後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「懐かしい仙台市の長徳寺、大満寺、大年寺の写真」

2024年04月23日 | 写真
私は昭和11年に生まれ24歳まで仙台の向山に住んでいました。向山には三つのお寺があります。長徳寺、大満寺、大年寺です。懐かしいので長徳寺、大満寺、大年寺の写真を示します。

1番目の写真は向山から見下ろした仙台市の中心街です。

2番目の写真は長徳寺の門です。特にこの場所が懐かしいのです。この門の前にバスの停留所がありバスを待っている間いろいなことを考えてたものです。
自分のアメリカ留学の予定や日常のことなど考えてたものです。
そしてこの長徳寺にはには今でも感謝しています。墓地の竹の花立てを無断でもらって割って竹スキーを作ったのです。冬の雪の坂を滑ったのです。

3番目の写真は長徳寺の本堂です。

4番目の写真は大満寺です。大満寺は曹洞宗だったので父がつきあっていました。父の実家は兵庫の田舎の曹洞宗のお寺でした。大満寺の住職さんは偉いと言って尊敬していました。

5番目の写真は大満寺の虚空蔵堂です。このお堂は寺とは離れて愛宕山の上にありました。よく中に上がり高い廊下を走り回って遊びました。

6番目の写真は大年寺です。本堂の軒に大きな魚の形の木魚がぶら下がっていなした。お坊さんが叩くとポン、ポンと澄んだ音が森にこだましていました。墓地には伊達家の歴代の墓がありました。初代の伊達政宗の墓は離れた経ケ峰にあります。
大年寺のある山にはイチゴ園があり何度か食べに行きました。
懐かしいので長徳寺、大満寺、大年寺の思い出を書きました。

「春の箱根、彫刻の森、湿生植物花園、富士屋ホテルの思い出」

2024年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム
春が来ました。野山が陽光を浴びて美しく輝いてます。小さな旅に出たくなります。そんな折には箱根がお薦めです。
箱根には首都圏から小田急のロマンスカーで湯本に入ります。登山電車で強羅、そこからケーブルカーで芦ノ湖の桃源台へ行けます。船で芦ノ湖を渡って箱根町に行きます。箱根には幾つかの美術館、レストランやホテルが沢山あります。
今日は何度も旅した箱根のいろいろな所から強羅の彫刻の森美術館と仙石原の湿生植物花園と宮ノ下の富士屋ホテルの3ヶ所を選んでご紹介したいと思います。写真は全て私共の撮ったものです。
(1)強羅の彫刻の森美術館
強羅の彫刻の森美術館は広い芝生の上に大きな彫刻が飾ってあります。その光景は感動的です。この彫刻の森美術館は長野県の美が原にある美ケ原高原美術館と姉妹館です。
さて箱根の彫刻の森の展示内容をご紹介しましょう。
入場してすぐにある芝生の広場には西洋の有名な近代彫刻家の作品が点々と展示されています。
1番目の写真はフランス人のエミール・アントワーヌ・ブルーデル(1861年ー1929年)の作品です。1918年から1922年作の巨大なブロンズ彫刻です。右から「雄弁ー大」、「自由ー大」、「勝利ー大」、「力ー大」という題の彫刻です。
2番目の写真はエミール・アントワーヌ・ブールデルの1909年作の「弓をひくヘラクレス」と題するブロンズ彫刻です。
この他の主な展示作品を以下のようなものです。
イギリス人のヘンリ-・ムーア(1898年ー1986年)の1970年作の「横たえる像:アーチ状の足」というブロンズ彫刻。
スウェーデン人のカール・ミレス(1875年ー1955年)の1949年作の「人とペガサス」という題のブロンズ彫刻。
イタリア人のジュリアーニ・ヴァンジ(1931年生まれ)の2004年作の「偉大な物語」という彫刻。
フランス人のオーギュスト・ロダン(1840年ー1917年)の1898年作の文豪バルザックのブロンズ彫刻。
このような展示場が山の斜面を上手に利用して展示してあります。そしてピカソの作品だけを展示した「ピカソ館」やステンドグラスの塔や特別展示をしている本館ギャラリーもあります。
彫刻の森に展示されている作品は膨大です。その作品一点、一点の詳しい紹介は、http://www.hakone-oam.or.jp/permanent/?id=4 に掲載されています。
そして「美ケ原高原美術館」(http://www.utsukushi-oam.jp/ )も同じような所なのです。

