自身は健康診断で30歳の頃から心臓に遺伝性の問題を持っている事は知っていました。しかし、徹夜を含めて開発製造アプリケーションの開発に責任を持って進めることができていました。その病気が顕在化するとは思っていませんでした。

カウンセリングを始めて、まだ10年なのに、カウンセラーを辞めざるをえなくなりました。残念ながら心臓君が言うことを聞いてくれなくなりました。それは心房細動という心臓の病気でした。脈拍数が170以上になると、救急車で電気ショックを受けに病院に入院することが必要でした。クライアントとのアポイントメントをドタキャンをしたりして迷惑をかける状況になりました。

仕方なく病気治療中心の生活を余儀なくされました。4度にわたる心臓のカテーテル・アブレーション手術の結果、無理はできませんが、まぁ普通に生活ができる状況になりました。

 

<ボランティア 仙台>

僕は、もともとカウンセラーと同時に語学ボランティアをやっていました。その道にフルタイムで進みたいと思ったのですが、やはりアポイントメントをきちっと守るという信頼を得ることができない状況だと気が付きました。今は自分の頭の中にあることをダンプして文章に残すという事をやっています。

未定の分岐

79年の年月を振り返ってみると、現在の世界が僕にとっての必然なのだなあと思っています。すべての分岐が積み上がったのが今なのですから。

長くなりましたが、ここで終りとします。


人生の転轍機 その1

2021-11-07 | エッセイ

皆さんは転轍機(てんてつき)と言う言葉をご存知でしょうか?


本来は鉄道の線路を切り替える装置で、右に行くか左に行くかをこの転轍機を使って列車の進行方向を変えるものでした。


<転轍機>

 


<人生の転轍機 #1>


僕の分岐は人生の上で、どういったことがあったのかを整理してみようと考えました。書いてみるといろんな分岐がありましたが、大きく言えば12の分岐を経由して、今に至っていると思います。その分岐の決定は、自分自身のものと、他の人の決定の2種類がありました。


<東京大空襲>


分岐1 (他の人の決定)


僕が生まれたのは東京・谷中。太平洋戦争の1945年東京大空襲3月10日に、僕の家が全焼し、一家で疎開することから始まりました。候補地として考えられたのは母方の高知か、父方の係累のいる岡山の山の中という選択支がありました。


<岡山・川上村 徳山神社>
両親の選択は、徳山家の代々の係累が600年ほど住む歴史のある岡山の山国の徳山村でした。山の中での生活は、親父が洋画家だったこともあり、困窮を極めました。もし、明るくて暖かい母方の高知の海の村に疎開していたら、その後の生活には大きな違いがあっただろうと思います。大人になって母の故郷に行ってみて、強くそう感じました。


分岐2 (他の人の決定)


<洲本高校>
2つ目は親父の転居でした。岡山から淡路島への転居でした。そこには古くからの親父のお弟子さんが医者として病院を経営していて、親父は鳴門の渦潮をテーマとして描きたいということで、洲本市に転居を決めたようです。僕は高校2年の2学期から洲本高校に転校することになりました。岡山の県立高校から兵庫の県立高校への転校だったので、転入試験がありました。淡路島の歴史あるトップ校の洲本高校に転入学でき、新しい人生をはじめることができました。


この時知り合った、親しい友達、炬口くんと、恩師、奥野先生から大きな影響を受けました。逆に僕自身も、炬口には大きな影響を与えたと思います。彼はガリ勉で常に教室の1番前に座り、暗い顔をしながらメガネを光らせていた根暗な受験生でした。そこに僕の親父の洋画家が現れ、東京の生活の匂いを漂わせ、彼の世界の認識が広がり、影響されて彼も勉強以外への興味を広げていきました。そして僕の一番の親友になりました、


<炬口と僕>


洲本高校卒業の後、僕は学費の安い公立を選び大阪市立大に入学し、アルバイトと学業と60年安保の闘争の中で1年を過ごしました。その後、僕は3つ目の分岐点を迎えました。僕自身が大阪に残る、つまり大阪市立大学を卒業して大阪で仕事に就くという可能性を捨てて、一人で東京に戻るということを選びました。


