【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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イザヤ書25章

2020年05月29日 07時16分27秒 | イザヤ書
25章 待ち望まれる日
おはようございます。完全な終末預言というべきところでしょう。イザヤは、自分の時代を超えた神の祝福のことばを語り伝えています。人生において泣き叫びたい悲しみ、踏みにじられた屈辱感を抱いているなら、まずこの神の言葉に耳を傾け、信頼すべきです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.主の贖いの日
昨日も述べたことであるが、25章は、挿入的な賛美の部分となる。というのも、全世界に対して、主がご自身を表される終末の日は、神の誠実さが証される時であるからだ。神が「弱っている者の砦、貧しい者の、悩みのときの砦」となられ、「横暴な者たちの歌は鎮められる」神の正義が示される時だからである。
神が全世界にその存在を認められる終末の日は、何か恐ろしい時のように思われることがあるものだが、そうではない。恐れるのは、横暴な者たち、権力を振り回す者である。世に正義と真実を求める人々にとっては、救いの日であり、喜びの日である。それは神の救いのご計画が完成する時である。だからこそ、その日は待ち望まれるのであるし、その日が早く来るように、と願うことにもなる。
2.主の祝宴
6-9節は、その終末の日、神はシオンの山で豪勢な食事と最良のブドウ酒による宴会を開かれる。もちろんそれは神の祝福のイメージを象徴的に語っていると理解すべきだろう。だからその実質的な内容は、7節以降に語られる。つまり終末の日、それは第一に、「覆いが取り除かれる」時である。かつてモーセは、神の御前で顔の覆いを取った。それと同じように、残された新しい民も、神の御前で覆いを取る。その意味は使徒パウロが、新約聖書で明確に語っている「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます」(2コリント3:18)。そして第二に「永久に死を呑み込まれる」(8節)。パウロはこのイザヤのことばを引用し、「このように記されたみことばが実現します「死は勝利に呑み込まれた」(1コリント15:54)と、復活の祝福について述べている。第三に、その日は、神ご自身が、泣き叫んでいた者の涙をぬぐい取ってくださる時だ(8節)。罪に汚れた人生を歩むことは、涙も多い人生である。しかしその日、神はその嘆きを、喜びに変えてくださる。使徒ヨハネも、新約聖書において、神が招いてくださる新天新地の喜びを、次のように語っている。「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみ、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである」(黙示録21:4節)と。最後に、その日は、ねじ伏せられていた者の恥辱が取り除かれる時である(8節)。
10、11節は、当時神の民を苦しめたモアブ人のイメージを借りているが、要するに、主がご自身を現わされるその日は、ある人々にとっては、嫌悪すべき、恐怖の日であることに間間違いはない。しかし世に真実と正義を求めていた人々にとって、それは待ち望まれるべき日であり、心からその救いを楽しみ、喜ぶ日である(9節)。神の言葉を信頼しよう。


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