【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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レビ記16章

2018年12月07日 08時58分04秒 | レビ記
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日は贖いの日、それは全てのイスラエルの民が断食を命じられ、全ての民の罪の赦しときよめがなされる、特別な日でした。教会にもそのように、罪の赦しときよめが強調される特別な日が必要とされることでしょう。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

16章は、贖いの日の起源を示している。内容的には、大祭司の職務を語る8-10章に続くもののようであり、11-15章は、合理的に考えると、イスラエルの民に汚れを教える挿入的なものとも思われる部分である。つまり、16章に入り再び、アロンに対して、贖いの日に関する祭司の職務が告げられるのであり、その内容が説明されている。
この日は、過ぎ越しの祭りが祝われてから6か月後に、毎年守られるもので、全てのイスラエルの民が断食を命じられ、全ての民の罪の赦しときよめがなされる日であった。既にいけにえは連日のようにささげられているのであるが、この日は、祭司たち自身と民のすべてのために、さらに徹底した贖いが求められるのである。だからこの日は、年ごとの祝宴とは全くことなり、極めて厳粛な時とされた。実際、これは、国を挙げての、極めて信仰的な、神の民としての特色を明らかにする宗教行事であった。
こうして考えてみると、今日のキリスト教会が果たして教会あげてのこれほどの厳粛な時を持っているのであろうかとも思わされるのであるが、聖書に書かれている霊的原則は、やはりいつの時代においても適用されるべきものであろう。つまり聖書は、主の臨在に触れるために、自分のみならず、自分の家族、会衆の贖いを意識し、一年に一度、徹底して、そのことだけを意識する日を設けることを命じている。
1.祭司の準備(16:1-4)
至聖所の聖さを保護するために、アロンは「時をわきまえず」(2節)聖所に入ることが禁じられた。ナダブとアビフをと襲った悲劇(10章)を再発することを避けることと、大祭司が毎年神の御臨在の前に現れるのを厳粛かつ畏怖に満ちた時とする意図がある。至聖所は、神とお会いする場であり、交わる場として比類のないものであったからだ(出エジプト25:22)。
こうして大祭司は、聖所に入ることが許される前に、罪のきよめのささげ物、全焼のささげ物をささげること、そして簡素な任務服を身にまとうことが義務付けられた。それは、祭司自身とその家族とのための贖いと、最もきよき神に近づくために必要とされる儀式上の聖さを保つためであった。
2.二頭のやぎ(16:5-10)
大祭司は、この日にささげ物を携えて至聖所に入り、アザゼルのやぎを荒野に放つ。アザゼルは、贖いの日に、一頭のやぎを選び、その上に民の罪を負わせ、アザゼルとして荒野に放つ(16:8-10)文脈で出てくることばであるが、いくつかの解釈がある。野に送られるやぎのこと、移動、解放のこと、不毛の地、荒野のことなどであるが、よくわかられていない。ヘブル語では、「完全に除去する」を意味する「アーザル」の変化形であり、罪を負わせたやぎを荒野に放し遠くへ追いやることで、完全に罪からきよめられることを意図している。大切なのは、この日、イスラエルの民は、聖めを意識し、悔い改めを求められたのみならず、そのことが実際に成し遂げられたことをこのようにして確認していたことである。それはある意味で、象徴的な儀式なのではあるが、神の完全な罪の赦しを、彼らは確認しながらいわば、人生の仕切り直しをしているのである。
3.罪のきよめのささげ物(16:11-22)
11-22節は、先に語られたことの詳細である。ここで注目すべきは、大祭司の職務は、いかなる手助けも許されず、完全に一人で行わなければならなかったことである。それは、キリストが世の罪のために贖いのみわざを行っている際に、完全に一人であられたのと同じである(マタイ27:46、マルコ15:34)。
新約聖書のヘブル書においては、このレビ記16章が、イエス・キリストの人格とみわざの比喩として語られている(9:11-12)。確かに、イエスは、聖所に入ったのみならず、エルサレムの城壁の外で、すべての民の罪を一人で背負われた、ということからすれば、イエスは大祭司であると同時に、アザゼルとして、全ての人類の罪を背負い荒野に放された雄やぎに他ならない。こうしてやぎと雄牛の血、また荒野に放されたやぎが、人々を聖めたとされるならば、ましてその行為に象徴的に重ね合わせられるキリストの尊い人格と十字架のみわざを自分自身の罪の赦しと新生のためであると受け止めることは、人生に深い刷新をもたらすに違いない。今日この一年に一度、神の臨在に与るため、聖めのために、共同体の行為として一日を費やすこの旧約的経験は、私たちの人生のどこでどのように経験されているのか。私たちは個人の聖めのためには熱心になるかもしれない。しかし、キリスト者全体の罪の赦しのために、全ての人のための罪の贖い、ということのために心を砕く時を持つ、これを、永遠の定めとして彼らが教えられたことは、決して、私たちと無縁なものではない。教会をあげてとりなしの心を持って歩ませていただこう。

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