(2)仙石原の湿生植物花園
箱根町立の湿性植物花園では春になると水芭蕉、山吹、碇草、石楠花などが水辺に美しく咲いています。
3番目の写真は湿性植物花園の風景です。
4番目の写真は丁度今頃咲いている水芭蕉の花です。
この湿生植物花園では仙石原のススキ原の下に広がる湿地帯を昔の植生に再現しています。派手な花々はありませんが日本古来のささやかな花々が何気なく咲いて居ます。幅の広い木道が何処までも続いています。風が新鮮で、しとやかな雰囲気が心地良いのです。植物が好きな方々なら絶対に感動する所と信じています。
仙石原へは乙女峠から下る道と宮の下から登る道があります。この二つが仙石原の北端で合流して、湖尻へ登る道になる三叉路交差点があります。その交差点から湖尻方向へ100m位行くとラリック美術館が右側にあります。そこから更に500m位登ると右方向(西方向)へ入る脇道があります。仙石原の真ん中を走っている道です。
その脇道を300m位行くと左手に箱根湿生花園の正門があります。広い無料駐車場があります。花園は丁度、仙石原の一番低い湿地にあります。南西の方向を見上げると小山があり、その小山の裾にススキが原が広がっています。ススキはまだ去年の白い穂が一面に広がっています。

(3)宮ノ下の富士屋ホテル
宮ノ下の富士屋ホテルはクラシックホテルです。クラシックホテルとは横浜のホテルニューグランド、日光金谷ホテル、箱根の宮ノ下の富士屋ホテル、軽井沢の万平ホテル、奈良の奈良ホテル、それに上高地の帝国ホテルなどのように創業が明治期で、昔のヨーロッパのホテル文化を背負ったホテルのことを言います。
5番目の写真は明治18年創業の箱根の宮ノ下の富士屋ホテルの花御殿です。戦前の長い間、外人専用のホテルとして営業していたので建物は外人好みのいささか悪趣味なデザインと色彩になっています。チャップリンやヘレンケラーやマッカーサー夫妻やヨーロッパの王族たちが泊まった時の彼等のサインが写真とともに廊下に展示してあります。アメリカ占領軍の接収解除後は一般の日本人に開放されました。
6番目の写真は泊まった部屋の室内の様子です。天井がやたらに高くスチーム暖房で古いヨーロッパのホテルの部屋のようです。デスクの引き出しに聖書と仏教解説本が入れてあります。大きなテレビが違和感を与えています。家具は古い木造で使い勝手は良くありません。クローゼットがやたら大きく、浴室も古色蒼然ながら清潔感があります。
このように欠点のあるクラシックホテルに何故多くの人が泊まりに行くのでしょうか?その限りない魅力とは何でしょうか?
不思議です。人の懐旧の情をそそるからでしょうか。食事の美味しさでしょうか。
しかしクラシックホテルの最大の魅力は従業員のサービスの質の高さにあるのです。この魅力は書いて説明するのが難しいものです。
人みな優しい気持ちになれるのがホテルの魅力なのでしょう。
そして最後に強調したいことはクラシックホテルがヨーロッパ文化の良い点を2つ持っていることです。
その一つは古い昔の伝統的な建物や家具を大切にしでいることです。これは日本でも同じなので説明は不要と思います。
もう一つの最大の魅力はどんなお客でも差別しないで人間として平等に接してくれることです。
日本の旅館では客を見て態度を変える傾向が伝統的にありました。
日本のクラシックホテルではチップを渡さなくても差別しません。その上、お客と従業員が平等な人間として優しく接してくれるのです。
これこそがクラシックホテルの最大の魅力なのです。

今日は何度も旅した箱根のいろいろな所から強羅の彫刻の森美術館と仙石原の湿生植物花園と宮ノ下の富士屋ホテルの3ヶ所を選んでご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「我が町で有名人の小金井小次郎の墓と俠客の世界」

2024年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
先程、小金井小次郎の墓の写真を撮って来ました。小次郎は我が町、小金井市一人の有名人です。
まずお墓のある西念寺の写真です。

1番目の写真は小金井市 にある西念寺です。
小金井市には昔、小金井小次郎という侠客がいました。武蔵と相模にわたる縄張りに数千人の子分を擁していたのです。

2番目の写真は小金井次郎の記念碑です。西念寺にあります。

3番目の写真は小金井次郎の記念碑の角石に刻まれた組代々の総長の名前です。
小金井小次郎 (1818~1881年)は幕末・明治の俠客でした。武蔵小金井の名主、関勘右衛門の次男でした。明治に刊行された戯作「落花清風慶応水滸伝」で有名になった俠客です。
小次郎は、博打で三宅島流しになり、明治のご赦免で帰還します。しかし三宅島の貧乏な人々に同情し、有志を集め再度三宅島に渡り井戸を掘ったり農業や牧畜の振興に貢献しました。64歳で畳の上で死んだ俠客でした。
この侠客の本名は関小次郎と言いその曾孫の関綾二郎氏が小金井市の初代市長なのです。
そんな経緯もあって小金井市と三宅村は姉妹関係になっています。
そんな訳で三宅島の写真もついでに示します。

