富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「神の霊による啓示と協力して働くこと」 コリントの信徒への手紙一、2章10~3章9節

2020-08-22 12:14:56 | キリスト教

  「A. デューラーの祈りの手」  聖句 「わたしたちには、神が霊によってそのことを明らかに示してくださいました。霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。」1コリント2:10

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380・FAX:022-358-1403

       日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

    聖霊降臨節第十二主日  2020年8月23日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

         礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 561(平和を求めて)

交読詩編    15(主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙一、2章10~3章9節(新.301)

説  教    「神の霊による啓示と協力して働くこと」辺見宗邦牧師

祈 祷                               

讃美歌(21) 403(聞けよ、愛と真理の)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                次週礼拝 8月30(日)午後5時~5時50分  

                聖 書  ローマの信徒への手紙7章1~6節

                説教題   「霊に従う生き方」

                讃美歌(21) 475 342 27 交読詩篇 87

      本日の聖書 コリントの信徒への手紙一、2章10節~3章9節

 2:10わたしたちには、神が霊によってそのことを明らかに示してくださいました。霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。11人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。12私たちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。13そして、わたしたちがこれについて語れるのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、霊によって教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。14自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。15霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。16「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、私たちはキリストの思いを抱いています。                                            3:1兄弟たち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。2私はあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。3相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。4ある人が「私はパウロにつく」と言い、他の人が「私はアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。5アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。6私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。7ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。8植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。9私たちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

            本日の説教

当時コリントの教会には、さまざまな道徳上の問題や分派争いがありました。コリントからエフェソにいるパウロのもとにやってきた人々からコリントの教会の事情を聞き、さらに具体的な問題に関する質問もあったので、パウロがさっそく書いたのがこの手紙です。

他の手紙と同じように、挨拶(1:1-3)と感謝(1:4-9)につづいて、具体的な勧告に入ります。1章10節から4章21節は、コリントの教会における党派争いに関する箇所で、パウロの思い切った批判、するどい説明がなされます。しかし、単なる非難、告発ではなく、何度も<兄弟たち>とよびかけ、愛による猛省を促します。

コリントの教会における分派争いの根本原因は、人間的なことを神よりも重大視したところにありました。彼らの中には、<パウロにつく>人々や、<アポロにつく>人々がおり、なかには、<キリスト派>という分派がありました。このような分派争いは、「キリストの十字架を無力なもの」にしてしまうと、パウロは厳しくいましめました。

 コリントの教会には、福音の核心である「十字架」を「知恵」に置き換え、その解釈を誇り、さらに、キリストを「知恵の教師」と見立て、霊的熱狂主義にかき立てることによって「分派争い」を深刻にし、福音を無力なものにしてしまう知恵を誇る人達がいました。コリントの教会には社会的に身分の低い人々が多くいましたが、その人達を党派に引き入れ、自分たちは知恵のあるようにふるまっている人々に対して、パウロは神は知恵ある者に恥をかかせるために、世の無学な者を選び、地位ある者を無力な者とするために選ばれ、救われたのだ、と言いました。それは、だれ一人神の前で誇ることがないようにするめだ、と語ったのです。

パウロは、哲学の盛んなアテネでは知恵をつくし、工夫をこらして語りましたが、伝道は失敗しました。それでコリントでは、「巧みな知恵のことばによらないで、霊と力との証明によって」伝道することを決意しました。人々から嘲笑されても、キリストの十字架以外のことは語るまいと決心したのです。信仰による真の知恵を生まれながらの人間はうけつけません。霊と力との証明によらなければなりません。その知恵を、パウロは神の与える<霊の賜物>と呼んでいます。人間的なこの世の知恵ではなく、このような真の知恵を私たちに示すのが<キリストの十字架>以外にないことをパウロは確信したのです。

 2章10節以下は、コリントの教会内にいる知恵あるようにふるまっている人達に対し、神から来る聖霊のよる真の知恵について説きます。 

わたしたちには、神が霊によってそのことを明らかに示してくださいました。霊は一切のことを、神の深みさえも究めます。」(2章10節)

