※この記事はファイナルファンタジーⅩⅥのネタバレを含みます。


【ストーリーあらすじ】

ヴァリスゼア。そこはマザークリスタルの加護によって人間が魔法を使い生活している世界。

生まれながらに魔法が使える「ベアラー」という突然変異の人間は奴隷として使われていた。

また、召喚獣の力をもつ人間は王家であったり、別の国で奴隷として使われている。

王家に生まれながら召喚獣の力を持たなかった主人公クライヴは、ベアラーの解放を扇動する大罪人のシド、鉄王国で奴隷として召喚獣戦に駆り出されていた幼なじみの女の子ジルと共に、「人が人らしく生きれる世界」を目指し、人を狂わすマザークリスタルの破壊のため旅に出る。


マザークリスタルは各国に一つあり、その周囲には「黒の一帯」という人間も動植物も住めない土地が広がっていっていた。クライヴたちは、マザークリスタルがヴァリスゼアのエーテル(エネルギー)を吸い取っているせいで黒の一帯が広がっていることを突き止める。


そして旅を続けるうち、マザークリスタルの元締めであり、人間を創った神アルテマの存在が明らかになる。

それぞれのマザークリスタルにも神がおり、それらの神々を含めたアルテマらはヴァリスゼアからエーテルを奪い尽くし、アルテマの器であるクライヴに全ての召喚獣の力を与え、その器を奪い取ってヴァリスゼアを破壊し次の世界へ旅立つ手筈であった。


しかし、最後にはクライヴがアルテマに勝利し、ヴァリスゼアから神は失われた。

そして、クライヴも流れ着いた浜辺に横たわり、月を見ながら愛するジルを想い、命を落とす。


この場面でテーマソング「月を見ていた」が流れる。

※私なりの解釈なので、批判、反論は御遠慮下さい。



1はクライヴ目線、2はジル目線の詩のようだ。


1.

月明かり 柳が揺れる

私は路傍の礫

想い馳せる あなたの姿

羊を数える様に


この場面に柳はないがら、浜辺に寝転がったクライヴは道端の石ころのように、もう何もできずただ、ジルを想いながら月を見ている。

その姿を、眠る前に羊を数えるように想起している。


別れ行く意味があるなら

せめて悲しまないで

静寂から離れた空へ

一筋の愛を込めて


今消えようとするクライヴの命。人が人らしく生きれる世界を夢見て戦い、遠く離れた地にいる愛するジルを想う。命が失われ離れ離れになっても、そこには意味があると信じたい。きっとこの世界が平和になると希望を胸に。


どんな夜だって

失い続けたって

に生きてきたろう

瞬くように


ジルとともに旅し戦い過ごしてきた時間は、瞬くように一瞬だった。



何かを求めて 月を見ていた

嵐に怯える私の前に

現れたのがあなたでよかった

まるで何もかもがなかったかのように

この火は消えたりしない    きっと


クライヴが奴隷兵として生きていたときは絶望し、心の強さを失っていたが、ジルと再開し、生きる希望と生きる目的を持てるようになった。この情熱、そしてクライヴ自身が成した平和な世界への希望の火はきっと消えないと信じている。


2.

その窓を風が叩けば

僅かに開け放して

ただひとつ、そうただひとつ

語り得ぬ声で叫ぶ


場面が変わり、ジル。クライヴの帰りを待つ中、何かを感じ外に出る。クライヴが死んだ。そう直感したジルは叫び泣く。



生まれ変わったとして

思い出せなくたって

見つけてみせるだろう

あなたの姿


この世界に神はいないし、輪廻転生も天国もない。しかし、もし生まれ変わりがあるなら、再びクライヴを見つけるほどに、クライヴを愛し求めている。


全てを燃やして月を見ていた

誰かがそれを憐れむとしても

あなたがいれば幸せだったんだ

およそ正しくなどなかったとしても

消えたりしない


この戦いは間違っていたかもしれない。人が人らしく生きられる世界を求めるなど正しくなかったのかもしれない。それでも、クライヴといられるだけで幸せだった。この愛は、平和への想いは消えたりしない。