4番目の写真は三宅島の溶岩原の風景です。
出典は、https://www.cyclesports.jp/depot/detail/100841

5番目の写真は海上から見た火山島の三宅島の全景です。
出典は、https://tabippo.net/miyakejima/ です。
写真を撮りながら吃驚しました。3番目の写真のように小金井小次郎一家が代々現在まで続いていることに驚いたのです。それどころかこの侠客の関小次郎の曾孫の関綾二郎氏が小金井市の初代市長になったのです。小金井小次郎は現在の小金井市にとっても重要な人なのです。
小金井小次郎はとっくに亡くなった伝説の人で、それっきりと思っていました。
ところが驚くなかれ子分たちが小金井一家を守り代々その総長を決め博徒活動をしていたのです。
調べました。以下は小金井一家の系譜です。
小金井一家(稲川会)
十二代目小金井一家は、神奈川県横浜市都筑区東方町113-1に本部を置く暴力団で、稲川会の二次団体です。
小金井一家系譜
初 代 - 小金井小次郎
二代目 - 市村和十郎
三代目 - 西村林右衛門
四代目 - 金子萬吉
五代目 - 渡辺国人
六代目 - 石井初太郎
七代目 - 納谷富蔵
八代目 - 堀尾昌志
九代目 - 岡澤和佳志
十代目 - 鈴木隆一
十一代目 - 瀬戸正昭
十二代目 - 池田龍治

さて日本の警察は組織暴力団を消滅させようと必死の努力をしています。しかし一向に消滅しないのです。
何故でしょう?
その理由の一つは侠客の文化が日本民族の心の底に無意識ながら住み着いているからです。
赤城の国定忠治、清水次郎長、甲斐駒勝蔵、新門辰五郎などなどは小説や芝居になり日本文化の一部になっています。侠客はその地方では英雄なのです。
日本民族の文化のなかに俠客の世界が根づいているのです。これも文化の奥行きなのでしょう。
最後に皆木繁宏著、小金井新聞社発行の「小金井小次郎伝」という本をご紹介します。非常に詳細な伝記です。
ネットで検索すると中古本として容易に購入出来ます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料========================
日本の侠客の一覧表;
https://ja.wikipedia.org/wiki/侠客
幡随院長兵衛
新場小安
黒駒勝蔵
国定忠治
大前田英五郎
笹川繁蔵
新門辰五郎
飯岡助五郎
会津小鉄
清水次郎長
吉田磯吉
佐原喜三郎
相模屋政五郎
田代栄助


「ドイツ人の誇りのシュパチーレンの趣味」

2024年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様は近所を散歩なさいますか?公園を散歩しますか?
昔ドイツに住んでいたとき驚きの光景を見ました。ドイツ人は襟の小さい背広にネクタイを締めた姿で森の中を真面目な顔をして歩くのです。これをドイツ語でシュパチーレンと言ってドイツ人が誇りに思っている趣味なのです。郊外の森や葡萄畑の中にシュパチーレン専用の道が続いています。正装した男たちや夫婦が無言で歩くので静かです。

今日は平凡な散歩の趣味について書いてみようと思います。
さてその前に散歩以外の趣味のいろいろを見回してみましょう。本当に色々あります。
海を帆走するヨットの趣味や、登山などの趣味は厳しさがあり克己心を必要とします。
猟犬とともに銃を担ぎ人跡まれな山に入り彷徨する趣味もあります。老境が近づいても大型バイクに乗って山郷の山岳ロードを走る趣味もあります。
一方、文学作品を読み、分野を絞って研究して楽しむ趣味もあります。詩や和歌、俳句などを作って楽しむ趣味、音楽の演奏や美術の創作、鑑賞もあります。どれも知的な作業が必要です。
私は趣味とは特別な非日常の世界に遊ぶという性質があり、努力と集中力が必要だと信じていました。
しかし80歳を過ぎ体力も知力も無くなると日常的な平凡な散歩が味わいの深い趣味になることに気がついたのです。そして昔ドイツで覚えたドイツ人の誇りのシュパチーレンの趣味を思い出しのです。
日本ではシュパチーレン専用の道は広い公園の中にあります。
その趣味では人生の平凡な時間のうつろいを大切にして、自然を愛し周囲の人の幸せを想います。
そこで近隣でドイツの森の中のシュパチーレン専用の道に似たところを探しました。
その一つに大木が沢山茂っていて大きな樹々の下に散歩道が何処までも続いている公園がありました。
その公園は埼玉県の秋ヶ瀬公園です。自分で撮った写真を示します。




