富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。」 マタイによる福音書7章1-12節

2020-01-31 17:56:30 | キリスト教

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12         TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

                                   日本福音教団 富 谷 教 会     週  報  

     降誕節第6主日   2020年2月2日(日)        午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                                          礼 拝 順 序

                                                       司会 斎藤 美保姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 214(わが魂(たま)のひかり)

交読詩編    9(わたしは心を尽くして主に感謝を捧げ)                    

主の祈り    93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)マタイによる福音書7章1-12節(新p.11)

説  教  「求めなさい。そうすれば、与えられる。」 

辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌(21) 440(備えて祈れ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                                                      次週礼拝 2月9日(日) 午後5時~5時50分  

                                                        聖 書 マタイによる福音書7章13-23節

                                                        説教題   「天の父の御心を行う者」

                                                        讃美歌(21) 206 459 交読詩編 86    

                   本日の聖書 マタイによる福音書7章1-12節

 7:1「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 2あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。 3あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 4兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。 5偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。 6神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」 7「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 8だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 9あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。 10魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。 11このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。12だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」 13「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 14しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」 15「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 16あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 17すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 18良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 19良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 20このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」 21「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 22かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。 23そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

                          本日の説教

 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」

 <裁くな>という言葉は、「腹を立ててはならない」(5・22)の教えと同様に、隣人との関わりが神との関わり方と結びついているのであり、他者に対して善悪の判断を下す(裁く)より、相手との和解こそが優先されるべきなのです。

「裁く」は、見下げる、批判する、非難するという意味です。相手を「裁く」とき、人は相手には厳しく自分には寛大になりがちです。しかし相手を裁く人は、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられるのです。

 主イエスは私たちが人を裁く時に誤りを犯すのは、自分の目の中に丸太があるのに気づかないでいるからだと言われるのです。私たちは、兄弟の目にある小さなおが屑には気がついても、自分の目にある大きな丸太には気がつかないのが問題なのであと言われているのです。「目にある丸太」という言葉で、私たちが知ることの難しい、自分の罪やあやまちや欠点を表しています。

 大切なことは、人を裁くことではなく、自分の目から丸太を取り除くことだと、主イエスは言われているのです。そして、もしも自分の目から丸太を取り除くことができるならば、兄弟の目にあるおが屑をも取り除くことが出来ると言われています。

では、「自分の目から丸太を取り除く」とはどういうことでしょうか。丸太とは私たちの心の中にある自己中心的な思いです。人は誰でも他人の欠点を探し、けちをつけ、優越感に浸るという悪い性質をもっています。この自己中心的な思いが取り去られ、自我が砕かれるためには、主イエス・キリストの十字架の死によって示された神の愛によるほかないのです。私たちの一切の罪が赦されていることを知り、キリストの愛に感謝するときに、兄弟を裁ない人に変えられるのです。

人を裁かないとは、人に対して善悪の判断をしないということではありません。もし誰かが間違っていたり、「あやまちに堕ちなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげる」(ガラテヤ6・1)べきなのです。

次に、主イエスは、「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない」と言われました。値打ちの分からない者に宝物をやっても無意味で、かえってろくなことはないと言う意味です。主の御言葉も、十字架において示された神の愛も、心を閉ざしている人々にとっては、豚に真珠に過ぎません。主の御言葉は、それを心から信じる人々にとってこそ、神聖なものであり、真珠のように尊いものです。頑なな思いを捨て、心を開いて主の御言葉を聞かなければなりません。

主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言われました。祈りは必ず聞かれると言われているのです。私たちにとって大きな励ましとなるこの言葉が、ここで語られるのは、これまで主イエスが語った様々な教えや戒めを実行することは、到底不可能に思え、「わたしは何と惨めな人間なのだろう」と無力さ、罪深さを自覚し、助けを求める者に対する励ましなのです。

主イエスは、<求める>、<探す>、<たたく>と言う三つの言葉を並べることによって、熱心な祈りをささげるように励まされます。しかし、祈りに限定する必要はありません。「求める」は神の国とその義」に対して使われています。「見出す」は、「自分の命」(10・39)、「安らぎ」(11・29)、「宝」(13・44)などで用いられています。「たたく」は「門」(7・13)と関係があるかも知れません。いずれも、「求め続けなさい」、「捜し続けなさい」、「たたき続けなさい」と、熱心に継続することが求められています。

そうすれば、「与えられる」、「見つかる」、「開かれる」といっておられます。神は熱心な祈りに答えてくださるのです。しかし、神は何でも祈ったとおりに与えてくださるというのではありません。熱心に祈る人に対し、神御自身が最善のことを、最善の方法で、最善の時に答えてくださるのです。願ったとおりにならないときでも、神は今、自分にとって最善の道を歩ませてくださっていることを信じ続けるべきなのです。