名前を呼んで もう一度だけ

優しく包む その柔い声で

月を頼りに 掴んだ枝が  あなただった

あなただった


これはクライヴ目線かも。

冒頭で揺れる柳を掴んだら、それはジルだった。まるでジルがそばにいるように、共に月を見ているようにクライヴは「月が綺麗だな、ジル」と言い、そのまま息絶える。


何かを求めて 月を見ていた

嵐に怯える私の前に

現れたのがあなたでよかった

まるで何もかもがなかったかのように

この火は消えたりしない    きっと



吉田Pとの対談で、米津さんはもっとシリアスに、救いようのない曲にする必要があると思っていたが、次第にクライヴの気持ちに感情移入していき「クライヴには幸せになって欲しい」と語っていた。

たしかに、神がいなくなり、天国もないし輪廻転生もない世界において、クライヴの死には救いがない。

でも、この曲には僅かな希望が垣間見える。

このエンディングにおいて、この曲がなければ、ゲームクリアの後味はかなりしんどい。悲劇を救う曲作りに舵を切った米津さんのバランス感覚には、愛を感じる。

そして毎度ながら言葉選びのセンスの過ごさ。詩人だ。

今日は空想ツアーラストの横アリLIVE初日。この曲の深さを味わいながらLIVEに行かれる方は楽しみ尽くして欲しい。


こんにちは。

 

私は2年ほど前まで神智学・秘教を学んできました。

 

しかし、聖書の学びを通して気づいたことは、神智学・秘教の教えは聖書と真逆であるということでした。

 

聖書では輪廻転生はありません。

 

聖書では明確な地獄(ゲヘナ)、天国があります。

 

聖書では三位一体の神以外を崇拝(信じる)することは赦されていません。

 

 

他にも、神智学・秘教の考えと対立することが聖書にはたくさんありますが、何よりも大きいのは悪魔(サタン・ルシファー)に対する考えです。

 

神智学の創始者であり、現代のニューエイジ、スピリチュアルブームの元祖であるH.ブラヴァツキ―は「シークレットドクトリン」の中で100回以上もルシファー・サタンについて言及しているとのこと。

その中の引用をされている方がいたのでこちらに記載します。

 

 

サタンは、かつての “油注がれたケルビム”で

 

…神は、全創造物の中で、最も美しく 賢いものとしてサタンを創造し

 

世の君、空中の権威とした

 

~~

 

 このように、サタンは 知恵と美しさにおいて完璧であり

 

太陽系全体ではないにせよ 彼の広大な帝国は、私たちの地球である

 

~~

 

 彼を超えるどころか 同格の権威を持つ天使すら 私達に明かされたことはない」

 

「この惑星の神 そして唯一の神はサタンである」

 

「この場合、死んだ書物の観点からでも

 

創世記の蛇、サタンこそ

 

真の創造者にして恩人 霊をもつ人類の父とみるのが自然である

 

それは、かつて“光の先駆者” 燦然と光り輝くルシファーであり

 

伝えられる通り、エホバに作られた 「オートメーション」の目を開かせ

 

こう囁いた最初の者だからだ 『それを食べると、目が開け、 神のように善悪を知るものとなる』と

 

彼が救い主とするのが 唯一可能な見方だ」

 

「神の敵であるサタンは 本当は、最高位の神霊である」

 

「ルシファーは、地球の神聖な光 “聖霊”であると同時に、サタンでもある」

 

 

 

 

たしかに、サタン・ルシファーの存在を認めており、かつ讃美しています。

 

神智学・秘教では、ルシファーは人間の魂が物質界での経験を得るために天国から落ちる必要があったと解釈されるそうです。

 

 

一方、聖書において、ルシファーは堕天した悪魔であり、最終的に地獄(ゲヘナ)に行くことが決定しています。

その記述を旧約聖書のイザヤ書で読むことができます。

 



「明けの明星、暁の子よ。

どうしておまえは天から落ちたのか。

国々を打ち破った者よ。

どうしておまえは地に切り倒されたのか。

おまえは心の中でいった。

「私は天に上ろう。

神の星々のはるか上に私の大座を上げ、

北の果てにある会合の山で座に着こう。

密雲の頂に上り、

いと高き方のようになろう」

だが、おまえはよみ(ハデス)に落とされ、

穴の底(ゲヘナ)に落とされる。

おまえを見る者は、おまえを見つめ、

おまえについて思いを巡らす。

「この者が、地を震えさせ、王国を震え上がらせ、

世界を荒野のようにして、町々を倒し、

捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。」

諸国のすべての王たちはみな、

それぞれ自分の墓で、尊ばれ眠っている。

しかしおまえは、忌み嫌われる枝のように、

墓の外に投げ捨てられる。」

イザヤ書14章12-18節

 