この公園は荒川の北側の河川敷にあり非常に広大なのです。東端には田島が原という日本サクラソウの原生地があります。
巨大なプラタナスやユリノキやメタセコイヤの樹木が亭々と聳えています。その樹々の下に散歩道がえんえんと続いています。空気が新鮮で空が高く広いのです。
こんなに広い公園は首都圏では都立水元公園と国立昭和記念公園しか知りません。
公園の広さを示すために公園内の施設をご紹介します。
軟式野球場11面、ソフトボール場6面、サッカー場2面、ラグビー場1面、テニスコート22面、バーベーキュー場50区画、977台分の駐車場などがあるのです。
しかし公園があまりにも広いので散歩していてもこれらの施設は樹々に隠れて見えないのです。
見えるのは芝生の広場と大きな樹木だけなのです。
そんな樹木の中を歩いていると自然に人生のあれこれを想います。邯鄲の夢と思います。そして人生で一番大切なことは何かと考えます。
そうして自然を愛し周囲の人の幸せを想うことが非常に重要なことだと思うのです。
老境に至って初めて散歩の趣味の楽しさが分かりました。しみじみと分かったのです。
以前は仕事に打ち込むこと、仕事の上で素晴らしい成果を上げることが重要だと思っていたのです。自然の美しさを深く理解していませんでした。家族や友人を大切にするのを怠って自分の専門分野に埋没していたのです。それは恥ずかしい生き方でした。公園を歩きながら樹木の姿を見ているとしみじみそう思います。
「公園の散歩」も趣味として味わい深いと感じたのです。これも体力も知力も衰えたおかげで理解出来たことです。
ですから日常的で平凡な趣味の中にも人生の大切なものが隠されていると気が付きました。
昔見たドイツのシュパチーレンの趣味も理解出来たような気分になりました。
賢い方々はそんなことを始めからご存知です。愚かな私の独り言を書いたに過ぎません。失礼しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「ドイツの黒い森で育つ野生のルピナス」

2024年04月22日 | 写真
昔に南ドイツのシュツットガルトに住んでいました。西側には黒い森があります。郊外の草原をよく散歩したものです。そこにはルピナスが一面に咲いていました。懐かしい光景です。インターネットに「ドイツの黒い森で育つ野生のルピナス」という写真集があります。(ドイツの黒い森で育つ野生のルピナス - ルピナスのストックフォトや画像を多数ご用意 - ルピナス, 花, ルピナスブルーボネット - iStock (istockphoto.com) )
4枚の写真をお借りしてお送り致します。



「ドイツ留学で受けた影響」

2024年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
老境に至って自分の人生を振り返ると、外国への留学で深い影響を受けたことをつくずく思います。
以前に「若い時のアメリカ留学で私の受けた影響」という記事を書きました。
留学のおかげで私はアメリカが大好きになりました。
アメリカ留学は24歳から26歳まででしたが、34歳のときドイツに留学し、今度はドイツにも魅了されました。
外国に住むと、その国が好きになってしまうのです。
今日はドイツでどのような影響を受けたか二つほど書いてみます。
まず初めに私が3ケ月住んでドイツ語を集中的に勉強したローテンブルグの風景写真と隣町のバンベルグのをご紹介しましょう。

1番目の写真はローテンブルグの夜の風景です。
写真の出典は、
https://beautiful-photo.net/medieval-town-of-rothenburg-ob-… です。

2番目の写真はローテンブルグのルクト広場と市庁舎です。出典は、https://washimo-web.jp/Trip/Rothenburg/rothenburg.htmです。

3番目の写真は「市庁舎の塔」から眺めたローテンブルク市内の家並みです。出典は、https://washimo-web.jp/Trip/Rothenburg/rothenburg.htmです。

4番目の写真は世界遺産に登録されている「バイエルンの真珠」と称えられるバンベルクの風景です。
出典は、https://tabizine.jp/2017/09/25/146378/2/です。