分岐3 (自分の決断)


東京になぜ行くことになったのかと言えば、親父も早く、東京に帰りたかっていましたが、僕自身も3歳までしか住んでいなかった東京・谷中に憧れがあったのだと思います。僕の家族の間では疎開生活中もずっと標準語で話していましたから、いろいろ、からかいや、差別を受けました。東京へは、先ず炬口が早稲田の仏文に入って、新宿・面影橋の近くの下宿屋に住んでいたので、そこに一時、転がり込むことになりました。後で南こうせつの「神田川」でうたわれたような3畳一間の下宿から、神田川を眺めながらアルバイトに頑張りました。


<バイト先:河田町・フジTV Creative Commons 3.0 BY フジTV>


分岐4 (自分の決断)


僕としてはアルバイトで金を貯めて、炬口が入った早稲田に入るのが希望でした。しかし入学を出願する頃、当時の早稲田の総長、大浜さんが突然、大幅に学費を値上げしました。アルバイトで貯めていたお金では、とても対応できるような金額ではなくなりました。仕方なく学費の安い、しかもバイト先から近い大学を都内に探しました。

その条件に合った大学が法政でした。アルバイトを続けながら法政でがんばって勉強していたら、いつの間にか成績は学部トップになりました。おかげで2年生からは学費免除となりました。親父からの学費援助は、高校入学の時点で打ち切られていました。高校入学時から、審査試験で合格した特別奨学金を受けていましたが、大学の学費免除は、大変な援助になりました。


<法政大学>


分岐5 (自分の決断)


法政の学部を首席で卒業することになりましたが、この間、就職という分岐点に差し掛かりました。大学院に残るかと、教授に声をかけられましたが、外の世界を選びました。


希望したのは新聞社、出版社、そして、その頃、始まったテレビの世界でした。が、同時に海外の会社にも気持ちが動きました。


その理由には1つは親父の影響があると思います。親父が若い時期に、東京のキリスト教会を描いていましたが、世間に認められ「教会の徳山」と呼ばれるまでに成功したと言えるでしょう。しかし、戦前にフランスへの留学と言う事はなかなかできなかったようで、常にヨーロッパに目を向けている親父がいました。まぁ洋画家ですからフランスやイタリア、オランダなどの油絵に関して興味があった事は間違いないと思います。その辺の影響を受けていたのかもしれませんが、僕も海外で働いてみたいと言う希望も持っていました。ちなみに、探してみましたが、親父の描いたキリスト教会の絵は、文京区・本郷の聖テモテ教会に残っているのが唯一の絵でした。


<S/360>


外資系で応募したのが、ちょうどシステム/360で世界を席巻しようとしていたIBMでした。日本の会社では、TV8チャンネルで第4次面接まで行きましたが失敗。IBMの最終健康診断の日と小学館の社長面接の日が重なり、僕は日本IBMの健康診断へ方向を決めました。これは大きな転機だったと思います。

#2に続く


コルソ・ブエノス・アイレス その2

2021-10-24 | エッセイ

 

<コルソ・ブエノス・アイレス 2012年 Public Domain>

 コルソ・ブエノス・アイレスは、1980年ごろから、どんどん変わってきて、僕が最後に訪れた2016年には、どこか伝統的な雰囲気は失われ、東京の銀座と同じように有名ブテイックが並ぶ街に変化していた。非常に残念に思ったものだ。

 その昔、買い物の品定めは、日曜日にみんなで下見をする、つまりウインドーショッピングをするというのはミラネーゼの行動パターンだった。だから店は日曜日でも、ショーウインドー(ヴェトリーナ)には明かりがつき、店は閉まっているけれども商品が見えるようになっていた。

