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詩篇3篇

2019年10月19日 06時47分05秒 | 詩篇
3篇 「なんと」「しかし」「そして」
<要約>
おはようございます。ダビデが王位を追われて、絶対絶命の状況にあった時に詠まれた詩篇です。神の誠実さに期待し続けるダビデの信仰に教えられるところです。神は私たちに対して誠実である、そこに気づかずして、私たちの信仰もありえません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.3篇の背景
この詩篇から始めて表題がついている。ダビデの生涯における歴史的なエピソードとつながるものだ。アブシャロムから逃れた、その具体的なエピソードは2サムエル記15:13以下に詳しいが、この詩篇が生まれた背景には、ダビデの息子の反逆、息子に味方する敵対勢力の増大、神がダビデから手を引かれたという噂、そして不穏な国家情勢があった。
そのようなダビデの個人的な事情でささげられた祈りが、不思議なことに、自分とは全く無関係ではない、自分自身の祈りとして祈られるところに、この詩篇の価値がある。
まず私たちの人生には、「なんと」(1節)と困惑するような出来事がある。この時ダビデは、多くの敵対者、反逆者が増えてしまったことに困惑していた。それまでは、神によって自分が王として立てられたことを確信し、2篇のような詩を歌っていたダビデである。それが輝かしい王宮の生活から追い出され、再び、その昔サウルにいのちを狙われた時のように、荒野の洞窟を転々と逃げ隠れし、執拗に追跡されていく生活に転落していくのである。それは耐えがたい状況であったことだろう。人間が物事に対処しうる心のエネルギーは年齢によって違う。若い時には耐えられた試練も、老いてはいよいよ乗り越えがたかったりする。 
そこでダビデは訴える。「多くの者が、私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない」と(2節)。胸を突き刺すようなことばである。こんな試練にいつまで耐えられようか。けれども、そのどん底の思いの中に(2サムエル15:30)、ダビデは「しかし」(3節)と神を見上げるのである。
2.「なんと」「しかし」「そして」
ヘブル語の接続詞の「ワウ」は、普通は「そして」と訳す。ここでは、2節の「セラ」から、明らかに苦境の状況から内容が転換している文脈を汲んで「しかし」と訳したのだろう。神を信じればこそ、神にある「しかし」がある。というのも、信仰者は、聖書を通して神の守りを想起することができるからだ。迫りくる脅威に対して、ダビデも、困惑しつつも、守り手なる神を見上げている。「そして」、「私の頭を高く上げてくださる方です」と信仰を持って自分の心の向きを反転させている。
多くの人々は、「なんと」という絶望の中に躓いていることがある。クリスチャンであれば「なんと」「しかし」まで行くことはあるだろう。聖書は神が助けてくださると語っていると、神を思うところまでは行く。ところが「そして」までには至らないことがあったりする。「なんと」「しかし」「そして」ではなく、「なんと」「しかし」「しかし」になってしまうのである。神の「しかし」に立てる人は少ないものだ。そのためにはどうしたらよいのか。
3.神の忠実さに立つ
ダビデは「聖なる山」を想起している(4節)。そこは神がダビデを王としてくださったところである。また、ダビデと契約を交わしてくださったところである。つまり、ダビデは、神の忠実さを思い起こしているのである。本当に神を知っているかどうかが問題である。
ダビデは言う。「私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。」(6節)。英訳聖書では、Drawn up against meとある。Drawn upには軍隊を整列させる意味がある。つまり敵は獲物が陥落寸前であることを了解し、戦争終結の準備に入っている。ちょうど最後の開城を前に、整列して本丸入場を待っている状態をイメージさせる。なのに「私は恐れない」という。神によって立つ「しかし」の力強さがある。
人間の心に根本的な望みを与えるのは神である。苦難にあって、約束に誠実な神を認めることができれば、たとえ滅亡寸前の状況にあっても、なおも神の救いを待ち望むことができる。だが、そのような心の態度は、一朝一夕の信仰によるものではない。長い神との良き交わりの積み重ねの中で、自然に起こされてくることである。
ある雑誌にこんな話があった。小さな頃、父親と手をつないで歩くことが楽しかった思い出があったと。ぎゅっぎゅっと手を握るとぎゅっぎゅっと握り返してくる。そんな思い出があったと。けれども、あれから随分時が経ち、老いた父が入院し、よろけた瞬間、握った手は、あの時のような頑丈な手ではなかった、と。けれども、ぎゅっと握り返すと、ぎゅっと握り返してくる。小さな頃を思い出しながら、父の手を引いてゆっくり歩きながら、なんとも、神が与えてくれた時を過ごしているような気がした、という。実に、神とよき時を過ごすというのは、そういうことである。何かを理解する、何かを学ぶ、というよりも、ただ、神とのよき時を過ごすのである。その主の祝福をすべての者が経験できるようにと祈らされるところである。

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