【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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エゼキエル書23章

2020年09月27日 07時26分19秒 | エゼキエル書
23章 オホラとオホリバ(23:1-49)
おはようございます。オホラとオホリバのたとえ、その中心は「前車の覆るは後車の戒め」と言う如く、霊的教訓を得ることです。しっかり神に心を向ける歩みをしたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.オホラとオホリバ
この章ではイスラエル北王国とユダ南王国の主に対する反逆が、二人の娘、オホラとオホリバの淫行にたとえられて語られています。オホラは、北王国の首都サマリヤを、オホリバは南王国のエルサレムを、つまりそれぞれの国を象徴するのです。基本的に、16章で語られた姦淫の女のたとえの繰り返しです。先のたとえで印象的であったのは、瀕死の状況で救い出され育った女の子が、やがて神の伴侶として迎えられ祝福の頂点を極めながらも、神を裏切り、自業自得の報いを受けた姿です。またその裏切りは、偶像崇拝、つまり、宗教的な反逆が中心でした。そして後半は、回復の希望を与えるメッセージがあります。しかし本章では、生い立ちの記事も、神の裁きの後の回復のメッセージもありません。そして中心は、他国と同盟関係を結んだ、政治的な反逆に対する裁きを語り、姉に起こった出来事を教訓としないオホリバの霊的愚鈍さを描くことです。
神とイスラエルの関係は、よく夫婦の関係に例えられます。そして、神を信じず、神に背を向けて、世俗化に走るイスラエルの姿は、姦淫に例えられます。しかしなぜオホラとオホリバという名が使われたのでしょう。オホラは「彼女の天幕」を意味し、「オホリバ」は、「私の天幕は彼女の内に」を意味する。つまりいずれも「天幕」を意味するヘブル語オヘールに関係する造語です。「天幕」は主の臨在の幕屋を指し、2人が主のものであること(4節)をあかししているのです。ですから二人は、その天幕を偶像礼拝の場とする同じような罪を犯し、同じように裁かれていく、姉妹であったと言うわけです。
2.オホラとオホリバに宣告する
ともあれサマリヤはアッシリヤやエジプトの政治的、経済的、文化的、軍事的な力に魅かれ、アッシリヤと同盟を結びました(2列王15:19-20、17:3、ホセア5:13、8:9、12:1)。それは結果的にアッシリヤの宗教を受け入れ、神の怒りと裁きを受けるものとなり、BC722年、まさにアッシリヤに攻撃され滅ぼされてしまいます(9節)。
一方妹のオホリバは、姉のオホラの運命を目撃していながら(11節)、そこから教訓を得ることもなく、同じ滅びへの道を進んだと言うわけです(13節)。実際に、ユダ南王国は、アッシリヤに同盟関係を求めたわけではないので、12節は、姉以上の淫行を行ったということを言うための修辞的強調表現なのでしょう。実際にユダ南王国が友好関係を結んだのはバビロン(カルデヤ人)で、ユダ南王国はその宗教文化の影響を強く受けてしまうのです(14-16節)。しかしそれも一時的でした、浮気者のオホリバは、エジプトの軍事力を慕い(20節)、エジプトに心を傾けたと言います(21節)。
こうしてオホラもオホリバも夫である神に背き、ほかの神々に心を向けた姦淫の罪のゆえに、その社会に堕落と不義をもたらし、神の裁きを受けるのです。霊的示唆の中心は、オホラの悲劇的結末を見ながら、それを教訓としなかったオホリバの霊的鈍さでしょう(42 節)。「前車の覆るは後車の戒め」と言いますが、オホリバ(エルサレム)は、オホラ(サマリヤ)は滅亡しても、自分は滅びないと高を括り、エゼキエルのことばに耳を貸そうとしませんでした。しかし正しい人には、わかることですし(45節)、神の裁きも免れ得ないのです(46節)。預言者エゼキエルは、彼女たちの罪の現実を指摘し、その結果が何であるかを語り続けることを命じられました(36節)。裁くのは神の務めであり、神のみことばに心を向けさせること、あるいは向けることが、正しい人の務めと言うべきでしょう。

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