<あるヴェトリーナ> 

 日本のように、味もそっけもないシャッターが下りているのではなく、入口の左右にショーウインドーがあって、真ん中が店内への入り口だった。だから日曜日で店が閉まっていても、また夜遅くでもショーウインドーにある商品を品定めする事は容易だった。店に入る時は、最終的に買うと覚悟を決めているというのがイタリアの礼儀だった。ものを買うと言う事はエネルギーの要る、時間のかかる、しかし楽しい行動の結果だった。

<他のヴェトリーナの例>

 さらにはコルソ・ブエノス・アイレスのみならず、イタリアの主要な町にある大きな通りでは、市民は夕食前に散歩にでる。イタリア語では、“パッセージャータ”に出かけてくる。それは昔からの仲間達と挨拶して、お互いに健康であることを確認する行為でもあったと思う。ちょっと、おしゃべりをみんなしたいのだ。

 もちろん、まだ食事にはならないので、アプリティーボと呼ぶ食前酒を、バールで傾けたりしながら人の流れを見ているという、しきたりに近い行事が週日は間違いなく行われていた。

<バール>

 夜もこんなに人通りの多い通りだから、当然夜の商売の女の人たちが、街角には結構立っていた。縄張りがあるらしく、同じ人が大体同じところに立っているのを見かけたものだ。これも通りの風物詩的なものでもあった。

 夕食は単身でいる時はすべて外食で、毎日ランブラーテ駅の近くのトラットリア、トスカーナで食事をしていた。食事については、どこかで書いているから繰り返しになるかもしれないが、日本のようにメニューを見て、すべてのものを最初にオーダーしてしまうというやり方ではなくて、ステップ毎に注文を訊いて、調理して、それをテーブルに届けるというやり方が一般的だった。

 まず、ワインと水とグリッシーニを注文して、一皿目、オードブル(アンティパスト)を食べながらワインを飲んで、「プリモは何にしようか、今日は」と考えながらゆっくり時間が経つ。スープかリゾットか、パスタでも食べるかと考えながら注文し、プリモが来て食べ終わると、自分のお腹の調子がよくわかる。まだ食べようと思えば、メインに移ることになる。そこでは肉か魚の料理を選ぶ。同時に付け合わせを選ぶ。注文と調理することが順番に行われるので、時間がかかるわけだ。

 でもその間、給仕人(カメリエーレ)とのやりとりがとても楽しいし、いろいろおいしいものを教えてもらえるチャンスでもあった。僕が「娼婦風スパゲッティ:スパゲッティ アッラ プットニエーラ」を教わったのも、クラウディオというカメリーエーレからだし、エミリア州のランブルースコというワインを知ったのも、クラウディオと親しくなって、僕の好みを彼が理解して、勧めてくれたのがこのワインだった。ランブルースコにも甘口と辛口があって、僕が飲むのは辛口(セッコ:ドライ)と呼んでいたものだ。甘口は、とてもではないが食事と一緒には飲めるワインにはならない。

<ランブルースコ・セッコ>

 僕がミラノ駐在中の生活はこれで終わりにして、その後について語ってみよう。

 

 アプリケーションのSEとして、30年勤めた会社を早期退職して、10年程仕事と平行して準備を進めていた二つ目の仕事、カウンセラーを始めた。そして自分の時間を自由にスケジュールすることができるように になった。

  それ以前も、仕事でミラノに何度か来たときは、コルソ・ブエノス・アイレスに出かけてみることがあったが、ほんの短い時間でしかなかった。

 イタリアへは、1996年からこれまで、ざっと3~4週間ぐらいの旅を、4回やっている。ミラノ・マルペンサ経由だから、ミラノとコルソ・ブエノス・アイレスをすっ飛ばすということはあり得なかった。

 最初の頃は、観光客として常にチェントロ(中心街)に5つ星ホテルを取っていた。しかし、中心街でのミラノの生活が、だんだんいやになってきて、最終的にはコルソ・ブエノス・アイレスに4つ星の宿を取った。これは大正解だった。