5番目の写真は木造家屋が並ぶ、レグニッツ川沿いの風景です。出典は、https://tabizine.jp/2017/09/25/146378/2/です。
ドイツでの生活は1969年夏のにローテンブルグでの3ケ月間のドイツ語研修から始まりました。そしてその後、シュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年間の研究生活をしました。シュツットガルト市に移るとすぐに家内と子供2人を呼びました。
ドイツは気候も社会も若い頃留学したアメリカのオハイオ州とは全く違うのです。
同じ欧米人なのにアメリカとドイツでは人々の考え方が驚くほど違うのです。
「ヨーロッパの階級社会や伝統社会から逃れた人々がアメリカに行って国家を作った」という一行の文章の意味がしみじみ理解出来るのです。
それはさておき、まずはじめに受けた大きな影響を書きます。
それはドイツの暗くて寒い冬の影響でした。その長い冬を体験した結果、ドイツの文化を理解するためにはこの冬の厳しさを考慮に入れて考えるべきと思ったのです。
これは重要なことで、その後、私がいろいろな外国の文化や社会を考える時、必ずその国の天候や自然条件を考慮に入れるようになったのです。
例えば北欧の観光写真を見ると、ほとんど全てが夏の晴天の日に撮ったものです。そんな輝く晴天の日は年間でほんの数日しか無いのです。北欧の人がそんな夏の日に感じる歓喜が想像出来ようになったのです。
内陸のヨーロッパの人々が明るい地中海沿岸のイタリヤや南フランスに強く憧れるのは暗くで長い冬のせいなのです。
私が外国を理解するとき天候や自然の条件を考慮に入れるように変わったのです。
もう一つドイツで受けた大きな影響は歴史に関する考え方です。
不思議なことにドイツの研究所の実験室に必ず冷蔵庫があってビールが沢山入っています。実験に疲れたとき1、2本水がわりに飲むのです。そんな折りの雑談の話題は決まったように中世の「30年戦争」のことなのです。
確かなことは忘れましたが1600年代にドイツの町や農村を徹底的荒廃させ人口の何割かが殺された内戦のことです。
戦争の発端はカトリックとプロテスタン宗派との争いでしたが、すぐに領土をかけた地方の領主同士の欲得にからんだ戦争が30年間も続いたのです。そしてフランスやスエーデンやウイーンのハプスブルグ家の軍隊を巻き込んだ大戦争になってしまったのです。誰が敵で、誰が味方か分からない混戦になってしまったのです。丁度、現在の中近東の戦乱状態に似ているのです。
私は日本の学校で「30年戦争」がそんなにドイツにとって重要だとは習いませんでした。ですから「30年戦争」など記憶になかったのです。
ところがドイツ人はビールを飲むたびにこれを話題にして喧々諤々の議論をするのです。
そこで判ったのです。人々が習う歴史とは国々によってまったく違うという事実です。
この世に絶対的に正しい歴史などは存在しないのです。
「歴史は権力者に都合良く書かれている」ということは昔から知っていました。
しかし歴史とは国々によってまったく違うという事実を体験的に理解できたのです。
それでは「30年戦争」の時代は誰が権力者だったのでしょうか?それが判らないからビールを飲んだ時の格好の話題になったのでしょう。
ビールと言えば面白いエピソードがあります。
「30年戦争」の時、ローテンブルグを包囲した敵将が市長に難題を言います。この大ジョッキのビールを一気に飲み干したら町は焼き尽くさないと言ったのです。市長は喜んで飲み干し、町を救ったのです。現在も市庁舎の上にビールを飲む市長の動く人形があります。
アメリカでビールを飲んだ時の話題はプロ野球やアメリカン・フットボールに関することが多いのです。あるいは趣味の話が多いのです。歴史が話題になったことを私は知りません。これもドイツ人とアメリカ人の違いの一つですね。
ドイツ留学で受けた影響はもっといろいろありますが、今日はこれぐらいにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「日本の破滅へ導いた日独伊三国同盟」

2024年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
日本は1945年8月15日に米英連合軍に無条件降伏をしました。日本は全土が米英連合軍に占領されます。日本の歴史開闢以来の出来事です。
この破滅を招いたものの一つは日独伊三国同盟でした。
今日は日本の破滅へ導いた日独伊三国同盟が結ばれた 歴史を簡略に書いてみたいと思います。
日独伊三国同盟は、1940年(昭和15年)9月27日にベルリンの総統官邸で調印された日本、ドイツ、イタリアの軍事同盟です。
 日独伊三国間条約の始まりは1936年(昭和11年)の日独防共協定でした。
続いて1937年(昭和12年)には日独伊防共協定が出来ました。三国の協力関係が具体的に明記され、アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにおける独伊の指導的地位の相互確認をしたのです。これで調印国いずれか1か国が他国から攻撃を受けた場合に相互に援助するとの取り決めがなされたのです。
 このため、日本はイギリスやオランダとの関係が悪化し、アメリカ合衆国の対日感情も悪化することになったのです。
このように 日独伊三国同盟は日本にとって危険な同盟になったのです。
何故こうなったのでしょうか?
その原因は独ソ戦でドイツが圧倒的に強く、モスクワ近郊まで占領したからです。日本は勝ち馬に乗ったのです。
独ソ戦は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけて、ナチス・ドイツを中心とする枢軸国とソビエト連邦との間で戦われた戦争です。
 1941年6月22日に突如戦争状態となった。
戦独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1,470万人、ドイツ兵が390万人でした。
民間人の死者を入れるとソ連は2,000 - 3,000万人が死亡し、ドイツは約600 - 1,000万人でした。
ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いばかりか、人類史上全ての戦争・紛争の中で最大の死者数を計上した のです。
この間、 日独伊三国同盟の推進者はドイツ駐在大使の大島 浩 でした。、大島はドイツとソ連とで戦争が起きることを察知し、ベルリンに来ていた松岡洋右に対して、日ソ不可侵条約締結を行なわないよう進言します。しかし結果的に松岡は大島のアドバイスを無視して、日ソ中立条約を締結したのです。 大島はドイツのナチスの政策に心酔して、ドイツ駐在中は「姿勢から立ち居振る舞いに至るまでドイツ人以上にドイツ人的」との評価を受けていたのです。彼も日本の運命を悲劇的にした一人でした。

