許せる 許せない? | 高橋大輔選手と共に momokikuのブログ

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梅雨が明けたら今度は酷暑。コロナ感染予防と同時に熱中症予防も必要になってますが、両立は難しいですね。朝早くから気温がぐんぐん上昇する中でマスクは辛いです。今年は我が家もとうとうクーラーを買ったんですが、去年までどうやって過ごしてたんだろうと思うくらいフル活動しております。どうか皆様もお気を付け下さいませ。

 

大ちゃんの最新情報は上がってきませんが関西大学の爆破予告などという物騒な話をTwitterで目にしました。一刻も早い犯人逮捕が望まれます。

本当にこの大変な時期になぜここまで愚かな行為をしてしまうんでしょう?

人は愚かなものだと思います。不安や不満、恐怖心が正常な判断を失わせるんです。自分以外の人間はみな幸せでみんな恵まれている。それが許せない!

ってね、いや実際はそんなことないのに。結局犯人は恐怖心を人に植え付けることで人よりも上に立っている気持ちになるタイプなんですね。

 

暴力によって相手よりも優位に立てると私たちも心のどこかで信じてる面があります。だって戦隊もののヒーローだって戦争の英雄だってみんな最終的に力の誇示によって勝ってるじゃないですか。水戸黄門は地位の誇示ですね。

 

おびえる相手を見てるとなんだか自分が偉くなった気がして満足感を得る。もちろんその満足感は一過性です。なぜなら相手はそれで自分を敬ってくれるわけではないから。怖がって避けられると今度は仲間外れにされてる気がしてそれもまた腹が立つ。

 

相手を殴りながらその相手から尊敬されたい・・・すごい奴だと思われたい

 

いやそれはさすがに無理ってものでしょう?でもそれがわからない人が世の中には意外に大勢いるんです。悪態つくことで人よりも勝ってると思いこむ人がね。

昔はそういう人は世間から自然と遠ざけられていったと思われますが、最近はネットで幅を利かせることができますから困ります。たった一人のゆがんだ認知がどれだけ罪もない人に悪影響を及ぼすことか。

それを否応なく私たちは眼にしております。許せないと叫んだところで相手に届かないのがさらに悔しいですね。

 

殴る方には相手の痛みはわからない。自分が殴られて初めて悔しさも悲しみも痛みも知る。つまり実際に自分が痛い思いをしなければ想像できないんです。私たちは幼いころからそれを教えられてきたはずなのになぜか暴力への欲求が理性に勝ってしまうんですよ。

もちろん暴力は言葉の暴力も含まれます。

 

 

 

前回の記事で「丁寧な暮らしをする餓鬼」というTwitterをご紹介しましたが、本が出版され、ガチャやLINEスタンプになるくらい人気なんですね。私はまだ読んでないので詳しくはないのですが、それだけ人気があるってことですよね。

 

一方実際に丁寧な暮らしをしている方々に対してはあまり芳しくない意見もあるのは申し上げた通りです。

手作り菓子なんてくそくらえという過激な言葉をつづっているブログも目にしました。いや手作りなんて大したものじゃないよーやってみればわかるよと言いたくなるくらい、手作り菓子に対して幻想といってもいいくらいの過大評価されてるんですよねその人は。

 

現実の女性がやってる丁寧な暮らしはうさん臭くてわざとらしいのに、餓鬼のキャラクターで描かれるとなんかほっこりするし、いっそ愛おしい。ちょっといい生活してる人がそれを匂わせるのは許せないけど、丁寧な暮らしをする餓鬼がSNSで流行るのは許せる

 

取り柄のない餓鬼が一生懸命集中してる姿は可愛らしく見える一方で時間もお金のゆとりもありそうな女性がわざわざ手間のかかるような家事をしているのはなんだか腹立たしい。

 

どっちもやってることは同じです。箒で掃き掃除したり、梅干し干したりです。なのにこの評価の違いは何?