<コルソ・ブエノス・アイレスのホテル>

  急に、住んでいると同じような感じになって、スーパーに行ったりハム屋さんに出入りしたり、パン屋さんをのぞいたり、本屋さんをのぞいたりしながらの過ごしかたで、あまり外では食べなくなった。 食べたいもの買って、ホテルに持ち込んで、気楽に自由に好きなものだけを、好きな量だけ食べることができるようになって、自由を取り戻した感じになった。

<部屋での食事>

 チェントロには、手頃なスーパーがなくて、遠くまで歩いて重いワインや重い水を運ばなくてはいけなかったが、コルソ・ブエノス・アイレスに戻れば、気軽にちょいと行ってちょいと買って、ちょいと持ち帰れば、自分のベースで滞在ができるのを実感した。

 

<古い友人夫婦>

 50年近い付き合いのあるイタリア人のエミリオとエミリアの二人には、くたばるまでには絶対に会っておきたかったので、2016年にコルソ・ブエノス・アイレスで会った。その頃は元気だった奥様のエミリアは、その後2年ほどして持病だった無筋力症が悪化して、残念ながら亡くなってしまった。

 ミラノでエミリオ、エミリアと会うということは、僕のバケットリストに乗っかっていたが、なかなか実現できていなかったので、最後の機会に会うことができて本当にホッとしている。 今、エミリオは一人でモンツアに住んでいるようだけれども、子供たちや孫たちに囲まれて元気に生きているそうだ。 先日、Facebookで友達になっているエミリアの姪っ子がリポートしてくれた。

 イタリア語を忘れないようにと、毎朝、NHKのイタリア語講座を聞き続けている。もう一度、この通りに現れることは、病気のことも有り、ちょっと難しいかも…と思っている。

<NHKのイタリア語>


コルソ・ブエノス・アイレス その1

2021-10-10 | エッセイ

  僕がミラノに住んでいた頃も、その後も、しょっちゅう歩いていたコルソ・ブエノス・アイレスについて書いておきたいと思う。

<コルソ・ブエノス・アイレス wikipedia by G. dallorto>

 昔、コルソ・ブエノス・アイレスを車で走っていると、急に前の車がスローダウンして、慌てて僕がブレーキを踏むことになることが時々あった。その運転者の目的は、歩道を歩いている美しい女に声をかけるためだと、後でわかった。とりあえず、美しい女性を見たらば、声をかけるのはイタリア人にとっては当たり前。それを車を運転しながら実行していることに出会った僕は、ビックリしてしまうのは当たり前だろう。

 コルソ・ブエノス・アイレスとは、ミラノのある大通り。場所はミラノの中心、ドウオモからサン・バビラを通って、ボルト・ヴェネチアを潜って歩き始めると、ここから長さ1.6キロの商店街、コルソ・ブエノス・アイレスという庶民的な街に入ることになる。そして、この通りは、第二次大戦中のパルティザンの虐殺で有名になったロレート広場まで続く。

<ピアツァーレ ロレート>

 ミラノで日本人に有名な通りなら、おそらくドウオモから近いモンテナポレオーネや、スピーガ通りのブティックの並んだ街のことを思い出すに違いない。しかし、このコルソ・ブエノス・アイレスは、日本人にあまり知られた街ではない。

 コルソ・ブエノス・アイレスと言うと、どっかで聞いたことのある名前だと思う人がいるだろうが、実はこの名付けられたのは、昔1800年の終わりのころから1900年初めの頃、イタリア人がたくさん南米移民としてアルゼンチンに渡ったことに由来している。つまり1906年にアルゼンチンに捧げた名前として、正式にコルソ・ブエノス・アイレスと名付けられたようだ。コルソと言うのは大通りで、訳せば「ブエノスアイレス大通り」というふうに理解してもらえばいいだろう。