添付の写真は松岡洋右と会うヒットラーとその他は独ソ戦の様子です。

今日は日本の破滅へ導いた日独伊三国同盟のことを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人) 

「カトリック」と「プロテスタント」の違いの実に分かりやすい説明

2024年04月21日 | うんちく・小ネタ
「カトリック」と「プロテスタント」の違いの実に分かりやすい説明を見つけましました。感動したので転写致します。

上馬キリスト教会ツイッター、https://diamond.jp/articles/-/305015 よりの転写。
「カトリック」と「プロテスタント」の違いを説明できますか?
「キリスト教」には、じつに多くの「教派」があります。
 最も多くの方が知っている教派は、何といっても「プロテスタント」と「カトリック」でしょう(もう一つ、日本ではあまり知られていませんが「正教会」という大きな教派もあります)。

「教派」はこうして分かれていった
大ざっぱに説明してみます。
 始まりは、イエス様とその弟子たちが建てた「キリスト教」です。
 後にキリスト教はローマ帝国の国教になりましたが、このローマ帝国が東西に分裂。そのため、教会も東西に分かれることになりました。
 やがて東西の教会は別々の教義を持つようになり、1054年にそれぞれの教会のトップがお互いに「君らはキリスト教じゃない」とケンカ(相互破門)して、「東方教会」と「西方教会」に決定的に分裂しました。
 これを大シスマといいます。「大シスマ」という言葉は世界史の教科書にもたぶん太字で書いてあります。ちなみに、「シスマ」とはラテン語で分裂という意味です。
 この「東方教会」が今の「正教会」で、ロシア正教・ギリシア正教などの「◯◯正教」と呼ばれる教派です。
「西方教会」はその後、有名なマルティン・ルターさんの宗教改革により、「カトリック」から「プロテスタント」が分かれました。
 まとめれば「東が正教会、西がさらに分かれてカトリックとプロテスタント」ということです。
「カトリック」と「プロテスタント」の違い
 まず大きな違いがローマ教皇の扱いです。
 カトリックではローマ教皇を教会のトップであり、特別な存在であると扱いますが、プロテスタントでは「人間は神様以外みんな同じ」と考えるのでローマ教皇を特別な存在として扱うことはありません。
 イエスの母マリアについても、同じ理由でプロテスタントでは「イエス様を産んだとはいえ、一人の人間でしかない」と捉えるのに対し、カトリックでは「聖母マリア」という特別な存在として捉えます。ですから教会に行ってみて、マリア像があったらカトリックの教会、なかったらプロテスタントの教会と判断することもできます。
 しかし、両者の最も簡単な判別方法は、聖職者の呼び方です。カトリックでは「神父」とか「司祭」と呼ぶのに対し、プロテスタントでは「牧師」と呼びます。
 また日曜日にカトリックでは「ミサ」を行いますが、プロテスタントでは「礼拝」をします。ですから教会の看板に「ミサ」と書いてあるか「礼拝」と書いてあるかでも、ほぼ100%見分けることができます。

以上を書いた著者のMAROさんをご紹介します。
MARO、1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。
キリスト教ではない家に生まれ、23歳のときに洗礼を受けた「クリスチャン1世」。ツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」と「ふざけ担当」のまじめの方でもある。2015年2月からキリスト教を面白おかしく紹介しはじめたところ10万人以上のフォロワーを獲得した。
最新刊は『上馬キリスト教会ツイッター部の キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)。「ふざけ担当」LEONとの共著に『上馬キリスト教会の世界一ゆるい聖書入門』、『上馬キリスト教会ツイッター部の世界一ゆるい聖書教室』(ともに講談社)がある。 

写真は函館のカトリック元町教会の写真です。
最初の教会堂は1859(安政6)年創建。現在の建物は1923(大正12)年に再建。大聖堂内の祭壇一式はローマ教皇から贈られたものです。

「今日の復活節第4主日のミサはイグナチオ教会からの動画配信であずかりました」

2024年04月21日 | 写真
イグナチオ教会の今日の復活節第4主日のミサにあずかりました。
イグナチオ教会のミサの風景写真をお送り致します。


「2024年4月21日 復活節第4主日のミサ動画配信,」

2024年04月21日 | 日記
2024年4月21日 復活節第4主日のミサ動画配信,のご案内です。
今日のミサの動画配信は、
https://www.youtube.com/watch?v=Ozkbr1RTngY です。
司式はデニ神父です。

