さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

(13)カルタゴとローマ

2020-02-09 | ユダヤ人の旅

ディドの死

ユダヤ人たちはイスラエル王国がBC10世紀に二つに分裂し、その後アッシリア、新バビロニア、ペルシャ帝国そしてセレウコス朝シリアと時代の荒波を受け、離散したりしながら生き抜いていた。その間に二つの強国が地中海の北と南に生まれていた。カルタゴとローマである。BC9世紀の後半、東地中海にあるティルス(現レバノン)の王女ディドは共同統治者の兄に夫を殺された上、自分も命を狙われた。財宝を船に積み込んで脱出、地中海をさまよった末、南地中海の町チュニスにたどり着いた。ディドは新しい町という意味で「カルタゴ」の町を建設する。

ディドは二人の最高官、貴族、市民に一定の権利を与える基本法を作り統治した。この法律は後にアリストテレスが絶賛するほど優れたもので以後7世紀に渡りカルタゴの繁栄を支えたと言われる。そのカルタゴにある日嵐にあって地中海をさまよった外国船が漂着した。ギリシャに滅ぼされ、祖国を脱出し、イタリア半島を目指して船出したトロイの王子アイネアスの船だった。ディドと美青年アイネアスは恋に落ち、結ばれた。しかし、イタリアで建国する使命をもつアイネアスはディドと別れる決心をする。アイネアスを失っては生きていけない程愛したディドは必死にとどめようとしたが、ついに別れの時はきた。一行の乗る船が港を離れるのを見たディドはアイネアスからもらった短剣で胸を刺した。アイネアスの子孫がやがてローマを建国したとする伝説がある。

 

 地中海

やがて、優れた航海術を誇るカルタゴは地中海貿易を独占するほどの経済大国になった。地中海にあるマルタ島、シチリア島、サルディーニャ島、コルシカ島にも進出した。ところが、これらの島にはもともとギリシャ植民都市があった。カルタゴは次々と支配下にしていったが、とくにシチリア島(四国の1.4倍ある)ではギリシャの勢力が強く、西はカルタゴ、東はギリシャと対立した。BC480年~BC280年には3度に渡るシチリア戦争が起こっている。ヘレニズム3国が成立するBC300年頃には、カルタゴの全盛期でシチリア島もメッシーナを除いてはほぼカルタゴの勢力圏になっている。

一方でイタリア半島を中心にローマの勢力が増していた。ローマはBC5世紀に国王に代わって共和制を始め、執政官、元老院の制度が確立し市民の権利が高かった。BC390年、ケルト族による来襲があり一時ピンチを迎えたが、その後はギリシャの植民都市を次々と併合、BC270年には全イタリアを統一した。BC265年、シチリア島でカルタゴがシラクサと同盟しメッシーナを侵攻すると、メッシーナはローマに救援を求める。ここからローマとカルタゴ、地中海を巡るライバル同士の対決、120年に渡る「ポエニ戦争」が始まる。ポエニとはカルタゴの出身地ティルス方面に住む民族フェニキア人に対するローマ人の呼称である。

 

 

左ハンニバル(BC247~183)と右スキピオ(BC236~183)

ローマはメッシーナからの救援要請に答え2万の軍隊を派遣、シラクサ軍を破りカルタゴのシチリア島の都市を次々攻略した。カルタゴ軍は傭兵が中心でローマに比べて士気が低かった。ローマ軍の勢いは止まらず、カルタゴ本国にも迫る。危機に瀕したカルタゴ軍はスパルタの武将を指揮官に据え軍隊を立て直し巻き返しを図る。北アフリカ戦線ではカルタゴ軍がローマ軍を破り、戦闘はシチリア島に戻され、雌雄を決する激戦が繰り返された。開戦から23年、ローマはシチリアからカルタゴ軍を追い出し、属領とする。第一次ポエニ戦争はローマの士気がカルタゴを制圧した。サルディーニャ島やコルシカ島もカルタゴから離反した。

カルタゴ軍は黙っていなかった。BC218年、名将ハンニバルがスペインから37頭の象、6万の兵を率いて、アルプスを超えイタリア半島北から攻めてきた。ガリアの兵を自軍に加え、向かうところ敵なしの勢いでローマ軍を次々と破った。ローマ軍は壊滅の危機に瀕しつつも持久戦で持ちこたえる。BC203年、今度はローマの名将スキピオがカルタゴ本国を奇襲、あわてたカルタゴはハンニバルを呼び戻した。カルタゴ近郊のザマで二人は対決しローマ軍が勝利した。カルタゴは全ての植民地を失った上、莫大な賠償金を課せられる。ところが、50年かかる筈の賠償金を10年で完済したカルタゴに脅威を抱いたローマはBC146年、カルタゴを壊滅する。市民全員を虐殺し、都市が2度と復興しないように塩をまいたという。

~~さわやか易の見方~~

「風沢中孚」の卦。中孚(ちゅうふ)は誠心誠意のこと。誰にも理解されなくとも至誠は天に通ずる。至誠あればこそ大河を渡る危険を犯そうとも天が味方するもの。孚という字は親鳥が卵を暖めて孵化を待つ象である。結果を思わず、精一杯努力していけば良いのである。

ローマは宿敵カルタゴを制した後、地中海そしてシリア、エジプトをも支配下に収めた。ポエニ戦争は正にローマの試金石だった。第二次ポエニ戦争はハンニバル戦争とも言われる。父ハミルカルは9歳の息子ハンニバルを神殿に連れていき、生涯ローマに復讐することを誓わせたという。若きスキピオは戦場でハンニバルの戦術を学んでいた。二人の名将は互いに国の運命を担って生涯を生きた。雌雄を決したザマの戦いの後、ハンニバルはカルタゴの再興にかけたが市民の強力が得られずシリアに亡命する。シリア軍を率いてローマ軍と戦うが再度スキピオに敗れた。ローマの追及は厳しく、黒海沿岸ビティニアで毒をあおって果てた。救国の士スキピオもその年に世を去った。反対派の陰謀で失脚し「恩知らずの我が祖国よ、お前は我が骨を持つことはないだろう」と自らの墓石に刻ませたという。

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