【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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イザヤ書58章

2020年07月01日 06時45分45秒 | 出エジプト記
58章 高めてくださる主
おはようございます。信仰生活は、日曜日の朝10時からのわずか1時間のことではありません。それを始まりとする一週間の歩みであり、人々との関りであることを、改めて教えられるところでしょう。真の霊性に目を開かれた歩みをしたいものです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神の戒め
1節、「精一杯大声で叫べ。角笛のように声をあげよ。わたしの民に彼らの背きを、ヤコブの家にその罪を告げよ」(1節)わかっているようでわからないのが自分の罪である。それは、角笛のように耳を突き刺す如く語られ、指摘されなくては気づかないことがある。57章では偶像礼拝の罪について語られたが、ここ58章では、まことの神に礼拝をささげても、それが偽善に過ぎない問題を指摘している。ゼカリヤ書を読むと、彼らは定期的に時を定め断食をし、それを誇りとしていたことがわかる(ゼカリヤ7:5、8:19)。しかし、神はそれを喜ばなかった(3節)自分では熱心の限りを尽くしている、信仰的に十分よくやっている、と思っている。しかし神はそのようには見ておられない。神を愛し、喜ぶ心から出たものではないからだ。それは、人に見せる形式的なもので、結果、互いに監視し、さばき合い、争うものとなっている。なんとも、信仰的だとか、霊的でないと、人の一挙手一投足を見てさばき合う現代の信仰者のようなものではないか。「これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか」(5節)と改めて問われるならば、答えに窮するばかり、ということはないだろうか。神はそこにおられないのだ。
2.神の期待
むしろ神が期待する礼拝や断食は、聖日の数時間の宗教行為ではなく、日々の日常生活の営みと関わるものであることが語られる(6節)。不正な取り扱いを受けている奴隷や、虐げられた者、また欠乏している者や弱められている者への心配り、家族に対する思いやり、これらはすべて、聖日の礼拝を終えて教会を出た後の一週の歩みに関わることである。つまり、神を信じ、喜ぶ信仰者に相応しい信念をもって日々生活すること、それが霊的な断食であり礼拝なのだ。神はそのような者への祝福を惜しまない(11節)。
大切なのは、信仰は、気づきが無ければ始まらないことだ。神の恵みと憐れみによって自分自身の罪に気付かされる、自分が抜け出すべき愚かさの現実に気付かされる、そしてそこから抜け出す力を主が与えてくださることに気付いていく(11節)。神は、罪を指摘されるだけではない、正しい道を歩む力を与えてくださるお方である。そこに人は気づかねばならないし、心を向けなくてはならない。そうすれば、自ずと行いも付いてくる。
礼拝は、主の創造(出エジプト20:11)と主の贖い(申命5:15)を覚え、新しい一週のために整えられる特別な日である。それは、喜びの日であり、主を喜ぶことが私たちの力であることを確認する栄えある日である。だが形ばかりの礼拝、お付き合いの礼拝、それらすべてに決別し、これが礼拝的生活の始まりであるという思いをもって集いたいところだ。そのような者を神は確かに「地の高い所」(申命32:13)を歩ませてくださる。

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