添付の写真は五島列島のカトリック井持浦教会です。
明治30年(1897年)建立です。

井持浦教会は五島の他の教会と同じく江戸時代末期に大村藩から五島に移り住んだ潜伏キリシタンにより信仰の歴史が始まりました。
井持浦教会の建っている玉之浦一帯は、五島に迫害の嵐が吹き荒れた明治初期、唯一迫害を逃れた地区です。
地元の伝承によると、大村藩が側近のキリシタン鶴田沢右衛門を五島に流刑にしたところ、五島の藩主は領地であった玉之浦の立谷(大宝寺所有)を与え、ここに住むことをゆるしました。
また玉之浦地区は島の中心地から非常に遠隔の地理的条件もあり、キリシタンの探索や迫害を逃れた理由ではないかのことです。 

「日本の神社信仰の風景」

2024年04月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日です。みなさまお元気でしょうか。日曜日には宗教に関する記事を書くことにしています。
そこで今日は日本人と神社とのかかわりについてスケッチ風に簡単に描いてみたいと思っています。
神社や神道は日本古来の宗教です。山や木や、もろもろの神様や偉い人達がご神体として祀ってあります。家内安全や五穀豊穣を願ってお祈りします。
多くの日本人は神社を遊び場にして育ったと思います。家内安全を祈った場所でした。この様な場所を持っている日本人は幸せだと思います。
このように日本人と神社や神道とのかかわりは軽やかで一見重要でないようにも見えます。
しかし神社や神道は日本民族の基底にある独特な文化の一部なのです。
以下では数多くの神社の写真と富士山信仰の宗教的な登山の風景写真を掲載します。
神社の写真は九州の祐徳稲荷神社と京都の賀茂別雷神社と北海道の札幌稲荷神社の写真です。
祐徳稲荷神社は何年か以前に行きましたが日本一豪華な神社です。神主さんたちが沢山いました。とても子供が境内で野球をして遊べるような雰囲気ではありませんでした。故郷の神主さんがいない質素な神社を懐かしく思い出しました。

1番目の写真は日本一豪華な九州の祐徳稲荷神社です。

2番目の写真は京都の賀茂別雷神社です。賀茂別雷神社の写真の出典は、http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005602.html です。

3番目の写真は北海道の札幌の伏見稲荷神社です。

4番目の写真は富士山の宗教的登山の風景写真です。出典は、http://www.fusokyo.org/activity.html です。
さてこの4番目の写真の富士山の宗教的登山の風景は珍しいと思いますので、少し説明を加えておきます。
富士山の宗教的登山とは富士山を神と信じ、富士山へ登ることです。登れば神のふところに抱かれて、神と自分が一体になるのです。自分の人間としての汚さを洗い流してくれるのです。「六根清浄、お山は晴天」と唱えながら杖をつき、白い装束で一列になって登るのです。
それは深い宗教的な境地なのです。
このように神と自分の合体感を得る体験はどんな宗教でも重要な事としています。

5番目の写真は近所にある小金井の稲穂神社です。近所なのでよく行きます。

今日は日本人と神社とのかかわりについて簡単に描いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「藤の花が今年も華麗に咲きました」

2024年04月20日 | 写真
小金井公園には長い藤棚があります。藤の花が咲くと毎年写真を撮りに行く藤棚です。先ほど今年の藤の花の写真を撮って来ました。美しい藤の花をご覧ください。


「ヨットの趣味のおかげで視野が広くなった!」

2024年04月20日 | 日記・エッセイ・コラム
私は50歳で小型ヨットスクールへ通い、53歳の時、琵琶湖へ行ってヤマハ19という中古のクルーザーを初めて購入しました。長さが5m90cmの小さなクルーザーで操船が簡単そうでした。
そのヨットを水郷汽船(株)経営の霞ヶ浦マリーナへ陸送しました。
ヨットをクレーンで吊って水に入れてくれたのがマリーナの佐藤敏郎さんです。それ以来、23年間、2012年の秋にヨットを止めるまで佐藤さんにお世話になったのです。
優しい性格でいつも笑顔を絶やさずヨットの修理の仕方や扱い方を根気よく教えてくれました。ヨットを山小屋の名と同じあけび号と命名しました。
家内とよくセイリングしたものです。1番目の写真はその時の様子です。

1番目の写真は家内と一緒に帆走中のあけび号です。
霞ヶ浦で元気に活躍していました。

2番目の写真は群馬県のカヤシマさんに譲った「あけび号」です。綺麗に塗装してくれて大切に乗っています。
「あけび号」を手放してから今度は大きな「ルナ3世」号を買いました。