<わたしたち>とは、パウロを含む<神を愛する者たち>(2:9)です。<そのことを明らかに示した>とは、神の隠された真の知恵です。十字架につけられたキリストが<栄光の主>(2・8)であるという知恵です。そのことを、神はわたしたちに神の霊によって明らかにされました。この世の知者や支配者たちが、この知恵を理解していたなら、<栄光の主イエスを十字架につけはしなかったでしょう>。

<神の霊>、<神からの霊>(2・10)は、神を信じるすべての者の<内に宿る>(ローマ8・9)霊でもあります。パウロはローマの信徒への手紙で、神の霊は人間の全生活を新たにする力として説いています。しかしこの場合は、それは人間の心に入って、すべての事、<神の深み>さえも探り知る働きをするというのです。被造物も知ることのできない神の人類に対する計画を示し教えるものは、実にこの神の霊の外にはないのです。

人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。」(11節)

個々人が考えていることは、その人以外に知ることができないように、神のみが神についての真実を知り、伝えることができるのです。この深い神の真実を知る霊が、私たち信仰者に与えられているのです。

私たちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」(12節)

私たちは、<この世の霊>ではなく、<神からの霊>受けました。それで私たちは、<神から恵みとして与えられたもの>、すなわち、神がキリスト・イエスを通して人類に授け給う救いの恵みを悟るようになりました。しかるに世の多くの人々はこの神の恵みを知りません。

そして、わたしたちがこれについて語れるのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、霊によって教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。」(13節)

この<神からの恵み>・福音は個人の胸の中に、あるいは小さな教会の内に秘めておくべきではありません。ひろく万民に伝えなければならない喜びの音信です。<これについて>大胆に語れるのも、<人の知恵に教えられた言葉による>のでも、人間的な弁舌の技巧によるものでもありません。神の霊感を受けつつ語る言葉によらなければなりません。<御霊の賜物について語る>場合には、<御霊の教える言葉>以外には語ることができません。

自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」(14節)

<自然の人>・生まれながらの人は、神の霊から離れて、自然の状態で生きており、真理を知らないで生きています。<自然の人>の心は、霊に属する福音の宣教を受け入れません。なぜならそれは愚かに聞こえるからです。彼は霊的真理を理解できないからです。霊的真理は霊によって判断されるべきだからです。

霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。」(15節)

人は神の霊を受けることによって、すべてのものを正しく判断するように導かれます。この世界と人間、自己自身を含めてそれらがいかなる者の権威のもとに置かれているかを洞察し、現実的に、公正に「すべてのものを判断します。しかしその人は、生まれながらのだれからも判断されません。<生まれながらの人にとって、その人は謎的存在(「愚か」)になるのです。

『だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。』しかし、私たちはキリストの思いを抱いています。」(16節)

パウロはイザヤ書40章13節を引用します。「主の心を測りうる者があろうか。だれもいない」という否定的な答えを仮定しています。神の霊以外に神の深みをうかがい知る者は誰もいません。私たちキリスト者は霊を受けたのだから、「キリストの思い(霊)を抱いている」のであり、私たち、霊を受けた者が知っているのです。

 「兄弟たち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。」(3章1節)

特別な霊の賜物を受け完全なものになったという彼らの主張に対する批判を込めて、パウロはコリントの信徒たちに<霊の人に対するように語ることができず、肉の人、……に対するように語>らざるを得ないと言います。その理由は彼らの<間にねたみや争いが絶えない>からです。このような状態は、彼らが他の弱い信徒や教会外の人々を見下して<肉の人>また<ただの人>(3:3)と言い、自らを<成熟した人>(2:6)と呼ぶことをゆるしません。彼らこそ、むしろ未熟な者、<乳飲み子>にすぎません。

「私はあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。」(2節)