 

それが人間の面白いところですね。
 

餓鬼よりは上、丁寧な暮らしを実践する人よりは下

 

自分のポジションをそう位置付けて評価を下してるんです。

 

自分に歯向かうことはできないキャラには同情し、自分よりはちょっと上回る暮らしをする人に対しては言葉を尽くして貶めようとする。なんというかそれで並列化しようとする意識を持つ人間がどうも多いみたいなんです。同じ場所に引き上げようともすれば落とそうともする。

 

つまり自分が座している場所が一番正しいと無意識に感じるからなんとか並べようとするし、逆に他人のほうがちょっと上だと思うと並ばなくちゃと意識して焦ってしまう人が多いのかな。できればちょっとくらいは自分が上でありたい。その辺が微妙なんです。どっちにせよ間違ってるのは相手の座ってる場所で、自分が座る場所が正しいと思いこまないとやってられないですよね、この世の中。

結局落ち着くのは自分は自分だってところです。でも問題はそうじゃない人もいるってところ。

 

まあそもそも家事なんて使用人がするものという人にとってはどうでもいい話ですけどね。

 

自分の姿は自分には見えません。自分がどのポジションかなんていちいち意識せず、ただ自分が座る場所から見える風景をあーだこーだと評してるだけなんです。つまり自分のポジションからかけ離れていれば全く想像もつかないし、せいぜい手が届く範囲で羨んだり蔑んだりしてるだけ。

 

私たちはみんな同じ物見やぐらに立っているのではありません。

 

天空高い位置にいる人もいるだろうし、地の下の洞窟みたいな場所から眺めてる人だっています。その目に映る景色だって最初から全く異なってるんです。でもそれをつい忘れてしまい、洞窟の人は洞窟へ、天空の人は天空へ相手を誘おうとします。

それは無理があるってものです。

 

他者と交わりたいのなら相手が見ている風景を一緒になってみようとしなくては最初から話にもなりゃしません。

 

人はそれぞれとはよく言われるけど、同じ価値観で生きる人たちの中にいるとつい他人の視座が全く異なることを忘れてしまいます。

同じつもりで会話してると思いっきりすれ違っていやな思いをしたりする。私にも経験があります。でも今は気が付きました。

 

私は家族にも友人にもあまり大ちゃんの話はしませんし、彼がいかに素晴らしいかを宣伝したりもしません。あ、こんな素敵なショーに出たんだよとかは報告しますが、一緒に観ようと誘ったりはしません。

 

その人が座る場所に映りこんだ大ちゃんがその人にとっての大ちゃんだと思ってるんですよ。好ましいと思ってくれたら嬉しいけど、そうでなければそれまでです。無理やり変えようったって無理なんです。見えてるものが全然違うんだから。ご縁があればそのうちにその人のタイミングで巡り合えることでしょう。私は私の見る大ちゃんが綺麗ならばそれでいいのです。人からはどんなふうに見られようとも構いません。

 

が、さすがに爆破予告犯みたいにめちゃくちゃな理論で攻撃を仕掛けられたら当然対処の必要がありますが。

 

残念だけどみんながみんな眺めのいい場所にいるわけじゃあありません。この予告犯のようにいったい何がどうなってそんな場所に座ってるのか意味不明な人もいます。でも何かその人なりの理由があるんでしょうけどね。それを理解しようと努めるよりもまずは厳正に処罰すべき。それがお互いのためです。

 

 

もしも人に迷惑をかけていないと自覚するなら他人からの勝手な位置づけに従う必要はありません。ただ自分が今どこにいるのかは時々振り返って確認するべきだと思います。自分の姿を見ずにして他者を非難するのは理不尽です。己をまっすぐに見られる勇気があるなら他人を

故意に傷つけたりはしないはず。

 

 

あなたの怒りはどこから来ているのか?探り当ててからぶつけるべきでしょう。実体のない言葉に人を動かす力はありません。人々にいやな思いはさせられるけど、それであなたには何のメリットもありません。

 

私はといえば野生動物を追うカメラマンみたいにジャングルの高い木にテントを張って、ネットという双眼鏡で狙った生き物が通りかかるのを待ってるだけです。最近はちと幻化しておりますが、見ればそれはそれは美しくて感動するのに間違いない生物なんです。

 

つまりめっちゃ視野が狭いんで、えらそうなことは何も申せません。が、観察の合間にせっせと居心地よくしようとしております。

他人の居場所を変えることは容易じゃないですが、自分の周りを整えることはいくらだってできます。

挨拶、笑顔、ちょっとした誉め言葉 それだけで空気は明るくなるんですよ。

 

みんながそれに気が付いたらもっと世の中平和なんでしょうけどね。

 

 

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