【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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出エジプト記8章

2018年10月20日 05時15分39秒 | 出エジプト記
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。パロと淡々と交渉するモーセの姿が印象的です。ある意味で、どのような事柄にも、希望はあり、神が道を開かれると単純に信頼し、淡々と道を踏み進み行くところに、確かなる主の祝福もあると言えるでしょう。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

モーセの杖がさし伸ばされると、エジプトに蛙があふれかえった。道を埋め尽くし、家の中に入り込み、ベットの上、さらには小麦粉のこね鉢にまで蛙が入り込んできた。エジプトの女神ヘクトは蛙の頭をもって描かれる。蛙は豊穣のシンボルであり、ヘクト神は、人にいのちの息を吹き入れて生かすと信じられていた。だから、蛙が山と積み上げられ死に絶えたことは、エジプト人の信仰が間違ったものに向けられていて、いのちを与えるのはイスラエルの神だけであることを示すものであった。
パロがモーセたちの要求を、初めて受け入れる気持ちになったのは、この災いからである。パロは、モーセとアロンを呼び寄せて、イスラエルの民を解放すると口走った。そこでモーセはパロに、いつ、この蛙を除き去るべきかを決めさせている。これが明らかに神から出ていることであり、神の力が確認できるように、パロの意向を汲んでいるところが注目すべきことなのだろう。パロは、イスラエルの神のみがエジプトのすべての神々に勝る存在であることをこうして学ばせられることになる。
だが、苦しみが通り過ぎ、「息つく暇が出来た時に」パロの心は再び頑なになってしまう。ちょうど、私たちが、逆境から解放されると、神に対する切実な思いも祈りも忘れてしまうのと同じことかもしれない。
「ぶよ」は、英訳では「しらみ」、新英訳では「うじ」と訳されている。「のみ」あるいは「チョウバエ」と解釈する向きもあるが、「蚊」と理解しておくのがよいのだろう。それは、清潔好きなエジプト人にまとわりつき、さらには、聖なるささげ物の獣にまでくっついたというのであるから、これは大変な災いである。呪法師は、同じ災いを起こすことができなかった。それゆえとうとう神がエジプトの神々を裁いているのだ、と認めざるを得なかった。しかしそれでも、パロの心は頑なになり聞き入れなかったとある。神の業を目の当たりにしながらも、人は神を信じることができない。それほどに人の罪は根が深いというべきなのだろう。
第五の災いは、「あぶ」である。あぶと訳されたことばは、ヘブル語でアロブ。七十人訳では「いぬばえ」シリヤ語訳では「はえ」である。また一説に太陽神の象徴である特殊なかぶと虫を意味していると言われる。つまりエジプト最強の神が、イスラエル人によって操られ、エジプト人に襲い掛かり懲らしめる災いである。しかもこの災いから、イスラエルの民が住んでいるゴシェンの地が特別に扱われ、その地にはあぶが群れないようにされた。エジプトの最強の神が、イスラエルを襲うことはなかった。神の意図的な業であることがいよいよ明らかにされるが、パロの心はますます頑なにされていく。
モーセはエジプト人の忌み嫌う動物をささげるので、荒野に退かせるようにと願う。雄牛はアピス、雌牛はイシス、雄羊はアモンに属する聖なる動物であり、それをいけにえとしてささげることはエジプト人には確かに耐えられないことであったことだろう。
ともあれ、強情なパロに繰り返しチャレンジするモーセの淡々とした姿が印象的である。多くの人は信仰生活が積み重ねであることをよくわかっていない。人生の課題は、いよいよ複雑になり、自分たちの手には負えないと思わされることがあるだろう。そこで、単純に神に信頼して、淡々と道を踏み続けていくか、それとも、ちょっと信じて、やはりだめだ、じゃまた別の物とアップダウンしながら浮草のような日々を歩むか、大きな分かれ道である。どのような事柄にも、希望はあり、神が道を開かれると単純に信頼し、淡々と道を踏み進み行くところに、物事の根本的な変化があり、成長がある。神の祝福は、日々神に従う単純さの中に与えられるのである。私たちに本当に必要なものを知っておられるのは神である。自分の判断をよしとし歩き回るのを止めて、まずは神とよき時を共に過ごさせていただくことを第一としよう。

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