【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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出エジプト記6章

2018年10月18日 07時03分07秒 | 出エジプト記
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。
人間、落胆の中にある時は、神も仏もない、そう思ってしまうものですね。苦しい時の神頼みとも言いますが、実際には、神様を信じるよりも否定する方にこころが向いてしまうことがあるものではないでしょうか。しかし、孤立無援の時にこそ、素直になって、目に見えない神の助け、神の愛を信じてみたいものです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。


 「私は主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった」(3節)。これまで、創世記において、神はその大能の力を豊かに示されるお方としてご自身を証ししてきた。出エジプト記においては、万物が主であることを強調している。実際、エジプトの神々も、カナンの神々も、皆無に等しい偶像で、この地に唯一の主である神をおいて他に神はないことを、イスラエルはエジプトの脱出劇によって知って行くのである。
また、神はご自身を契約に忠実な神として証しされる。かつて400年も前に約束されたことを神は覚えておられた。いや覚え続けていると言うのは、ありうることだろうが、私たちの神は、それを忘れず、その実現のためにもう一度力を注ぎだす誠実なお方である。人間の社会では、何年も年月が経てば、かつての約束を思い起こしながらも、もう時も状況も変わり、それは昔の話としてしまうことはよくあることだが、神は、一度約束されたことを曲げることはない。約束を約束として守りぬき、そのためには、一つの国を揺るがすお方でもある。
さらに神はご自身を贖う方であるとされる。「贖う」とは、「失われたものを代価を払って取り戻す」ことを意味する。ここでは、エジプトの奴隷とされ失われていたイスラエル人が買い戻されることを言っているが、それは、聖書の全体的な流れで見ていけば、アダムの罪によって失われた人類が、イエス・キリストの尊い命の代価によって買い戻されることを意味している。ただイエスは、贖いの業を行うにあたって、自らの命を差し出す以外に何も持ちえないお方であった。刑場に向かうビアドロローサ(悲しみの道)を歩ききるという苦痛を、そして十字架の磔の苦難と精神的疲弊を味わうことが、彼の贖いの業であった。つまり、お金ではなく、命で贖う、神は最も高価な贖いの業をなしてくださったのである。それだけ、神は私たちを尊く見積もっていることを意味するに他ならない。
もう、何十年も昔の話だが、祖父が、私の母の行く末を案じて、わざわざ郷里から牧師を送ってくれたことがあった。蒸気機関車の時代、約6時間はかかったであろうか。悩む母に、キリスト教の救いをと願ったようである。来訪した若い牧師は顔色が悪く、どうやら生活も楽ではなかったようだった。薄っぺらな財布を取り出し、お金を叩いて、タクシーで近くの教会まで連れて行ってくれたという。幼い私も母と一緒に連れられて教会へ行った記憶がある。ただ、母にしてみれば、その時はどんなによい話でも、悩みが深くて受け入れられなかった。だから、「神様がいるんだったらなんで私はこんなに不幸なんだ」と教会の牧師に吐き捨て、教会には行こうとしなかった。それから数年後、母は、もはや神以外に自分を救い出せる者はない、とまさにどん底に堕ちたのであるが、その時、既に癌で亡くなった祖母の、死の間際まで床の上で自分の子どもたちの救いを祈った祈りの姿を思い出したという。教会へ行こう、救いがあるかもしれない、と母は再び近くの教会の門を叩いて、結果的に信仰を持つに至った。
だから「落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかった」(9節)というイスラエルの民の気持ちは良く理解されることである。一方、牧師として、「イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう」(10節)というモーセの困り果てた気持ちも良く理解される。世の中はいかんともし難い捻じれたことが多いものだ。そういう中にいると、自分自身も愚かになり、捻じれてくるところがある。人間として一番悲しいことではあるが人間は弱い者である。けれども、そういう中で、直ぐに人間らしく生きたいと願う気持ちがあるならば、やはり神に希望を抱く他はない。人間的に自分自身を救おうとせず、神に信頼する。神の救いを徹底して待つ。神は万軍の主であるという信仰を堅くして、神にこそ望みを置くことである。

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