<固い食物>はここでは2:6-16でふれられいる<神秘としての神の知恵>を指します。コリントの信徒たちが、パウロの宣べ伝えたキリストの福音をいわば信仰の入り口とみて、パウロが去った後、論敵の影響によってそれを越えてさらに高い信仰の段階に到達したと思い込み誇ったことに対する辛辣な皮肉と思われます。しかしパウロにすれば、あのキリストの福音は、さらに高い段階へと向かう入り口として越えられてしまうようなものではなく、信仰の基本であり、土台です。パウロが十字架のキリストのみを語り続けたのは、それしか知らないためではなく、彼らが<固い物を口にすることができなかったから>であり、彼らはいまだにできないのです。

「相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。」(3節)

<ねたみ>と訳されている言葉は、宗教的な「熱心」をも意味します。コリントの人々は宗教的熱心さに動機づけられて真剣な神学的理解や、宗教的実践をめぐる教会を分裂させるような問題で争っていたのです。<ねたみ>とは、ささいなことをめぐってコリントの人々がねたみをもって口論していた、というのではありません。<肉の人>とは、教会内で競争し、不統一をもたらす人です。彼らの間に<ねたみや争いが絶えないのは、まだ<肉の人>なのです。彼らは聖霊によって心を動かされ、福音を信じる者となり、キリスト教の基本の教えについては一応知識を得ていたが、一向に神の奥義を知るに至らず、ただの人として歩んでいる人たちだったので、パウロはあなたがたは、霊的に未熟な「肉の人」だと非難したのです。

「ある人が『私はパウロにつく』と言い、他の人が『私はアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。」(4節)

コリントの人々は「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」(アポロは使18:24によると、アレキサンドリア生まれのユダヤ人雄弁家)という党派意識を持っていました。パウロはこのようなコリントの信徒を、<ただの人にすぎない>と批判し、キリストの霊による「キリストの思い」を抱かせ、彼らの霊的な誇りを戒めたのです。

「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。」(5節)

パウロは、「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」と語りかけます。重要なのは宣教者ではなく神なのだ、ということです。

 「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(6節)

彼らは作物を植えたり、耕す務めを与えられた農業労働者です。パウロは最初に現場に到着し、コリントに教会を建てました。そのことを<私は植え>と表現しています。そしてアポロは後から来て、その作物に水をやりました。しかしおのおのは神から割り当てられた務めを果たしたに過ぎません。彼らの努力は神から指示と能力を与えられなければ、全く役に立ちません。

「ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(7節)

農業労働者はやるように言われたことはできるが、種を芽生えさせることはできません。それは神の不思議な力によるのです。福音の言葉を根づかせ、信仰の生きた共同体を生じさせるのは、神です。

「植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。」(8節)

「植える者と水を注ぐ者は一つです」とは、この人々の努力が一つの農作業を補い合うということです。協力、団結を強調したパウロは、彼らは自分の働きを自分の手柄として主張することはできないが、労苦に対しては、神の最後の日における<報酬>を期待することは認めています。

「(なぜなら)私たちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」(9節)  

         1コリント3:9

植える者も水を注ぐ者も両者は<神のために力を合わせて働く者であ>ると強調します。この農業の譬えは、コリントの信徒と使徒の関係を、その働き手とその対象というふうに、神を媒介とした関係としてとらえ、<あなたがたは神の畑>であると結論します。教会は神の畑なのです。大切なのは、豊作をもたらす作物の栽培です。教職者も信徒も神の畑を協力して耕すように働く者でなければなりません。教職者は、なわばり争いに巻き込まれることを避けなければなりません。さらにこの教会の比喩的表現は、<神の建物>という言葉によって展開されます。<建物>という語は、ここでは教会という共同体の形成を意味します。

3:17では<あなたがたは(複数)、自分(複数:あなたがた自身)が神の神殿(単数)であり、神の霊(単数)が自分たち(複数)の内に住んでいることを知らないのですか」(3:16)と、神の霊がキリスト者個人ではなく、集められた共同体(教会)に住んでいることを表し、神の霊はもはや聖なる建物に制限されない、キリストにある神に選ばれた人々の集う共同体に神の霊は見出されるのです。今や共同体が讃美と礼拝が正しく神に捧げられる場所なのです。

 

 

 

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