聖書において、悪魔であるサタン(ルシファー)は神の敵であり、最終的に地獄であるゲヘナに落とされます。

 

また、サタンを拝んだり信じる者は、最後の審判(白い御座の裁き)で裁かれ、復活の体を得てゲヘナに投げ込まれることになっています。

復活の体を得る、というのは永遠にゲヘナの火の池で焼かれるということです。

この池の火は永遠に途絶えず、永遠にそこから出ることができません。

 

 

神智学・秘教と聖書の考えは対立しており、どちらかが本当でどちらかが間違っています。

 

私はどちらを信じるか考える場合、2つの方法があると思います。

 

まず、どちらが真実を伝えているか、です。


真実かどうかを判断する場合、論理的であること以上に、現実に起きているかどうかが重要です。

神智学・秘教での教えは、現実に起きているかどうかを判断する材料があまりありません。

直観やチャネリングなどの主観がメインとなります。

数々の書籍は覚者(ア千デッドマスター)からのチャネリングにより書かれています。

しかし、そのチャネリングの内容が真実かどうかを判断する材料は、現代科学で解明できる範囲がまだ狭いので、解明できない部分は「論理的である」以外にはないように感じます。

 

一方、聖書は40名以上の預言者により1600年にわたって書かれた書物です。

書かれた預言は聖書全体の27%であり、これから起こること以外はすべて成就していることがわかっています。

また、歴史書としても他の史実と合致しており、写本学的にも原本と同じであることがわかっています。

 

ただ、この視点で比べた場合、悪魔サタンは聖書の内容を含め、真実を知っていますから、チャネリングによって人間に真実を伝えたり、聖書通りに人々を動かすことも可能だ、との反論もあり得ます。

 

 

 

では、別の視点で判断してみます。

 

もし神智学・秘教が正しかったとして、これを信じてもゲヘナで永遠の火の池で焼かれることはありません。

信じなかったとしても死んだあと転生するだけですので、マイナスなことはありません。

聖書を信じること、イエスキリストや天地創造の神を拝むことは禁止していないので、何か反することをして地獄に行くという考えはありません。

 

 

しかし、聖書が正しかった場合、イエスキリストの福音を信じないと天国には行けず、さらにサタンの言うことを信じるとゲヘナに行くことになります。

聖書を信じれば天国に国籍をもつことになります。

お布施や教会に通わなければいけないなどの「行い」をしないと救われない、というものではなく、信じるだけで良いので、他の宗教とは異なります。

 

 

どっちがプラスか、より、どっちが自分にとってマイナスかで判断するのが合理的です。

 

私はゲヘナには行きたくありません。

 

普通に考えれば誰も行きたくないと思います。

 

でも、耳障りのよい方を選んでしまうのは、非合理的であり、サタンの甘い誘惑です。

サタンはそうやって人を騙して陥れようとします。

 

 

あなたは、どちらを選びますか?

 

 

私は神智学・秘教を学ぶ人を否定しているわけではありません。

しかし、裏にはサタンがいることを忘れてはいけません。

 

学ぶのに有益な情報がたくさんあるので、サタンの力を利用するというのもありです。

有名人や歌手、ビジネスマンなども、サタンの力を利用して権力・名声・富を得ています。

それを「悪魔崇拝」と呼ぶのですが、何を選ぶかは自由です。

 

どのように生き、どのように死後を過ごしたいかを考えるきっかけになれば幸いです。

 



おはようございます☀️

3月で傷病手当が切れるのですが、まだ職場から復帰時期の話し合いのための面接日程が決まらず、ヒヤヒヤしています😱

昨日はこのことについての恐れ、不安、焦りが酷く、一日を思い煩いに使ってしまいました💦

今朝もまだモヤモヤしていて、祈りながら「恐れ、不安、焦りは罪なのかも」と思い至り、悔い改めました。
あっという間に解放されました😆👍




「天地を揺るがす祈り」で調べるとやはり罪と束縛のリストに入っていました。




罪とは、神様から離れて生きていることでおかす行いなので、ネガティブな感情も罪にあたるんですね。


人間なので、そのような感情を持つことは自然なことですが、それを罪であると認めること。

そして悔い改めて祈ることで、ネガティブな感情から解放され、神様とともに生きることができるのですね💕︎


聖書ではこう書かれていました。

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」
‭‭ピリピ人への手紙‬ ‭4‬:‭6‬ 口語訳‬



今日も神様に感謝と賛美を捧げ、ステキな一日になりますように✨