【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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詩篇127篇

2020年02月20日 08時20分31秒 | 詩篇
127篇 神に信頼する幸
おはようございます。朝の目覚めとともに思うことは何でしょう。一日の初めに、まず十分に休んで、体力を整える夜がある。朝は、その眠っている間に、神が一日の働きの準備をしてくださっていることを感謝する時です。そしてその日を始めるわけです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.文脈と背景
この詩篇には、主題が二つあるが、その根拠は一つであるという。つまり、私たちが行うことの祝福、私たちの家族の祝福、それらはみな神が備えてくださるものだ、ということだ。人生の祝福の極意は神の哀れみに他ならない。
 この詩を書いたソロモンは、伝道者の書を書いている。そこで詩人は、「空の空、すべては空」と人生の空しさを説いている。1節の「むなしい」の原語は、伝道者の書のそれとは異なるが、言っていることは、同じである。
どんな成功も、ただ成功しているだけ、建物の数を増やして、それを守っているだけ、ということがあるものだ。そして、人が死ぬ時には、それらの成果物を、一切この地上に残していかなければならない。彼はその成果物を自分のものとし続けることができない。何とも空しいことではないか。そして、しばしば、人生には、どんな努力も、空しくする不条理があったりするものだ。本来ならば、この先自分の成果物を存分に楽しむことができるはず、と思うところが、突如、その楽しみにピリオドを打たざるを得ない不幸がやってくる。人は自分の人生の先を予測することができない。それも実に空しい。
こうして、やはり人は、物事を建てあげ、それを維持するように計らってくださる神がいることを悟らなくてはならない。歴史の舞台に、人が一人で頑張っている、というのであるならば、やがてどこかでこれらがすべて空しいという現実にぶち当たってしまう。だが、こうしたことを許し、祝福してくださっている神がいる、これら成果物を与えてくださった愛の神のもとにやがて帰るのだという安心感があれば、すべてに意味を感じることができるはずである。
2.眠っている間に備えられる祝福
 大切なことは、神に信頼し、神に安らぐ心を持つことだ。2節、「眠っている間に」は、神に委ねた姿勢を語るものである。かつてイエスは言われた。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(ヨハネ15:5)。私たちの人生が豊かに実を結ぶ秘訣は、第一にイエスに留まることである。常に、イエスのみことばに親しみ、イエスのみこころを行うことに心を傾けることである。神は私たちに、熱心さを期待されはしても、無駄な骨折りは望んでおられない。神は私たちに怠惰は期待されてはいないとしても、適度に休むことは望んでおられる。神は私たちが与えられた祝福を味わうように、願っておられる。
そしてさらに、家族も神の賜物である。「都上りの歌」とある以上、これは巡礼の旅において歌われた。イスラエルの民が巡礼の旅の途上で、この歌を口ずさみながら思ったことは、「矢筒で満たされた」自分たちの姿であったことだろう。イスラエルの民族の出発点であったアブラハムは、矢筒に一本の矢もなかった。そして、その矢が満たされる可能性もなく、人生は過ぎ去ろうとしていた。しかし、神の大いなる哀れみの故に、ただ契約に誠実であった神の故に、その矢筒に一本の矢が与えられ、それがやがて12本の矢となり、そして巡礼の旅を共にするイスラエルの民がいる。その矢の数は数限りない。神の約束された通りにアブラハムの子孫は偉大な国民となった。しかしこれもまた、「眠っている間に」起こったこと。神に信頼する中で、神が全て備えてくださったことである。神の祝福にもっと期待を持って歩ませていただこう。


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