【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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アモス書5章

2020年11月25日 07時08分55秒 | 小預言書
5章 たましいを入れた礼拝
おはようございます。コロナ禍において教会は、その本質的な機能、つまり礼拝と祈りに向かい合わされたと言えます。主を求めるいのちある礼拝をささげてまいりたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.交差配列法の意図
 5章の1-17節までには、ヘブル詩によくある交差配列法という修辞方法が使われていると言われます。意味的に対称となる構造があるのです。実際に8節「その名は主」が折り返しとなり、「哀歌」を主題とする1-3節と16-17節、「忠告」を主題とする4-6節と14-15節、「告発」を主題とする7節と10-13節、「賛歌」を主題とする8節と9節、それぞれが対称的になっている、というわけです。そのような修辞法が用いられた意図は、その対称構造の中心に置かれたことば「その名は主」を強く印象づけようとすることにあります。先の4章で、「あなたがたはわたしのもとに帰ってこなかった」を繰り返しながら、イスラエルの頑なさを指摘したアモスは、ダメ押しのごとく5章において「主を求めて生きよ」を繰り返し(4、6節)、主の存在をリアルに意識させようとしたのではないでしょうか。
2.哀歌、忠告、告発、賛歌
まず「哀歌」(1-3、16-17節)ですが、ここは、アッシリヤの侵略による壊滅的な被害が語られます。殺戮され、放置された死体、イスラエルは誰も見向きもしない、打ち捨てられた女にたとえられています。彼女は徹底して破壊され、その被害は人口の9割に及ぶのです。16-17節は、「嘆きが起こる」と意味的に対応するわけです。
「忠告」(4-6、14-15節)では、なぜそのようなことが起こったのか、主を求めなかった現実について語ります。「ベテル」「ギルガル」「ベエル・シェバ」は当時、イスラエルの民が、巡礼の地としていた場所です。人々は動物のいけにえを携えて、そこに赴き、礼拝をささげていました。しかしそれは心のない形式的、儀式的なものでした。礼拝は礼拝、生活は生活と分離し、礼拝と生活は一体ではありませんでした。大切なのは、主を求める礼拝であり、主が共にいてくださる生活です(14-15節)。
それがないからこそ、世の中は悪に染まって混迷する、アモスの告発が続きます(7、10-13節)。このような状況から正されるためには、主を求める以外にありません。主はどんなお方か、主に対する賛歌が語られて(8、9節)、この詩全体を通じて、主へと目が向けられるわけです。
3.いのち無き礼拝
こうして18節以降主を恐れるべきことが勧められます。当時、主の日は、主の顕現による救いと勝利の日と理解されていましたが、今やそれは逆です。神は、イスラエルに怒りを発しておられるので、それはさばきの日となる、と。「闇であって光ではない」と繰り返されます(18、20節)。その根本的な問題は、心無き礼拝(21節)とその礼拝による不正に満ちた生活です。コロナ禍において教会から種々の活動がそぎ落とされ、礼拝と祈りに集中させられるこの時、改めて、たましいを入れた礼拝をお献げしてまいりたいところです。

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