3番目の写真は「ルナ3世」号です。長さ26フィートです。後方にプレイデッキがあるので家内が気に入ったようです。
4番目の写真は「ルナ3世」号のキャビンの炊事コーナーです。
霞ヶ浦でヨットをしているといろいろな友人が出来ました。趣味の視野も広ガリ海での帆走に興味が湧きました。
5番目の写真は千葉県の保田魚港に係留してあったハンスクリスチャン41型のヨットです。2009年4月に初めて艇長のHootaさんとを一緒にビールを飲んだ時の写真です。Hootaさんは「Hoota's Yacht Life」、https://hoota.blog.so-net.ne.jp/ というHPを書いていました。
6番目の写真は駿河湾の沼津に近い漁港に舫っているHootaさんが艇長をつとめるハンスクリスチャン41です。この日私も駿河湾のセイリングを楽しむことが出来ました。
7番目の写真は駿河湾の風を受けて疾走するハンスクリスチャン41です。
8番目の写真は東京湾上のババリア39型のヨットから見た東京の風景です。この船のオーナーのOkumaさんに乗せて貰ったのです。2009年の5月のことでした。
9番目の写真は同じOkumaさんのヨットで三浦半島の突端の三崎港から東京の浜離宮わきの係留地までセイリングした時の写真です。背景は房総半島です。
私のヨットの趣味は葉山や江の島で小型ヨットのディンギイで2年、霞が浦でYAMAHA-19での10年、「ルナ3世」号での13年間、合計25年間の趣味でした。
最後に何故、ヨットの趣味で私の視野が広がったか理由を書きます。
それまでは金持ちの人を差別し、彼等の「金持ち趣味」を軽蔑していたのです。自分の金持ちへの嫉妬心です。世の中には金持ちと貧乏人しかいない。私は誇り高い貧乏人だと威張っていました。
しかし金持ちだけがしていると思っていたヨットの趣味には質素な暮らしをしながらお金を工面してヨットに乗っている人が大部分なのです。
ヨットの世界には金持もそうでない人も完全に平等な世界なのです。
その上、海で豪華なヨットに乗っている人は小さなヨットに乗っている人をほとんど無償で豪華なヨットに招待してくれるのです。
海で豪華なヨットに乗っている人々は別世界の人だと思い込んでいた私の間違いを思い知ったのです。
このようにヨットの趣味を続けながら親切な人に沢山出会いました。
そのお陰で私の視野がすっかり広がり人間を見かけによって差別しないようになったのです。
他人を差別しなければ皆と仲良くなれます。それが幸せと感じるようになりました。ヨットの趣味のおかげで視野が広くなったのです。趣味はヨットの趣味のおかげで視野が広くなった

今日は私のヨットの趣味をご紹介致しました。その趣味のお陰で視野が広くなったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「私の人生の一番大きな出来事は結婚だった!」

2024年04月20日 | ブログ
昨日の記事は、「私の人生の一番大きな出来事はオハイオ留学だった!」というものでした。しかし考えてみると人生での大きな出来事は他にもいろいろあります。
今日は、「私の人生の一番大きな出来事は結婚だった!」という記事を書きたいと思います。しかし差し障りがある書きにくい話題です。あまり深刻に考えないで軽い気持ちで書きながします。
私は見合い結婚をしました。幸運にもいろいろな点で良い女性と一緒になりました。優しくて賢い女性です。しかし女としてのあまり尊敬出来ない特徴も持っています。
このように抽象的に書くと何や何だか分かりません。そこで具体的に書きます。
妻は戦前に鎌倉で生まれ鎌倉の幼稚園と小学校に行きました。群馬県の下仁田に疎開しその後は東京に戻り青山短期大学と国学院大学を卒業しました。
日本文学をよく知っており特に源氏物語を読み込んでいました。そのおかげで私も耳学問程度に源氏物語を知るようになったのです。
妻の実家は昔の日野町の地主でした。育ちの良い女性で特に言葉が丁寧で綺麗です。東北で生まれ育った私の東北弁と比べて綺麗な言葉でした。
体は小柄ですが均整がとれています。運動が好きで老いても姿勢が良いのです。
料理教室を途中で止めたので料理はまあまあです。
私が今でも感謝していることはアメリカとドイツへの留学に同行してくれたことです。どこでもその地の生活を楽しみ、娘と息子を健康に育てあげたことに感謝しています。
妻の欠点は気位が高いことです。実家が昔の日野町の地主だったので時々私を見下したような態度を取ります。時々私の乱暴な態度をたしなめます。
私の父はお寺の出で東北帝大の教授でした。しかし戦後の困窮のなかで育った私は育ちが悪いのです。困ったものです。

今日は自分の妻のことを書きました。まあまあの妻と一生共に暮らせて幸運でした。

今日の挿絵代わりの写真は近所の桜と自宅の庭の草花です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「ウグイスが鳴く武蔵野公園まで散歩」

2024年04月19日 | 写真
久しぶりにウグイスの鳴声を聞きながら散歩をしました。以前は自宅の庭木によく来て鳴いていたものです。家々が立て込んでから来なくなりました。本物の春に遭ったような気分になりました。