Look at the Dawn Sky (^^)

生きとし生けるものが幸せでありますように。

質問コーナー(生存報告も兼ねて)

2019-05-30 19:36:20 | 日記


 この世が、一つなら何故神と仏が存在するのか、この矛盾は解明出来ないから、教えて下さい。

 先日このような質問(↑原文そのまま)を頂きました。



 私は今までにもこのような質問や問いかけ等を、いろいろな機会にいろいろな方々から時折頂いておりました。

 大抵の場合私は対面した時に直接お話を聞いて済ませていたのですが、今回はしばらく更新を停止していたにも関わらず、毎日当ブログの閲覧にいらっしゃって下さっていた皆様方への生存報告も兼ねた記事にしてみたいと思います。

 さて、例えば世界は一つであるとか、神とはなんぞや、仏とは云々~という事柄とは、大抵の人々が今までに一度は心の何処かに引っかかった事がある(主に10代前半頃によくある)ような考えだと思います。

 それを踏まえた上で、今回の質問文を論理的に読み解くなら、質問者にとっては「この世が一つ」であるという事と「神と仏は存在する」という事が矛盾しているという結論に至ったと読めます。
 そしてそれが気に入らないので何とかしてくれという主旨の質問を下さったものと愚考(突っ込み処を整理)しました。分かり易く箇条書きにすると。

・この世は一つである
・神と仏は存在する

 という2つの事柄の関係ですが、一体どこが矛盾しているというのでしょうか。
 一見したところ、これは論理的な意味での矛盾ではなく、ただの連想が思いっきり飛躍した為に起こった当然の結果として、単に「混乱」しているのだとお見受けしました。

 従ってこの質問に対する回答としては。

 「この世とは貴方が思うように一つではなく、この世には貴方が思うような神や仏は存在していません」という回答になります。

 ……という回答だけでバッサリ終わらせてもいいようにも思うのですが、さすがにそれではちょっと不親切な気もするのでもう少し掘り下げます。
 どうせやるなら数ある突っ込み処(論理の飛躍)を、一つ一つ丁寧に分析したいと思います。



 では、まず一つめ。

 「この世は一つ」という概念ですが、これをどう定義する(思い込みや固定観念化している)のかは、個人の自由です。
 しかし、いくら自由だからといって余りにも自由奔放、奇想天外な飛躍から定義をしてしまっていれば、当然現実との齟齬や摩擦が常時発生します。

 例えば、この世=地球。と定義していた場合なら特に矛盾は起こりませんね。

 確かに私たちの知る限り、地球は一つです。
 ん……そういえば、昔のアニソンの替え歌で「地球は一つ♪ 割れたら二つ♪ お~ がっちゃま~ん♪」みたいな事が、もしも現実に起きたとすれば「この世は二つ」と言ってもいいでしょうけどね。っと、まあこれは余談でした。

 冒頭の質問に戻ります。
 この世、それが地球の事ならぱ、それは確かに一つです。
 確かに一つなのですが、質問の文脈を素直に読めば、質問者にとっては質問者が存在を信じている神や仏が複数存在し、それらの神や仏が存在する数だけ同数のこの世(地球)が存在するというのならば、このような矛盾は生じないという事になりますが──それは、さすがに有り得ません。


 では、二つめ。

 神とは、仏とは何ぞやという事です。
 さて、私たちは神や仏という概念をどのように定義しているのでしょうか。

 もし神や仏に直接聞くことが可能ならば話はとても早いのですが、それはちょっと難しい……というか無理なので、既存の神や仏のお話を調べる所から始める他ないでしょうね。

 ところで、つい先ほどアニソン、アニメを話の引き合いに出しましが、ほとんど全ての神話や民話、伝承などは、今の時代に数多く創作されているアニメやドラマ、映画、小説等と本質的には大して変わらない、昔々のどこかの人間が、人間だけの都合で語った物語に過ぎません。

 もう少しはっきりと言うなら、神や仏が直接自分で書き残したり語ったりしたモノは実在しません。

 それでも、私は神を見た。私は神と通じた──などと言い張る人(病人や詐欺師)は、いつの時代にでも結構たくさん居るのものですが、人間に対して何かを直接物語る、語れるのは、やはり、同じ人間にしか出来ない事です。

 [但し仏典(大乗仏教を除く)に関しましては、その昔お釈迦様という実在した人物が、当時の様々な人々の問いに対して、慈悲深く答えて下さったそれらの膨大な記録を記録として、およそ2560年以上に渡り現在まで保存され、研究され、実践され続けているという意味合いにおいて、単なる創作物とは太く一線を画するものです]

 こうした個人、一人一人が妄想したり創作したりする精神世界をも、もし「この世」と混同し、定義しているのならば、この地球上の動かし難い現実的な各種法則との間に常時、強烈な摩擦や軋轢を引き起こし続けることになり、当然いろいろと痛い目に合い続けます。

 それでも個人の主観として、この世に神と仏が存在するという事が本当に事実だと思い込んでいて、その個人自身がそこに矛盾を見いだしているという事なら、それはきっと質問者ご自身がとても痛い目に合い、ひどく苦しみ続けているからこそ、これは矛盾であるとの結論に至ったものだと推察出来ます。

 恐らくは質問者ご自身がこの時、実感として苦しく不幸であるという事実から、この世に神や仏が存在する──それならば、何故私はこんなにも苦しんでいて、それなのに何故神や仏は私を救ってくれないのだ? 神や仏が存在するなら私を救ってくれる筈ではないか!。
 ……という論理展開であれば、一応は……ホントに、一応、の、論理的な飛躍を埋める質問の筋が通ります。

 このように質問の分析を進めましたけれども、実際のところ質問者がどのように神や仏を想定し、思い込んでいるのかという本当のところまでは(見当はつけども)残念ながら分かりません。



 ただ、一つだけ私がはっきりと言えることは、質問者が思うような神や仏が本当に存在するのなら、質問者ご自身はいつ如何なる時にも常に、大変幸せな筈だ、ということですね。
 しかし質問者ご自身が不幸を感じているのならば、そのような神や仏とは、質問者の妄想世界にしか存在していないということです。



 以上の分析から私が責任を持って言えることとして、この世が一つである事や、神や仏の存在等の妄想は、実のところ私たちの幸せや不幸とは何ら関係ないということだけです。

 私たちを苦しめる不幸の正体とは、やはりお釈迦様の言う通り、私たちの心に、怒りと、欲と、無智とが満ち溢れた時、どうにも耐え難いものになる。という事だけです。

 という訳で以上のように今回の質問を深読みした上での私の回答は、普段から怒らないように注意し、必要以上に欲張らないようにも注意して、いろいろと勉強を頑張りましょう──という、とてもつまらない事を回答とさせて頂きます。



 生きとし生けるものが幸せでありますように。


 230 拝


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