 主イエスは、さらに必ず与えられるという確かさを、親子の例を用いて説明します。世の親は、子供に少しでも良い物を与えようとします。パンを欲しがっているのに、石を与える親はいません。あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいないと言われています。ルカによる福音書には、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(11・13)とあります。絶えざる熱心な祈りに応えて神は、わたしたちにとって、もっとも良いものである愛と聖霊とを与えてくださり、父なる神の性質にあずからせてくださるのです。

神が私たちの祈りに応えて、良い物をくださるのだから、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」と主は言われます。黄金律と言われているこの言葉は、徹底的な愛の実行を勧めます。愛において律法の諸要求は満たされ、完成するのです。律法は徹底的に隣人を尊重することによって、守られるものであり、そのような人間関係と、神との関係を<求めなさい>と主イエスは勧めるのです。

「黄金律」とは、1750年にイギリスのジョン・ウェスレーがマタイ7・12を黄金律(Golden Rule)というタイトルで説教をしたことから、黄金律と呼ばれるようになったと言われています。また第24代ローマ皇帝アレクサンデル・セヴェルスという人がこの言葉を自分の部屋の壁に、金文字で刻ませた額を飾ったことからとも言いわれています。

「狭い門から入りなさい。その道もせまい。」命に通じる門は狭く、その道も細いからです。それを見出す者は少ないのです。主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(マタイ11・28)と招いています。この主イエスの招きに、頑なに拒む人々が大勢いるので、狭い門になっているのです。狭い門、命に至る門から入るには、素直になって、主により頼む生き方をすることが求められています。

主イエスは、「滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」と言われます。滅びに通じる道とは、自己により頼む生き方、自分の力と努力で生きて行けるとする自己中心的な人々の生き方を意味しています。その道は死をもって閉ざされます。主イエスは、死を乗り越える道、「永遠の命」を与えられる道を選ぶように私たちを招いています。

「偽預言者を警戒しなさい」と主イエスは言われます。ここで言われている「預言者」とは旧約の預言者ではありません。イエス様の時代に、間違った教えや指導をする教師たちです。偽預言者とは、神の言葉を用いて羊を養うような振舞いを示しながら、その実、飼っている羊を食べてしまう人たちです。

では、どのようにして偽預言者を見分けたらよいのでしょう。「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼」です。彼らは表面的に見る限りでは親切で立派ですが、その権威の行使は私欲、名声や権力欲のために人々を利用するのです。

では、何によって見分けるのでしょうか。主は、「あなたがたは、その実で彼らを見分ける」ことが出来ると言われます。良い木か悪い木かは、その実を見れば明らかではないか、と主は言われます。「実」という言葉は、その人の歩み、人格、品性、生活などを想定させますが、偽預言者かどうかは彼の隣人愛の行為に表れてきます。偽預言者はその本質を隠し通すことが出来ず、教えであれ生活であれ、その偽善性はやがて外面に表れるのです。

人間が「良い木」や「悪い木」に例えられています。天の父のみこころを行い、主に喜ばれる生活をしている人が、「良い木」であり、良い実を結ぶ人です。主イエスにつながっていなければ良い実を結ぶことができません(ヨハネ15・5)。

イエスは、「主よ、主よ」と口先で言うだけの人が「皆、天の国に入るわけではない」と言われます。口先で言う人も何人かは天国に入れるのでしょか。原文は部分否定ではなく、全面否定です。「わたしに『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るのではない。わたしの天の父上の御心を行う者(だけ)が入るのである」という意味です。

人間にとって重要なのは、やがて来る神の裁きです。そのとき「大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。」ここでイエスに訴えている人々は、自分たちの行った預言や悪霊追い出し、奇跡を、神の裁きを免れる条件として主イエスに認めてもらうことを期待して話しているのです。

 新約聖書には、悪魔が行った「しるしと不思議」も数多く記されています(使徒言行録19・13-16)。偽預言者たちはイエスの名によって奇跡的なことを行っていました。

偽預言者たちが、イエスの名によってなした業績をいくら並び立てたところで、それは全く無駄なことです。たとえ信仰をもち、数々の奇跡を行うことが出来ても、愛がなければ何の益もないのです(コリント一13・3)。

「その時、イエスは、きっぱりと、『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」と宣告されるのです。<不法を働く者ども>とは、律法を否定する者であり、愛の律法を否定しているからです。

「わたしから離れ去れ」は、完全な拒絶の言葉です。イエスは終末の父なる神の裁きを代行する者となられます。「知らない」は、詩篇6・9の「悪を行う者よ、皆わたしを離れよ」に基ずくのろいであり、永遠の滅びの宣告です。

主イエスは「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かな実を結ぶ」(ヨハネ15・5)と言われました。主イエスに結ばれている私たちは良い木とされ、良い実を結ぶ木とされていることを感謝しましょう。聖霊を与えられ、神の性質に与る神の子とされていることを自覚し、充実した日々を主イエスと共に歩んでまいりましょう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「明日のことまで思い悩むな... | トップ | 「主イエスの言葉を聞いて行... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事