<1960年のコルソ・ブエノス・アイレス>

 この通りは、僕が1970年から2年間ミラノの駐在員として過ごした時期にお世話になった通りでもある。350軒以上の、ありとあらゆる商店が並んでいて、昔はすべての店が客と対面しながら商売をしていて、イタリア語をほとんどしゃべれなかった僕にとっては、買い物、そのものが大変な仕事だったと覚えている。今みたいにスーパーに行ってパッケージでポンと買うというのではなくて、店主と話ながら、何がどのぐらい欲しいか、どう使うかなどを話して、量を測ってもらって値段を交渉して、お金を払って、やっと買い物が終わるというわけだ。どちらかと言うと、人と人との距離が近い世界だったと言えるだろう。

<映画館:Puccini>

 この通りにはありとあらゆるショップがあったが、中でも僕の印象に残っているのは映画館だ。イタリアでは、外国映画も全てイタリア語に吹き替えられていた。問題なのは、映画見ている間中、イタリア人は友達としゃべくり、ものを食べ、感想述べ、ピーナッツの皮などを床に散らかしたまんまというような見方をしていた。こんなにうるさい中でも、映画をちゃんと見ていられるのだと、びっくりした。

<最寄り駅 LIMA>

 僕が住んでいたアパートへは歩いて10分、この通りの中間にあるリマ駅(もうお分かりの人もいるでしょうが、ペルーのリマからつけた名前)から直角に入る道をたどって、グランサッソ通りを横断して、ガロファロ通りのレジデンス・グランサッソが僕のミラノでの住処だった。地上7階建ての3階ぐらいの2 LDKの家具付きマンションを借りていた。まるでホテルのようで、ちゃんとレセプションがいて、リネン類も3日に1度ぐらいタオルも含めて全て取り替えてくれ、部屋の掃除もちゃんと担当の人がやってくれるというような豪華なアパルタメントだった。

<レジデンス・グランサッソ>

 地域のことをいっておくと、コルソ・ブエノス・アイレスは、ミラノのゾーン2で、僕の住んでいたガロファロ通りはゾーン3だった。この地域には、ミラノ工科大学とか国立のミラノ大学だとかが、たくさんの大学がある地域で、結果として若者が多い地域だった。チッタ・ステゥーディ(学生の街)と言う地域だった。当然、買い物といえば、基本的にコルソ・ブエノス・アイレスに出かけることになる。

 コルソ・ブエノス・アイレスの終わりはロレートで、ここで道はわかれ、一つはF1で有名なモンツアへ続く道、もう一つはコモ湖のレッコからスイス・サンモリッツに続く道、さらには東のベルガモへの道、この先にはヴェネチアを経由してイタリアの1番東の端、パルマノーヴァと言う小さな町に通じる道になっていた。

 ちなみに、ミラノには、古くから城門(ポルタ)が作られていて、ヴェネチア方面への門は、ポルタ・ヴェネチア、ローマ方面は、ポルタ・ロマーナ、同じくポルタ・ジェノバなどがある。

 レジデンス・グランサッソについて、もうすこし書いておくと、ここのオーナーは中年の女性だった。車は真っ赤なフェラーリだった。地下の駐車場の真ん中に止められていた。僕が買った最初の車になったフィアット850Sも、同じ駐車場の1つは入っていた。ミラノの冬は寒くなるので、朝、エンジンがかかりにくいため、ガレージは温められていた。

 もう一つは、なぜここに住んだかいうことだ。僕の会社はミラノの事務所が手狭になった結果、20キロ程の郊外の新しいサイトに移るということになった。そこに通う人たちのためのプーマンと呼ばれる大型のバスが出るアスプロモンテ広場に、レジデンスは徒歩 4分だったから非常に便利だった。

<アスプロモンテの犬専用広場>

 2012年に訪れた時、幸いにオートロックの門扉が開いていて、人がいたので、内部に入ることができた。その頃、フロントを務めていたエンツオーさんはグランサッソに今も住んでいるということだった。会っていくかって言われたけれども、別に話すこともないのでレジデンスの屋上まで登って、ミラノの下町の街裏の風景を写真に撮ってきた。何度も訪れているが、なかなか中に入れなかったから、この時は本当にラッキーだった。 

<屋上から眺めたミラノの下町>

 

その2に続く