【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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エゼキエル書22章

2020年09月26日 07時41分22秒 | エゼキエル書
22章 破れ口に立つ(22:1-31)
おはようございます。悪い時代に求められていることがあります。自己充足的な交わりを求めるキリスト者ではなく、とりなす祈り会に献身するキリスト者です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.エルサレムの罪の告発
 エゼキエルは、「次のような主のことばが私にあった」と、三つのメッセージを伝えています(1節、17節、23節)。それは、先の章(21章)の裁きの根本的な理由を語るものです。一体何が問題であったのか。「忌み嫌うべきわざを残らず告げ知らせ」(2節)とエルサレムの罪を具体的に述べていくのです。
繰り返される「血を流す」ということばは象徴的に使われているのでしょう。具体的に凶器で人のいのちを殺めることをしなくても、人の心を抑圧し、望みを奪い、これを卑しめるならば、それは人を殺すのと変わりはありません(12節)。また偶像を造り、神を聖とせず、神の与えられた安息を大事にしようとしないなら、これもキリストを十字架に付ける行為と同じです(8節)。先にエゼキエルは、安息日は「しるし」であると語りましたが(20:12)、キリスト者においても、そのしるしは大事にされなくてはなりません。キリスト者は、安息日を守る人です。もちろん、頑なにしるしとして守るべきは「日」ではなく「安息」です。「本日安息日につき閉店」と看板を掲げ、神の安息を味わうことを最大の喜びとし、そこに心を注ぎ、財と時を費やしている姿そのものがキリスト教会の「広告」となるのです。イスラエルの旧市街に近い目抜き通りでは、夕方、安息日が始まる日の午後からバタバタとお店のシャッターが閉まります。人はおろか犬猫の姿もなく、風が通り抜けるだけの銀座街となるのです。そして、彼らは会堂に集まり、夜は家族と晩餐、主が与えられた安息の日を楽しみます。それは彼らの「しるし」です。しかし当時のエルサレムには、このようなしるしも、また道徳的なしるしも見られなかったのでしょう。
16節は、第三版と2017では、大きく訳が修正されたところです。つまりヘブル語聖書のギリシャ語訳(七十人訳)よりの訳から、ヘブル語聖書の直訳になった部分です。あくまでも裁きを伝える文脈と読むか、七十人訳よりに、回復をほのめかす内容と読むかですが、文脈は裁きを伝えていると読むべきでしょう。
2.探し求める神
古代において、銀は、鉛の鉱石である方鉛鉱という鉱石を溶融、酸化する精錬方法で作り出されたと言われます。エルサレムにいる人々は、その方鉛鉱にたとえられるわけです。大事なのは神の裁きがただ怒りをぶちまけるものではなく、聖めること、精錬を目的とするものであったことです。しかし集めて溶かされたものは方鉛鉱どころか、青銅、鉄、鉛、すず、全く銀とはなりえない、がらくたの金属であった、ということでしょう(17-22節)。
どうしてこのような事態が生じたのか。第三のメッセージは、預言者と祭司、つまり宗教的指導者の責任が大きいことを伝えます。預言者たちは、指導者におもねり、その時代における神のことばを正しく語ろうとしませんでした。彼らによってイザヤやエレミヤの活動は妨げられ、世に光を与えるはずの神のことばは踏みにじられました。結果王も民も振り回されて第一のメッセージで語られたような事態が生じたわけです(25節)。また祭司たちも、律法によって善悪の区別を教えず、安息日を大事にせず、神の民の「しるし」を失わせてしまいました(26節)。神の関心は単なる人の良し悪しではなく、指導者の姿勢です。このような危機の時代にあって神は、ご自身の怒りに対して盾となる壁を築き、破れ口に立つ者を探し求めたが見つからなかった、と言います(30節)。かつてソドムとゴモラの町のために、神の前でとりなしをしたアブラハムのような人物は見つからなかった、というわけです。礼拝、そして祈り会に献身する者でありましょう。

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